「おーい」
主人が呼んでいます。
わたしは、洗い物を止め、エプロンの裾で手をふきながら裏庭に向かいました。
主人はわたしの姿を見ると、両手を広げ、それを胸の方に持っていきます。
「はい、はい。そうですね。冷え込んできましたものね」
わたしは、押し入れに向かい、春先にしまったちゃんちゃんこを取出しました。少しナフタリンの臭いがします。
ちゃんちゃんこを着た主人は、裏庭で柴犬のジロウと仲良く盆栽の手入れに余念がありません。
「おーい」
また、声がしました。
今度は、左手を丸めそれを口に運んでいきます。右手を胸のポケットにあて、トントン叩き、首を横に振ってから、カニの指のように人差し指と中指を伸ばした右手を、やはり口に持っていき大きな息を吸っては吐く仕草をしました。
「はい、はい。そうですね。お茶にしましょうね」
わたしは、床の間に戻ってショートピースを探し、お勝手へと向かいます。
「あの人ったら、いつも『おい、おい』ばっかり。わたしの名前、呼んだことあったかしら」
そんなことを考えながら、わたしは裏庭の縁側にちゃぶ台を運びます。
「あらっ!そう言えば、わたしもあの人の名前を呼んだことなかったかしら。いつも『はい、はい』ばっかりで……。ウフフ。おあいこかしらね」
わたしは、クスリ笑いながらお茶を入れました。
主人が細い目を、目一杯広げて、わたしの顔を覗き込んで言いました。
「おい、おい」
わたしは、また声をあげて笑いそうになるのをこらえて返事します。
「はい、はい」