
ちょっと想像して欲しい。
例えばあなたが、二十歳ぐらいの男子学生だったとしよう。
あまり裕福ではないあなたは、シャワーしかない四畳半のアパートに住んでいたとする。
外へ出ようとしたら、急にザーッと降ってきた。
と、アパートの軒下で雨宿りしている子がいる。よく見ると、あなたが思いを寄せている、しかし、仲間と一緒に食事をする位の仲でしかない女の子だ。
彼女の服はびしょ濡れで、ガタガタ震えている。
あなたは、心臓の音が漏れ聞こえてしまうくらい、珍しく勇気をもって彼女のところに、偶然を装って近づき、声をかける。
彼女は、今、あなたの部屋にいる。
あなたのシャツに着替えるべく、濡れたブラウスを、スカートを・・・。
そこで、彼女が言う。
「絶対、見ちゃダメよ」
紳士であるあなたは、パクパクする心臓と戦っている。
静かに、やや重い感のする音がし、背中向きのあなたは、心の目で白い肢体を見ている。
さあ、ここからが問題だ。
あなたは、そのまま、ずっと目をつぶり背を向けていられるだろうか。
多くの民話に、『見ちゃダメ』とか、『しちゃダメ』とかいうタブーを破り、幸せが逃げていくというものを見いだすことができる。
鶴女房、雪女、浦島太郎・・・。
民話に限らない。旧約のアダムとイブ、古事記のイザナギ、パンドラの箱・・・。
こちらも、挙げたらキリがない。
これらの話のなかで、人は、あるいは神は、ことごとくタブーを破ってきた。
それにより、永遠の生命や、幸せを失ってきた。
まるで、そうしろとでも言うかのように。
極めて珍しい例外は、竹取物語に出てくる老夫婦だろう。
せっかくもらった不死の薬を、かくや姫がいなくては長生きする意味がない、と富士山で燃やしてしまう。
秦の始皇帝のように、不死のためなら莫大な財を使う(これは現日本人起源に絡むという説もある)方もいれば、この老夫婦のような人もいる。
私は、長生きはしたいが、不死は願わない。
老夫婦に共感を覚える方である。