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夢見つつ深く植えよ(小さきものたちへのブログ)

私はこの自然界に存在する小さな物が好きです。

私の小さな庭に咲く花々や、そこにやってくる日頃見過ごしてしまうような虫たちにもスポットを当てながら、私も小さき者の仲間として、この自然界で共存していければと願っています。

好きな作家の一人に野坂昭如がいる。毎日新聞に二週間に一度

連載される「七転び八起き」の記事に目を通しながら私の思うこと

を代弁してくれたよう気がして、なるほど・・・と思った。

すこし長くなりますが、かいつまんで引用すると。


ぼくはロマンチストだ。子供の頃から養父の横でよく夜空を見て

いた。昔夜空はきれいだった。星を眺めて気分良く飽きることがな

かった。凍えた冬の夜空は星座が美しく、空にダイヤモンドをちら

したようだ。・・・・・・・・地球上にいろいろな変化が起きている。人間

の活動が地球の平均温度の上昇を招いた。しかしこれは一例。

古来より地球の気候は変動している。地球は熱かったり冷たかっ

たりするものだ。ぼくらは所詮「地球の一部」。どの周期に生まれ

てくるかでその一生が決まる。じたばたしてもはじまらない。

 しかしここ三十年の変化を見れば差ははなはだしい。

人間の主人面がもたらしたこと。これが長く続けば人間は滅び

る。それもまた自然であろう。自然は誰にも逆らえない。天上の星

は変わらない。変わるのは人間だ。」


  2008.1.14 夕日

ここで地球温暖化のことには触れないでおきます。

私が一番心に留めたのは「ぼくらは所詮地球の一部」、この言葉

でした。今まで幾度となく「人間も自然の一部」と、わかったような

ことをいってきた私、実はその実感は曖昧なままだった。最近

のことを身近に実感しつつある。


小さな人の成長は見ていて気持ちがいい。
春先に芽を出す新芽が若葉から鮮やかな緑の炎のように伸びて

いくように・・・。

朝、白い太陽が輝きを増しながら空高く昇っていように・・・。

時々遊ばせる七ヶ月になった孫の成長をみていて、あぁ~世代

の交をしているなあと思うことしきりです。


伸びきった鮮やかな緑もやがて色づき樹から離れていくように・・

太陽が真昼時を過ぎ西に傾き地平の彼方ちていくように・・。

自然は片時も留まってはいない。


孫と私、目覚めたばかりの太陽と、落ちていく太陽のような関係。

こうして自然の営みと同じように世代の交代は音もなくてい

く。「人間も自然の一部」。

自然は自然に任せて然り、そう納得したのです。






きょうの一曲はアーチー・シェップのテナー・サックスを中心とした

カルテットのジャズ演奏から「ネイチャー・ボーイ」です。

アーチー・シェップ・カルテット,

トゥルー・バラード




毎日の家事のなかで一番楽しんでするのは台所に立つことで

す。食べることは生きることの原点、命を養う日々の食事作り

質素な献立でも、大切な創作の場です。

季節の移りを感じて、色彩にも心を配りながらの調理は味付けも

ることながら、下ごしらえも美味しさの大切な要素のひとつで

す。

一日のうちで何度も使う包丁、切れ味で料理の味も違ってくるの

で、包丁にはこだわりがあり、長い間、鉄包丁を使っている

刃幅が細くなるほど使いつづけているので愛着も一入です。

     ミニバラ


鉄包丁は錆びると切れ味が悪くなるので、時々砥石にかけ研ぐの
ですが、最近それを怠っていたことに気づいて、きょうはせっせと

包丁を砥ぎながら、いつか耳にした「新たに砥石(けい)より発

(精神を砥石にかける)」、という言葉が頭をよぎりました。


研ぎあがった包丁の光沢に目をみはりながら、さっそく切れ味を

試すと、なんと、よく切れるではありませんか。

私の鈍った精神も、包丁のように砥石にかけなければ、このまま

錆びついたままで、、、、何とかしなければ。

気持ちはあせるものの、さて、どのように研いでいいものやら・・・





このところお天気が不順で、昨日も春、きょうも春、明日は冬?

ほんとうの冬はどこへ行ったのでしょうか?
昨日テレビのニュースで京都に平年よりかなり早くタンポポが咲

いたという話を聞きながら、どうして京都に咲くタンポポは話題に

なるの?この辺りではもっと早くから咲いているというのに、、、、

タンポポの世界にも格差?


身の回りがすこし落ち着き、ここ1週間ばかり自分の時間を楽し

むことができるようになったので、うららかな春の陽気につられ、

昼間の散歩を楽しんでいると、タンポポの黄色や白の色彩が冬

枯れの畦にキラめきたっていました

野の花は太陽の熱や光線に敏感ですね。(人間も同じですが)



   たんぽぽ

    多分 キビ(吉備) シロタンポポ


タンポポといえば、忘れられない思い出があります。

娯楽の少ない小学生の頃、学校行事の学芸会は生徒にとって

も親にとっても楽しみの一つでした。小学三年生のときのことで

す。その学芸会で、私「タンポポ」役をやることになったのです

が、友人のアネモネ役が羨ましくて、先生に「どうして私はアネ

モネになれの?タンポポは嫌だからない」と、恐る恐る訴

えると、「背い順番に決めたのだから・・」といわれ、よけい

傷ついたことが劣等感になっているらしく、若い頃はタンポポに心

を傾けることはありませんでした。


あの頃の私は今でいう登校拒否のはしりで、話しかけられない限

誰とも口を利いたことがなく、先生の驚きと戸惑いの顔を今でも

えているくらから、タンポポは恨みの花???

ではないのですよ、、、

アネモネの花を知らなくて、ア・ネ・モ・ネと声にするだけで、可愛

しい花!のイメージを抱いたのです。


きっと子供心にタンポポは、誰にも振りむかれることのない野の草

だとの思いがあったのでしょう。それから長い月日のなか、いろん

な花に触れる機会があり、幼い頃アネモネになり損ねた劣等の子

タンポポがいつの間にか感受性を豊かにしてくれる心の花にな

ているのに我ながら驚いています。


踏みつけられても立ち上がり豊かな大地に根をおろし、お日さま

のご機嫌次第で自由に咲くタンポポ、強くたくましい野の花だけ

でなく、昔は食用として田菜、苦菜と呼ばれ、種を取って植えるも

よし、山野に自づから生ずるを苗にするもよし、味すこし苦く、葉

をとりて茹がき、ひたし、和え物、汁などにしてよし・・・。





     



沈黙は始源の現象、つまり何物にも還元されえない一つの本源

的な事象である、沈黙は造物主以外のものによっては何物にも

置き換えられるものではない。


一人の人間のなかにもまた、沈黙は、到底その一生の内に使い

果たすことが出来ないほど多量に蔵されている。

一人の人間の内部にある沈黙は、その人間の生涯を越えるので

ある。この沈黙のなかで、人間は過去および未来の世代に繋が

っている。                     (マックス・ピカート)


言いたいことが胸にあふれていても、それをどう言葉に置き換え

のか言葉をなくしてしまうことがある。

途切れし言葉の断片は沈黙の断片ではなく、甦りのすべてなの

だ。せめて思うことが思ったように言えるまで待とう。

慈愛なる綿毛に包まれた小さな種が未来へいのちをつなぐため、

沈黙の恵み深い土壌がその種を受け止め支え養ってくれるのを

つように・・・。










ヘンデル作曲オルガン協奏曲を聴きながら。

ヘンデル:オルガン協奏曲集(作品4&7全曲)/コープマン(トン)

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     オオイヌノフグリ

       ひだまりに、、、オオイヌノフグリ

  

  うちからあふれくる

  生命の輝き

  たった一日の生だから

  命がけで

  太陽に恋をした

  清らな藍

  やがて砕け散る草原の宝石

  



散歩の途中、畦道のあちこちで早くもオオイヌノフグリを見つけて

大喜びしました。ひだまりの中にいると背中がポカポカして、なん

だか幸せな気分になり、今この瞬間を私たちと共に生きている

生命あるすべてが、太陽光りを受けて存在しているのだと実感

したのです。








きょうの一曲は

ヴィヴァルディ作曲リコーダー協奏曲ハ短調です。
ヴィヴァルディ:リコーダー協奏曲集/コプレイ(マイケル)&カメラータ・ベルン

¥1,200

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昨夜、友人を見送るため門に出て、夜空を見上げながら歌った歌

「冬の星座」でした。


   木枯とだえて さゆる空より 地上に降りしく

   奇しき光りよ ものみな憩える じじまの中に

   きらめき揺れつつ 星座はめぐる


なにげなく歌っていた時はこの詞の言葉の美しさに気づかなかっ

たのですが、詩だけ味わってみると、この詩の訳の見事さに心が

震える思いがしました。(元の詩が何語か知らないのですが・・・)

冴えわたる空を、「さゆる空」、人知でははかり知れないほど

らしい光りのことを「奇(くす)しき光り」、物音一つしな

静まりかえっていることを「しじま」と、、、、。

虚空から放たれる星のきらめきをこれほど気高い言葉で訳した

「堀内敬三さん」なる人物にまで想いを馳せてしまいました。



 
     ミレー 星空
        ミレー「星空」


昨夜、冬の空に輝く星はほんとうに美しかったです。

透き通った空気をおおう深い闇。

いくら手を伸ばしてもとどかな虚空。

何万光年の星のきらめきが問いかけてくる宇宙の深さ。


一人の人間の時間をはるかに超えた宇宙的な時間の中に、今

私が存在していることの不思議さに身の引き締まる思いがして、

いつか読んだオクタビオ・パスの本のなかの「人間の神秘性

は、人間が宇宙の秩序一歯車、大協奏曲の一和音であ

りながら、同時に自由あることに存する」という言葉が、深

に染入り、この母なる地球が暗黒の彼方に浮く小さな星だ

ということを、いつも心のどこかにめておきたいと思いました。






今日の一曲は

ヴィヴァルディ作曲協奏曲集「調和の霊感」です。

ヴィヴァルディ:協奏曲集「調和の霊感」/イタリア合奏団
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     さくらんぼ新芽


確かにまだ冬。

静寂の

冷え冷えとした冬なのに

今朝の庭は

色彩を帯びた

早春の

明るい光りで満ちていた。


てっぺんに

一枚の葉を残した

さくらんぼの木に

おずおずと

顔を覗かせた

小さな芽生え


未来を込めた萌芽が

やがて萌え出る若草の

いのちの種が

あったかな土に

抱かれていることを

教えてくれる。












やったね千秋!

昨晩の「のだめカンタービレ」の余韻なのか

今朝一番に聴いた曲はチャイコフスキー作曲

「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」でした。


若い頃を思い出して

「より自分に正直でありなさい」の文字が懐かしい

友人から贈られたレコードで。


メンデルスゾーン&チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲/ハイフェッツ(ヤッシャ)
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      春芳
    新しい年にあわせたように花開いた薔薇「春芳」小さな庭に

   優しい香りが漂っています。


「去年今年貫く棒の如きもの(虚子)」

お正月を迎えると、昨日の続きの今日なのに、なんだか神聖な

気持ちになり、空気までも新鮮に感じられますね。

子供のときから「一年の計は元旦にあり」と言う言葉が苦手でし

た。何事に対しても意欲のない子供だったので、目標などあろう

はずもなかったのです。それでも大人になるに従って、なにか一

くらいは目標を持たないと、、、、と思うばかりで、今までただの

一度も自らの目標を立てることもなく、あえて言えば目標がない

が目標で、あるがままなすがまま、楽しい時は楽しいように、泣

きたいときはなくだけ泣いて、苦しいときは苦しみを受け入れ、時

癒やしてくれるまで待ち、ごく自然に生きてきたように思います。

    薔薇 春芳

人から見ればなんと無気力な消極的な生き方と笑われるかもし

れないのですが、「誰のようにも生きられず、誰のようにと生

きもせず」、ただ自分の道を歩むしかないのです。

最近はすべての執着からはなれて、「生ぜしもひとりなり、死す

るもひとりなり。されば人と共に住するも一人なり、、、、」、一遍

上人の境地に早く達したいものだと、思いを新たにしました。


ただなんとなく生きても、生涯で同じ年は二度と生きない私達、

私にとってもかけがえのない2008年です。

皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします。







新年早々に聴いた曲は

バッハ作曲「ブランデンブルク協奏曲」です。

バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1~4番&第6番/ミュンヘン・バッハ管弦楽団 リヒター(カール)

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    2007 最後の入日



暖かかった冬も今日は朝から冷たい風が吹きすさんで2007年

終わりにふさわし寒さでした。

一分は長く感じても一日は短く、さらに一年はもっと短く、あっと

う間に時が流れ去ったように思います。

毎日規則正しい時間の流れの中で、日は昇り日は沈み、四季は

ぐり花は咲き、また散って行きました。振り向けば全て昨日の

出来事のようです。

今年も私の拙いブログにきてくださった皆様に感謝して、春(未来)

への憧れを、大好きなこの詩に託し、忘れられない2007年に

さようならをします。

皆様どうぞ良いお年をお迎えください。



丘の上には

松があり 梅があり 山桃があり 桜があり

木はまだ若く 背丈も低いが

互いに陰をつくり 花のかおりを分ち

アラシのときはよりそいあって生きている


ここは瀬戸内海の小さな島

だが丘の頂から見る空のかなたは果てしなく

風は

南から 北から 東から 西から

さまざまな果実の熟れたにおい、萌えさかる新芽や

青いトゲのある木 花のことば を運んで吹いてくる


それは おおらかな混声合唱となって丘の木々にふるえ

天と地の間

すべては 光 空気 水 によって ひとつに

つながることを教える


風はあとからあとから吹いて来る

雲の日 雨の日 炎天の日がある

みんなこの中で渇き 求めているのだ

木はゆれながら考えている

やがて ここに 大きな森ができるだろう

花や果実をいっぱいみのらせ

世界中の鳥や蝶が行きかい

朝ごとにぎやかな歌声で目覚めるだろう

                (志樹逸馬詩集より)







2007年最後にクレンペラー指揮で

シューベルト作曲交響曲第8番「未完成」を聴きながら。


バイエルン放送交響楽団, クレンペラー(オットー),
メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」,シューベルト:交響曲第8番「未完成」

京都 慈眼寺

時々訪れる、神沢吐口の眠る京都 慈眼寺。


歴史上の人物で心ひかれる一人に、神沢吐口がいます。


「我も子孫なきにしもあらねど、其きずなを断ちて、折々毎に

逢見れば、遠いが花の香にて、互いにうれしき心地ぞする」

                           (神沢吐口著 『翁草』)


彼は江戸時代としてはめずらしく独居のすすめを実践した人で

す。40歳で早々と奉行職(与力)を退いて、生きる目的を人生の

後半にさだめ、44歳の時妻に死なれると娘婿に跡を譲り、家族

とはなれ借家から借家へと居を移し、人間と社会に対し旺盛

な好奇心を抱き京の町を西から東へと、どこかで出来事あれ

飛んでいって観察し、市井の生活に耳をそばだて、あらる情

や事件を貧欲に求め記録し続け、見聞記『翁草』二百巻

ています。



     ミニバラ 蕾



残された人生を田舎暮らしでなく都会暮らしという粋な生き方を

選んだ吐口家族の「愛に迷う習い」なく、「其きずなを離れる」

ことができたのは、「其工夫というは、生涯皆芝居なり」と思

うことであると、ある僧の問いに答えています。


趣味の道に生き、気を養うもっぱら歩くことを実践し、今で

言う都会派老人、江戸のシティ・オールドボーイといえる吐口は

「可は可に任せ、不可は不可に任す」と自らを可可斎と名乗り

、「残る世を其日暮らしの舎り哉」と、あらゆる執着を払いのけ

「知足(足るをしる)」の生き方を実践しながら悠然と余生を送り、

寛政七年(1795年)86歳で息引きとったということです。 

                       (立川昭二 『養生訓の世界』参照)









立川 昭二
足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ