
私は生きているうちに、ぜひ、
できれば黄泉の国とやらに行くまでは、したいことがあるんだなあ。
本当なら、宝くじでも当たったら(私にはくじ運がなく、当たらない自信があるから買っていない。だったら当たるも、当たらないもありませんけど)、明日からでもしたいことがあるんでありんす。
それはね、焼き物やきですわ。
とは言っても、パンやケーキを焼いたりすることじゃありませんぜ。
それを焼くのも面白いが、今回は食べ物ではない。
ましてや、イケメンがええおなごと、イチャイチャしてるのを見てするような、やきもちやきなんぞとは、とんと関係がありませんぞ。
そう、茶碗だの皿だのとかいった、陶器というヤツだわさ。
高校時代は、受験勉強というものはした記憶がないが、夜空の観測やら、窯焼きで徹夜したことは、何度もあるだわな。
私の入った荒武者高校は、益子が近いこともあり、陶芸クラブがあった。
私は、曲がりなりにも進学クラスにいたが、全学年でこのクラブに入っている進学クラスの者は、私だけだったわな。
考えてみると、あの頃既に、今のような偏屈爺となる下地ができていた気がするなあ。
茶碗を作るにしろ壼を作るにしろ、まずは、粘土揉みから始める。
この粘土揉みが、仕上がりにかなりの影響を与えるんですぞ。
新米を研ぐ時には『十八娘の肌に触れるようにして』と、聞いたことがある。
不幸にも、私は十八娘の肌に触れたことがないので、この例えを正しく実感できない。
(誰ぞ、実感させてくれる奇特な方がいらっしゃれば、血圧計片手に、ぜひ、体験したいものですわい)。
想像するに、あまりに手荒に扱ってもいけないし、かといって、へんに優しすぎても、笑いが先行してしまう、まあ、なかなか扱いが難しいということなのかいなあ。
粘土も、この例えに似たところがありまして、ただ、力まかせに、こねればいいというわけじゃあない。
水もろくに加えず、ただグイグイと揉むと、ひび割れができ、粘土に空気が入りやすくなる。
こんな粘土で作った茶碗には、焼いているうちに、ひび割が入るか、割れてしまう。
だから、陶芸教室などでは、既に十分練られた粘土を使っての、形作りから始まる場合が多いわけです。
粘土こねからですと、大方の女性には、たぶん無理だろうなあ、というくらい力と、腰を使うんですよ。
絵画や彫刻では、多くの女流芸術家がいらっしゃいますが、陶芸ではあまり聞かないというのは、このへんにも関係があるのかも知れませんね。
あっ、これは女性を差別しているんじゃありませんよ。
窯焼きで、火の色を見ながら徹夜したりするのは、昼間は、子を見なければならない母親には、無理ですし、粘土こねで体力使うことは、出来ませんものね。
さて、私が宝くじに当たり、晴れて自分の窯と工房をもてた暁には、初窯作品、ブログ仲間さんに送ります。
楽しみに、待っといておくれやす。