
初失恋のところでも述べたが、私にとっては、相手がどうであれ、好きになった相手は、すべて初恋の人であり、結果的に離れ離れになろうが、相手から肘鉄を食らわされようが、すべて素晴らしき友なのである。
こんな能天気で、未だに青二才の青年気分だから、基本的に失恋の経験がない (より正確な表現をすれば、失恋に至るほど深い恋愛経験がない!なんと哀れな)
失恋の経験がないから、“別れた”などと言える相手がいない。
だから、本当はこのブログの質問に答えようがない。
とはいえ、経験がないからものが書けぬ、では草葉の陰からお叱りの言葉が飛んできそうなので、
別れた人のブログを見るか、見ないかというテーマに沿って話を進めていこう。
うううっ・・・。
やっぱり、想像がつかない。
よし、
それなら、
ここで、
30年以上前に言えなかったことを、言っちまうぞ。
そうだ。
これは、公開 (後悔?) の
愛だか、恋だかの
告白じゃい。
棺桶に片足突っ込んでいるボケ爺の、
傍から見たら、どう考えても正気を逸した、アホ爺の告白じゃわい。
学生時代の友よ。
これが、先月そちらに行けず、研修及び検酒、兼愁、見秋で発表すべきだった必須科目の内容ですわい。
---------
一昨日、ある方から会社にfaxが届いた。
仲間うちで開かれている、考古学研究会の案内だ。
十人そこそこの集まりだが、
これは、私の兄貴分にあたる、旧国立大の学長クラス(言っちゃおう。このお方も件の方に惚れていた。Kさん、こんなこと書いても、もう動じない年ですよね)の方や、白神の主(私の同窓ながら二十歳にして、今の私より大人だった)が主宰しているものだ。
faxを送ってくれた方とは、最近数十年ぶりにお会いできた。
卒業後、海外を転々としていた私は、行方不明扱いになっていたらしい。
その方は、諸事情を察して、会社の方に連絡を入れてくれたのである。
実は、件の方は私の家のすぐ近くに住んでいた。
車なら、30分そこそこの距離ではなかろうか。
生まれて初めて、私の文章が活字になり、全国の書店に並んだ時 (とは言え、ある地方の町おこしイベントのひとつで、全国公募オムニバス形式の書籍。私の文章はわずか2ページである)、その主人公のモチーフになっていただいた方である。
多少のフィクションを交えた、今では赤面ものの散文だ。
しかし、初めての活字という嬉しさから、浅はかにも有頂天になってしまった私は、とんでもない失敗をした。
その本を、我が愛君殿に見せてしまったのである。
(我が愛君も、ある程度、ハンドルの遊びがあるだろう、と思っていた私がバカであった。かつ、本物の浮気より、心の浮気の方が罪深いことを認識していなかった私が、愚かだった)
本を手にし、嬉々としていた顔が、エンマ大王になり、桐箱銘入り茶碗が5G以上の加速度をもって砕け散るのに、そう長い時間はかからなかった。
オムニバス形式の、その題名が悪かった。
毎年『世界で一番○○○』のテーマを決めて全国公募し、すっかり有名になったその北陸の町。
その年のお題は、
『愛しているあなたへ』
だった。
それ以後、
私は、家庭料理なるものを、ほとんど味わったことがない。
私の趣味が
料理
たる所以である。
考古学研究会には、
おそらく、
行けないだろう。
会社の出張でないことが明るみになれば、背中を青竜刀の試し切りに使われるか、鉛玉の貫通試験用にされてしまう。
ところで、私が生まれる前から、私のことを、私以上によくご存じの方がいらっしゃる。
なんでも、叡山に行っても、相当な高僧らしい。
私が、もっとも苦手とするお方である。
すべて見透かされているような気がし、大臣だろうが大会社の社長の前だろうが(実際、そんな経験多分ないですが)、父兄会の時ほどには緊張しない私が、畏れかしこまってしまうお方である。
天台の教えを広めていらっしゃる、この坊さんの一筆と思われる色紙が、子どもの頃、実家に飾られていた。
小さい頃は、そこに書いてある四文字を、何と読むのか、いや、縦に読むのか、横に読むのかさえわからなかった。
現代語訳すれば、
『一隅を照らす』
つまり、
狭いところ、少ない人たちだけでもいい、皆の灯火となりなさい。
ということだろう。
空海のような超人とは違い、中国で奥義を極めることなく帰国、筆もいまいち、いや、いまさんぐらいだが、それがかえって功を奏し、我々凡人にもわかりやすい教義となり、おおやけのバックアップもえられた天台宗の開祖、最澄。
私個人としては、別に天台宗にこだわらない。
いろんな、例えばトーラーであろうが、ハンムラビであろうが、オーディンの話であろうが、はたまた、ポポル・ヴフに秘めた教訓だろうが、とりあえず取り込むことにしている。
もちろん、それを肉や骨にするかどうかは、また別の話だが。
そんな中で、
この、『一隅を照らす』は、ぜひ背骨にしたいところではある。
私もせめて、四畳半くらいは明るくしたかったが、なかなか現実はそう上手くはいかないようだ。
今、私は『一期一会』の有り難さは、わかり始めている。
が、一隅を照らすどころか、
多くに、大いに
照らされて生きている。
そんなことを
しみじみと感じ入る
師走間近の、今日この頃である。