これから話すことは、身近なある男のぼやきをスケッチしたものである。
彼の名をイサクとでもしておこう。
女々しいのは嫌い!という方はスルーされた方がいいかも知れません。
この男、おそらく日本人の大多数がその名前くらいは知っている、いや、その製品を手に取ったこともあるであろう、今やその業界ではトップリーダー、一部上場企業のエリートコースを歩いていた奴である。
とにかく、入社後三年目には国内のすべての工場を経験し、三十歳のときには海外工場、支店の大半へも出張、駐在していたという人物だ。
今は辞めて、トイレ掃除や公園のゴミ拾いで食をつないでいる。
時々ぶつぶつ何やら呟いているが、総じて平々凡々とモップ片手に、ガムをクチャクチャさせながら、にやけ顔で鼻歌などならしている。
イサクは、そんな変な奴である。
あんた、今の仕事、生活に満足しているんかい。
と、私。
はあ、そんなこと聞いてどうするんですかね。
一文の得にもなりませんぜ。
と、つれない返事。
いや、はたから見ていると、かつて世界中飛び回って、それこそ飛ぶ鳥を落とす勢いで、毎晩普通のサラリーマンの月給ぐらい飲み食いに使っていた人が、へたすると朝晩の飯さえ抜かざるをえない暮らしに思われるからさ。
そんな、骨に皮を張ったような体だから、とてもダイエットのためとは思えないけど。
・・・・・・私
それこそいらぬお世話ですわな。
と、イサクは珍しく目を尖らせる。
★私
まあ、余計なお節介する悪い癖は治りそうにないし、ま、俺の生き甲斐の一つだから勘弁してくれや。
ところで、あんたいつもにやけとるが、今の仕事、楽しいのかね。
イサクはちょっと間をおいてから言った。
あんたねえ、楽しいかどうかなんて聞く必要ないでっしょ。
よほど鈍感な人でもわかるっしょ!
イサクから北海道弁が出始めた。
彼が興奮してきた証拠である。
いいぞ、うまくすると今日こそ彼が自らの人生を虚しいものにした理由がわかる。
私も別の意味で興奮してきた。
私は追い打ちをかける。
しかし、なんだねえ、生涯収入じゃあんた、1億くらい損してるんじゃないの?
と、彼は薄ら笑いを浮かべ、ポツリ言う。
一桁違うな。
えっ?
一桁違うって10億?1000万円のはずはないから。
しかし、いくらなんでもそりゃオーバーだろうと、しかし、表向きは驚き顔をする私。
私は図に乗って、痛い質問をする。
で、なんで辞めちまったんだね?まあ、あんたみたいに一気に階段駆け上がっていった人には、俺なんかにゃわからない苦労もあったんだろうが。
だいたい、あんた新入社員の時から常務や専務、いや、先代の社長なんかからも覚えが良かったんだろう。まあ、なんでかは知らないが、とにかく恵まれた人には違いなかった。
なのに、なんで?
イサクはしばらく黙っていたが、遠くを見る目になってポツリ言った。
人間ねえ、自分でもわからないことは、ありますよ。
それにねえ、
墓場まで
持って行く話っていうやつもね・・・。
おっと、ちょうど満員電車の時間もおしまいです。
では、では。
★これは、フィクションであり、登場人物(イサクさんと私だけだ。大げさな!)、その他は事実と、それほどには関係がありませんよ。
たぶん。