ロンドンを南下すると、いかにもヨーロッパ風のクロイドンの街並みが見えてくる。
テニスで有名なウィンブルドンを脇目に、さらに南下すると、イギリス特有のなだらかな丘陵のある田園風景が広がってくる。
セルスドン・ホテルは、そんな丘陵の上に立つホテルだ。
某侯だか、女王の別荘だったか忘れたが、ホテルというより、中世の城だ。
敷地には、18ホールのゴルフコースと乗馬コースがあるから、ひょっとすると、敷地は東京23区の一つ分位あるかも知れない。
部屋は料金にもよるが、概してこじんまりとしている。
かつて、『日本人はウサギ小屋に住んでいる』という、かなり自虐的な言葉が誠しやかに流布された時期があった。
おそらく、そうしたことを言っていた文化人と称する人たちは、庶民の暮らしを知らないか、自分を痛めつけることに喜びを感じる方たちに相違ない。
概して、ヨーロッパ、特にイギリスの街中の一般住宅などは、東南アジアの中間レベルの人たちの住む家より狭く、かつ、質素な生活をしている。確かに郊外に出れば、お城級の館、広大な敷地に何棟もの畜舎のある家も目にすることだろう。
しかし、それは日本でも同じだ。北海道などに行けば、平原に多数の畜舎とサイロある風景にであえる。
自虐的フレーズに酔いしれる方は、日本の田舎を知らないか、たまたま研修という名の実質は観光旅行で、国賓並みの扱いを受けたと勘違いしてしまった、ある意味で素直な、ある意味で哀れな人たちなのかもしれない。
さて、郊外には多々あるシャトー級の建物の中でも、確かに、このセルスドン・ホテルは、いささかレベルが違う。
かしこまった応対、キングダム・イングリッシュの中に、今は過去のものとなった、古きよき時代であったろう大英帝国の残像が見え隠れする。
赤レンガに絡まる蘿に射す、イギリス特有の陰気な陽の光が、一層それを際立たせている。
その日の朝は、ガトウィック空港から午前の便でジュネーブに向かわなければならなかったから、私は朝の散策を早目に切り上げ、ホテルへ戻る途中だった。
と、私がそれを、ひづめの音と認識する前に、目の前を黒光りする馬体が駆け抜け、一瞬私はよろめいた。
跳ねあげられた泥を見る。
まあ、散歩後には着替えるつもりだったから、仕方ないだろう。
ほっ、と胸をなでおろし人心地つく。
と、シルバーブロンドの髪、クリーム色と茶色のクロスしたネルシャツに身を包み、黒いブーツをはいた少女が目の前に立っていた。
瞳は、淡いブルーを含んだグレー。
ずっと昔、チェルシーというキャンディーかチョコレートのコマーシャルに出ていた話題の少女を、高校生にしたらこんなだろう、と思われるような姿である。
彼女は、やや鼻を斜め上にむけ、ロイヤル・イングリッシュで謝りの言葉を述べた。
硬い英語に、あまり詫びている感じは伝わってこない。
まあ、いいですよ。
ってな返事をする。
彼女は、さっと身を翻し、愛馬の方へ足を運びだす。
私は、そのきりりとしまった、形よいお尻に向かって投げキッスをした。
と、少女は、それが見えたかのように振り返り、とことことこっちにやって来る。
あれっ、まずい。
横っ面でも張られるかな?
まあ、別にそれも悪くはないが。
と、思っていると、私の肩を軽く抱き、背伸びするようにして、額にキスをした。
甘い汗の香りに混じって、柑橘系のかすかな匂いがした。
そして、まさにチェルシーの笑顔で私を見つめ、もう一度、目の前でチュッと口をならした。
女には、背中にも目があるというのは、本当らしい。
あーあ、恐かった。
そして、嬉しくもあった。