40代以上の方には、ムンバイよりボンベイと言った方が馴染み深いだろうか。
ムンバイは、インドを代表する大都市の一つだ。
シンガポール・チャンギ空港を深夜に飛びたったジャンボ747機は、ムンバイ→ドバイを経由して、地球の自転と反対方向に、ロンドン・ヒースロー空港を目指して旅を続ける。
この南回りのヨーロッパ行きの便は、ほとんどがインド人とアラビア人で占められている。
世界一美しいと言っても過言ではない、チャンギ空港ロビーから、搭乗待ち合わせロビーに入ったとたん、一種異様な空気が漂う空間となる。
インド料理に使うスパイスが、混ざりあい、ルーの中で押し合いへし合いしたような、喧騒がある空間だ。
私は、ラーメン屋やディズニーランドの乗り物に並ぶのは、初めから遠慮してしまう方だが、こうしたアメ横の路地のようなざわめきがある世界は、自ら入って行きたいぐらい好きである。
もっとも、飛行機の出発ギリギリまで、搭乗手続きをせず、あまり待ち合いロビーにいることはなくなったが。
というのは、ラストコールで自分の名前が呼び出されてから搭乗すると、運がよければ、エコノミークラス料金で、ファーストクラスに席替えしてくれる場合もあるからだ。
「○○様でいらっしゃいますか?誠に申し訳ございませんが、予約のミスがございまして、席が埋まってしまいました。たいへんお手数ですが、ファーストクラス席に移っていただけませんでしょうか」
かしこまった英語で聞いてくる。
「まあ、いいでしょう」
ってなこと言って、内心“やったあ、ラッキー!”とはしゃいでいることを顔に出さないため、わざとしかめ面なぞして、目一杯足を伸ばし、ベッドにもなるファーストクラス席にいくわけだ。
その時は、そんな幸運は訪れなかった。
それでも、まだ幸運だったのは、左翼に近い二人席であったことだ。
満員で、中央列五人席の真ん中にでもなった日には、かなり悲惨である。
トイレに行くにも気を使う。
私の隣には、中年のインド人女性が座った。
私が外側、彼女は内側である。
インド中年女性らしく、おそらく二十歳までの体型の二倍くらいになった、立派な横幅ある威厳に満ちたお姿をしている。
機が水平になってまもなく、食事が運ばれてくる。
私は友人と飲み食いしてまもないから、ウィスキーばかりあおっていた。
ふと気づくと、隣のご婦人が、全く手付かずといってよい、私のディッシュを、ちらり、ちらりと覗いている。
私は、どうぞ、とばかりなずくと、彼女はどこかの国の旗のような、赤と青、白の縦じまのあるビニール袋を取り出すと、ディッシュの上にある食べ物を、器用に片手でかき集めては、袋の中にある金属製の器の中へと運んでいった。
やっと眠気が出てきた午前2時、とはいってもシンガポール時間なら明け方のはずだが、アナウンスに続いて、機は少しずつ高度を下げていった。
シンガポールや香港の夜景に馴れ親しんだ者には、あまりにも薄暗い。ポツリポツリと、残り火のような淡いオレンジ色が見えるだけだ。
飛行機はここで、3時間ほどの給油休憩となり、引き続き旅を続ける者は、空港ロビーでくつろぐこととなる。
カレー臭となにかすえたような空気が、空港ロビーにも漂っている。
と、私の目がある男に釘付けになった。
カートを何十も数珠つなぎにして、段のないエスカレーターを使って上の階に揚げようと、必死に一番下のカートを支えている。
腰がプルプルと震えているのがわかった。
危ないなあ、と見ていたが、案の定カートに押し戻され始めた。
これは危ない!
私は、手荷物を投げ出し、カートに手を添えた。
と、予想もしていない事態が生じた。
男が急に、カートから手を放したのである。
何十ものカートの重みが、一気に私の腰にかかってきた。
おい、おい。
などと言っている余裕はない。
とうとう、私はカートともどもエスカレーターの乗り口まで押し戻されてしまっていた。
さっきの男が、私に向かって、なにやらギャーギャー騒いでいる。
おそらく、こいつが悪いんだ、とでも言っているんだろう。
身体全体がギシギシいっている。
冗談じゃないぜ
せっかく助けてやろうと思ったのに、あんたが急に自分の持ち場はなれたんだろう!
怒り心頭だが、こういう場所で、外国人である私が、へたに大声をだすと、あとが面倒だ。
私は、怒りをじっとこらえた。
その時になって初めて、私の手荷物が消えていることに気づく。
さっきの男は、まだ何か騒いぎたて、私をにらみつけている。
と、男が急に静かになり、そわそわし始めた。
私は、少し冷静になっていた。
男の回りに、スーツ姿の4人のインド人が寄って来ていた。
例の男は、ヘビににらまれたカエルのようになり、浅黒い顔が、いっそう黒ずんだように思えた。
男たちの後ろから、緋色のサリーを纏った婦人が現れた。しかも、その手に、消えたはずの、私のアタッシュケースが握られている。
その主は、さっきまで機内で一緒だった、あの器用に食べ物を器に移した女性だった。
エスカレーター男は、仲間とグルになり、私のようなお人好し外国人を狙う窃盗団だったらしい。