
この答えは、
『男と女のちがいって?』
と聞いてきた相手によって、百種百様の答えが考えられる。
例えば、相手が小学低学年くらいまでなら、
股の間にプラプラしているのがあれば男。
それがないかわりに、おっぱいがあるのが女。
多少表現は違っても、まあ、似たような答えで、なんとか頷いてくれるだろう。
漢字を教える場合なら、
頭でっかちで両足で踏ん張っている(田んぼを、力いっぱい持ち上げている)のが男。
赤ちゃんを脇に抱えて(女という漢字の“く”が母親で、“ノ”があやされている赤ちゃん)いるのが、女。
そんな、説明もできる。
これが、小学高学年ともなると、なかなか説明が難しくなってくる。
というのは、性に関する興味、関心度が、人によって大きく異なってくるからだ。
ある少女は、依然、赤ちゃんは、コウノトリが運んできたりすると考える。
日本では、野生のコウノトリは絶滅していようが、コウノトリとツルやシラサギの区別がつけられまいが、関係がない。
まあ、そこまで極端ではなくとも、キスしただけで赤ちゃんができると考えていたりする。
かと思えば、有名私立中学受験生の中には、染色体の違いから始まって、生理による赤血球数の違いまで知ってる子どももいる。
私は、かつて大手進学塾の講師をしていたことがある。
私たちは、大人顔負けの知識や思考能力を持つ小学生を、宇宙人とか、ETと読んでいた。
ニュートン算という、へたに方程式の便利さを知ってしまった学生が(例えば東大文三類合格者でさえ)、頭を抱えそうな問題を、コロンブスの頭でスイスイ解いていく。
まさに、化け物級の輩である。
この手合いに、男と女の違いを説明し、相手を納得させるには、大学レベルの知識が必要になってくる。
だから、こういう場合、七色アンサーで煙にまくテクニックを使うしかない。
例えば『古事記』を読んでみなさい。初め方に面白い記述があるから、
とか、
この世界は、物質と半物質、ブラックホールとホワイトホール、あるいは電気のプラスとマイナス、磁石のN極とS極のように、相反する対で成り立っている。男と女も同じだ。
とか、
人生楽ありゃ、苦もあるさ。
山があれば、谷もある。
男がいれば、女もいる。
などと、説明にならない説明をする。
が、さすが、やがては開成、東大、あるいは慶応に進む輩、スーパー優秀な子どもたちである。
講師の能力を読んで、それ以上の追及はせず、ニヤニヤするのである。
しかし、どこの世界にも、例外がある。
「先生、それじゃ答えになってないよ」
の突っ込みを入れる、実に小学生にふさわしい優等生もいる。
「そうだ、そうだ。男を好きになっちゃう男だっているし、レズも」
と、追い討ちをかけてくる。
だが、この追い討ちが、私への助け船だ。
私は、ゆっくり子どもたちを見回して、こう言う。
「何にでも例外はある。例外がなかったら、お前らみたいな、とんでもなく頭がいい、ひねた小学生は存在しないからな」
そうすると、彼らは、胸の中にある鈴でもくすぐられたかのような笑みをもらす。
今だと、発言を問題視されかねない危ない表現だ。
しかし、概して、こうした輩の父兄は、少なくとも表向きは、農村のじじばばタイプが多く、こんなことで人権がどうのこうのといった、いわゆるモンスターにはならない。
つまり、大局を見ているから、ゴキブリ先生であろうが、チャンバラ先生であろうが、子どもの能力を引き出せるなら、それでよい、と考えているわけだ。
さて、話を戻そう。
男と女の違い。
これを、一言でいいきることは、できないのである。
だから、昔から何千、何万という人たちが、手をかえ、品をかえ、男と女を描いてきた。
ある者は、花と蜜のように、ある者は、天使と悪魔のように。
が、いまだ、すべての人が納得する、男と女を描ききった者はいない。