
若い頃は、サザンアイランドみたいにドロリ、コッテリしたものが好きで、ゴマドレッシングにしても、炒った白ゴマがジョリジョリと舌をザラつかせるくらいのものでないとダメだった。
しかし、最近、嗜好がかわってきた気がする。
ひどくあっさりしたフレンチドレッシングか、薄味の中華ドレッシングがよい。
相変わらずゴマ風味は好きだが、かつてのように、
“これがゴマじゃい。うりゃあ、ドスコイ!ドスコイ!”
的なものではなく、
“ゴマでございますのよ。ええ、ここにおりますわ”
風なものが嬉しい。
考えてみれば、田舎育ちの私は、サラダなるもの自体ほとんど食べていなかった(だいたいが、漬物、おひたしの類)から、本来、サザンアイランドは言うに及ばず、ドレッシングというもの自体、ファミリアーな存在ではないはずなのである。
人は、この世に生を受けてから、しばらく親兄弟の手で育てられ、やがて独り立ち、そして子を産み育てていく。
しかし、年をとると、頭も体も子どもに返っていき、子孫の背に負ぶさって、生を受ける前の世界へ還っていく。
どうも、舌の感覚というものも、同じような道を歩むようだ。
子どもの頃慣れ親しんだ味へと戻っていく。
当時は、けして美味いとも、いや、むしろまずいと感じた味が、年を重ねるごとに引力を増してくる。
ところで、
数学にフラクタル図形というものがある。
似た形が延々と続き、そのひとつ上の階層にも、またさらにそのひとつ上の階層にも、同じような形が広がっている、というものだ。
例えば、植物ならシダの葉、地形なら三陸海岸に代表される、リアス式海岸のようなものである。
実は、私たちの住んでいる、この宇宙自体が、三次元構造を持つフラクタル空間と捉えることもできる。
私たちの人生もまた、そんな繰り返し、つまり時間フラクタルの中にあるのかも知れない。