
私の母方の祖父は闘犬大関になった土佐犬、父方の曾祖父は屋敷育ちの信州系の秋田犬だったし、皆には恐がられていた祖母(私には滅法優しかった)は、曲がったこと大嫌いの、由緒あるエジプティアンハウントだった。
そう言う私も、北関東でイノシン狩りに活躍しているシバ犬だ。
だから、犬と猫どっちが好き? ど問われても、選択肢がないのである。
まさか、自分より、自分のご先祖様より、いくら後ろ姿が魅力的であろうと、どんなに流し目にくらっとしようが、鳴き声が眠れぬほど悩ましかろうが、私は犬が好きでならなければならないし、また、好きなのである。
あの妖艶な後ろ姿は、私たち犬にない忠誠心を隠すための煙幕である。
あの身震いするような流し目は、ものをねだる時に使う十八番である。
餌をもらったなら、そっぽを向いて、さっささっさと隣の公園にある土管の中で待つ、トラジロウのところにしけこむことに、なんら罪悪感も後ろめたさも感じないのである。
春の夜に、私を睡眠不足にさせる、あの声・・・。
ああ、私は犬が好きなのである。
だんじて、猫が好きなわけではない。
私が彼らを追いますのは、そのフリフリしたお尻の後をついて行きたいからではない。
彼らを見て吠えるのは、愛をどう表現してよいかわからず、敢えて冷たい素振りをするわけではない。
そう、私は猫が好きなのではない。
私は、シバ犬。
犬が好きなのである。
★追記
そんな私でも、尊敬している猫がいる。
銀座六丁目あたりに住んでいる、後退りしてしまうほど燻し銀に光る威厳がある反面、知らぬものが遠目に見ると、どこにでもいると勘違いしそうな老猫どのだ。
この老猫は、雨の日も風の日も、腹をすかした若者や病になった野良たちのために、せっせと餌をを集め、分け与えている。
それも、深夜、他の飼い猫たちが、夜遊びを終え、暖かいこたつの中でぐっすり寝静待ってからである。
猫が好きではない私でも、
この老猫どのは、別格である。
博愛とかではなく、武士道みたいなものを感じる、シバ犬だ。