少し興味の方向性が移ってきたというか、
ハッキリしてきた、というところで終わっていました。
でも、当時の日本では環境学を総体的に学べる学校はありませんでした。

そんな時、たまたま地元に帰省中に、
ふらりと立ち寄った本屋で一冊の雑誌を手に取りました。
そこには、英語が苦手だった私がそれまで考えもしなかった
留学という選択肢について書かれてありました。
当時でも、アメリカやオーストラリアには、環境学科があったのです。
何かがクリックした瞬間でした。
その日から、その夢を密かに温めながら、
バイトに励む日々が始まりましたが、
週5日びっちり入っている講義、セミナー、徹夜しながらの課題で、
貯められるバイト代なんてたかがしれていました。
その間にも、以前の記事(自分を好きになれない貴方へ)で少し触れた、
数年私を悩ましていた問題とも戦っていました。
(でも、これがなかったら、私はもしかしたらずっと箱の中にいたかもしれないので、
結果的にはこの苦しみさえも感謝しています)
ある時に、プッツリ糸がきれたのでしょう。
私は帰省中に、もう大学には戻らないことを決め、
親に自分の本心を話しました。
自力でなんとかしないところが私の甘えたところですが、
19才の私にはとても自力だけで、
私の中に生まれた夢が叶えられるだけの資金がつくれるとは考えられなかったのです。
もちろん、親がハイソウデスカというはずがありません。
父親はともかく、母は大学で地元を離れただけでも
かなり譲歩していたのに、海外なんて気がおかしくやったに違いない。
散々泣かれ、お前は親を不幸にすると責められました。
そんな日々の中で、結局、私も多少心身を病み、
寝込んだ時期もありましたが、
それでも地元でバイトをしながら大学に戻らず粘り、
最後には祖父が援助をしてくれ、
次の入学時期までに試験にパスしなかったら諦めて帰ってくるとの約束で、
私は単身オーストラリアの地に立つことができました。
今から考えると、なんて甘えた子供だったんだと反省するばかりですが、
敷かれた線路から外れないように、箱からはみ出ないように生きてきた私には、
強行脱線するのには、当時はこれが精一杯だったのです。
でも、私はもう迷いはなくなり、その後四年間、
目標に向けて一直線にひた走り、
オーストラリアで卒業しました。
初めて本当に遠く、簡単には親を頼れない所に身を起き、
それなりに試練を経て、少しは成長したように思います。
最初の一年は口も聞いてくれなかった母も、
4年間の中で一度だけ遊びにきてくれて、
「私が逞しく成長した姿を見て本当に感心し、
嬉しかった」と言っていたと、他の人づてに聞き、
ああ、少し認められたと嬉しくなったのを覚えています。
学生生活の中で、一つ印象に残った会話がありました。
1年生の時、ある教授と話している時のことでした。
はずかしながら私は非常にナイーブ(無知)でした。
かなりはずかしい話を既にしているので、恥ずかしついでに書きます。
私は、「でも、皆、環境は大事だと思うんじゃないですか?」というようなことを会話の中で言ったのです。
本気で、世の中の人はみんなそう思っていると思っていたのです。
教授は当然仰いました。
「そう思っているのは少数派で、経済や開発の方が優先だと思う方が主流なんだよ」と。
そういえば、ある中国人の経済学生には、「なんでそんなにお金にならないことを学んでいるの?」
と聞かれたこともありました(笑)
(私は、とにかく昔から未開の地を掘るのが好きなようで、
今でこそ母校に行くと環境学科にもアジア人や日本人が増えているのに驚きますが、
当時は、学科が学科だけに本当にローカルの学生しかいませんでした。)
そんな出来事たちが、ガーンと私に現実を見せました。
そこから私は純粋な環境保護を主張しているだけじゃ、人は動かないし、世の中は変わらない、
だったらと、開発と環境保全の調和をどう取るかという部分に焦点を合わせていきました。
もともと、建築から入ったわけですから、当然の落ち着きどころではありますが…。
そんな私は、卒業して帰国し、技術コンサルタント会社に入り、
念願だった環境コンサルタントという仕事をはじめました。
しつこく続きます(笑)
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