
オムライスの中味がチキンライスであろうと、バターライスであろうと、それは大切なことではない。問題は、それを誰のために、いかなる思いで作ったかということだ。
多少焦げ臭かろうが、味が濃かろうが、また仮に砂糖と塩を間違って、とんでもなく血圧が上がってしまいそうなオムライスであろうと、要はこころばえが重要なのだ。
つまり、愛があれば、いかなるオムライスであろうが“美味しい”のである。
これが、ボケ爺たる私の本音かも知れない。
しかし、
こうした、しごくまともで、純な意見を書き込みすることは、今のしま爺には似合わない。
いや、愚痴、ひね、少し斜めの見方のエクスパートを目指すしま爺の意地、曲がったプライドが許さない。
清少納言の言う、“つきづきし”あるいは“おかし”ではない。
私が今密かに(プログに書き込みして、どこが密かだなどと突っ込まないで)目指しているのは、“かろみ”の世界である。
紫式部“あはれ”の世界ではない。
さすれば、オムライスにしても、それ相応な考えがあってしかるべきだろう。
だいたいにして、オムライスとは、いかなるものだろうか。
omlet riceに決まっているだろう、では芸がないから、“幽霊の正体見たり枯尾花”の逆をいってみよう。
つまり、ただのススキをオバケにするのに似て、オムライスに対し、全く違う見方をしてみようということだ。
今夜は、ぐったりする事があり、また、明日は八面六臂の1日が決まっているから、今夜のしま爺の話は、とんでもない方向に行くかも知れない。
まあ、終電ひとつ前の疲れた頭だ。
お許しさぶらふ。
しかし、まあ、もうすぐ日が変わるっつうのに、この12時間でエネルギー源は、缶コーヒー2本。
清少納言の言う、すさまじきもの、だわなあ。
さて、話をオムライスに戻そう。
オムライスのオムは、前述のようにオムレツ、つまり卵を焼いたものだが、このオムという言葉、その音に注目してみよう。
オム、あるいはウム、アムという音は、人類が文明を持ち始めた頃は、“母”を意味する言葉だった。
今は電車の中なので、ほぼ近い音を提示できないが、記憶では人類最初の文明開化の地メソ・ポタミアのシュメール語や、少し遅れてナイルデルタに花開いたエジプトの古エジプト語、両者の影響を強く受け、現在世界をある意味でコントロールしている旧約に使われているアラム語、ヘブライ語など、古代言語においてはアム、ウムなど、オムレツのオムに近い音が“母”を意味していた。
実は現代の言語においても、お隣韓国の朝鮮語オムニや、満州語(アマだったか?)などに、その名残を見つけることができる。
実は、ママとかお母さんという言葉も、これらの音が派生したものと考えられる。
しかし、これを述べるには、いささか紙面が足りない。
私の記憶では、少なくとも、現代・過去合わせて30言語(50近かった気もする)に、ンマから変化して“母”または“女”を意味する言葉となったと思われる言語がある。
おそらくこれは、赤ちゃんがおっぱいを飲む時、自然に出てくる音と深い関わりがある。
ンマは、多くの国で“母”を意味する言葉の元となったが、日本語では、おっぱいから連想される食べ物へと変わった可能性が高い。
ということで、オムライスとは、お母さんの手作り料理という話でした。
やはり、この時刻になりますと、ずいぶん電車待ち時間もあり、結構いろいろ書き込みできますな。
いやあ、最後まで読んでくださった方、お疲れさまでした。
追記
ずいぶん誤字・脱字があるようだ。
順次直しまする。