不安 | しま爺の平成夜話+野草生活日記

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現実にあったらいいなぁ、と思う乗り物 ブログネタ:現実にあったらいいなぁ、と思う乗り物 参加中


ヨーロッパでルネサンスという、神と人間の見直しが盛んだった頃、北欧に不思議な絵を描く芸術家がいた。


その名をボッシュという。


私は天才という言葉は嫌いだ。


というのは、私は天才的な才能を持つ人を何人か知ってはいるものの、まだ“天才”は見たことがないことにも関係がある。


およそ世間で“天才”と呼ばれている人たちは、常人には分からない、努力の人である場合がほとんどと考えている。

例えば、寝ている間も考えていたり、血を吐くような鍛練などをしているだろうからだ。
もちろん、そうした努力ができること自体が天才なのだ、という意見には賛成である。


そんな私でも、


ボッシュとダ・ヴィンチ、モーツァルトは、天才と呼んでもいいような気がする。


ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』(ルーブルのものではなく、ロンドンの方)を間近で見た時は、私は生まれて初めて“これが人の手によるものなのか”という感慨に、その絵が飾られている、薄暗くさして広くもない空間に呆然と、しかし、ややもすると涙が出てきそうな顔で、2時間くらいは立ち尽くしていたろう。


ベストセイラーとなった、ダ・ヴィンチ・コードには、ロンドンの作は贋作であるような記述がある。


しかし、私は、これはとんでもない考え方だと思う。

確かに、本体の両側にある絵は、明らかにダ・ヴィンチの作ではない。それは、素人の私でさえわかる。

が、本体自体は“ただびと”の手によるものではない。

確固たる信念がないと、 ああは描けまい。

ルーブルの作はダ・ヴィンチ・コード的な見方をすると、確かに興味深い。

が、技術的なレベル差は明白だ。


やはり、私はルーブルのものが中年期の、ロンドンのものが晩年の作と思っている。



一方、ボッシュは技術的には、ダ・ヴィンチの足下にも及ばないかも知れない。


しかし、その想像力たるや、近代発明家の代名詞である、エジソン以上と思っている。


ダ・ヴィンチもお抱え戦略家として、多くの兵器を考えていたようだが、彼にしてさえ、想像力という観点では、ボッシュの域に達していなかったように感じる。

彼の代表作である『快楽の園』などを描いた三部作には、潜水艦のように目でわかる想像力の高さ以上の、ある意味では病的とさえ言える、鬼気迫る何かがある。


モーツァルトについては、説明の必要もないだろう。

最近、やっと科学の力で解明されつつある“やすらぎ”とか、“癒し”とかいう感覚を、音楽に転写できた人だ。





さて、本題に入ろう。

★我ながら“超”のつく前置きであった。



世の中には、上述したような天才的な人がいるが、そうした過去の人のひとりが、既に最も理想的な乗り物を考えてくれている。



それは、キント雲だ。


空飛ぶ絨毯というのもなかなか夢があっていいし、絨毯の上で二人仲睦まじく、むにゃむにゃ、フンフン、アイヨ・アイヤー・・・というのには良いのだが、持ち運びが面倒そうだ。


その点、キント雲はちょっと足元が不安定だが、場所をとらないところがいい。

今風に言えば、エコノミカルであり、エコロジカルでもある。


さらに、念じればどこにでも来てくれるところがいい。

不確実な予定の、予約キャンセルの心配がいらない。


ただ、心配なのは、キント雲が息を吐けば出てくるならよいが、髪を抜いて呼ぶのであったならば、あと少し経つと、私にはオーダーできなくなってしまうことである。