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夢見つつ深く植えよ(小さきものたちへのブログ)

私はこの自然界に存在する小さな物が好きです。

私の小さな庭に咲く花々や、そこにやってくる日頃見過ごしてしまうような虫たちにもスポットを当てながら、私も小さき者の仲間として、この自然界で共存していければと願っています。

    小アジサイ


このところ岡山と京都を行き来することが多く、先日も台風の北上

と共に京都へ、、、、。
じとじとと雨の続く季節、湿気の多い風土がつくりだす自然、人間

自然の一部とはいえ、自然の素晴らしさは言うに及ばず、自然

ろしさを前にして人間はただ呆然とたちつくすしかないのでし

うか?


    夏枯草
   

台風が去った翌朝、土砂崩れのため濁った水が滝となって轟々

と山全体に響き渡る音を聞きながら、小雨に煙る山道を散策す

と、咲き残りの小アジサイ、透き通るような紫の夏枯草(かこ

そう)、あるかなきかの淡い紫が可愛らしく、雑草と呼ぶのが

はばかれるヒメジオンが、緑に映えながら生き生きと咲い

ました。

「雨に洗われた木々や花は美しい」、、、

聞きなれた言葉ですが、京の山深くに広がる野草浄土。

雨にあらわれなくても、穢れを知らないその姿に見とれることは

しばしばですのに、雨の雫を受けた野の花の美しさはまた格別、

深く心打れます。


    ヒメジオン
       

この花たちには似つかわしくない歌かな?と、気が引けましたが

なぜか懐かしい歌 「雨に咲く花」歌いがら散策、、、、。


  ♪~およばぬことと 諦めました

     だけど恋しい あの人よ 

   ままになるなら 今一度 

    一目だけでも会いたいの~♪ (昭和10年)


雑草と呼ばれている野の花に

降りそそぐ柔らかい雨、

花に寄せる想いも

人に寄せる想いもおなじですね。

その時々の心模様で

深くなったり浅くなったりします。



*写真上から、小アジサイ、夏枯草 ヒメジオン、

 夏枯草はウツボグサとも言います。


    桔梗
 


ほぼ一週間ぶりに見る我が家の庭、すーとのびた緑の茎の

に、うす紫の桔梗の花が涼しそうに咲いていました。

このところ厚い雨雲に覆われた空ばかり見ていたので、スッキリ

晴れた夜空に輝く星が恋しくなったのでしょうか、

思わず「お星様みたい」、、、その咲きようが清らかで。


秋の野に 咲きたる花を 指折り(をよびおり)

かき数えれば 七種の花 (万葉集8ー1537 山上憶良)


はぎのはな 尾花 くず花 なでしこの花、をみなえし

またふじばかま あさがほの花 (万葉集8ー1538 山上憶良)

 (万葉の時代、桔梗は朝顔とばれていたらしい)


万葉集にも詠まれているように、桔梗は秋のイメージ。

清楚なうす紫と、どことなく寂しげな花びらに心ひかれて、

園芸種を庭に、、、、。

あまりにも早い時期に咲く桔梗の花に、

「せめて立秋まで待って」と、心の中で思うものの、

蒸し暑いこの季節

小さな庭に桔梗色の爽涼な風が吹き抜けていくと心地よい。

星型の美しい花は一時の心の安らぎ、

野の星のごとく、きらめいて見えた。





  

    ユキノシタ



夜な夜な闇に紛れてゆれていたあやしい正体は、お寺の石垣に

、びっしりと雪が舞い降りてくるように咲いていた雪の下の可憐

姿でした。

一見、白い花びらだけに見える雪の下の花びらは、小さな花びら

三つと、白く長い花びら二片とでできている。

花びらの形を見ながら「どうしてそんなに不思議なかたちなの

?」と語りかけると、今にも返事が返ってきそうな雰囲気。


上三つの小さな花びらには紅の点々を散らしていて、人の顔にも
見えたり、戦いに行く時のたてのようにも、どこかの部族の仮面の

ようにも見えて、何から何までユニークな姿の雪の下の花は目立

たないながらも洗練された風情で心ひかれる花なのに、なぜ

日陰の身、湿ったところや、岩や崖の割れ目などでゆれて

雪の下の花言葉は「せつなる愛情」「軽口」「好感」「無駄」

と、さまざま。軽口をたたきながら夜の闇に紛れて舞う雪の下、

む小さき物達に「私を見て!」とばかりの涙ぐましい

乱舞しょうか?

そうだとすると、なんともいじらしい白い妖精ですね。





ユキノシタ:ユキノシタ科 ユキノシタ属 多年草(宿根草) 

       学名:Saxifraga stolonifera 別名:コジソウ
       原産地:中国、日本(本州・四国・九州)
       花期:5~7月
       ユキノシタはハーブの仲間、葉はてんぷらなどにします。
       やけどの時に利用したり百日咳、ひきつけなどには絞り汁
       を飲ませる。
       


もし、リラの精ならぬ白い妖精、雪の下だったら?・・・。

きょうの一曲は

チャイコフスキーのバレエ音楽「眠れる森の美女」です。

チャイコフスキー / バレエ 「眠りの森の美女」作品66 : 全曲/
エルネスト・アンセルメ

   ユキノシタ


平安のむかし京の町に住むすべての「もののけ」を、北山奥深く

追いやったという話を聞いても何の不思議もない深い闇。

「もののけの出る寺」と称されるこの山寺が真の闇に包まれる時、

ヌエや夜たかは笛やヒチリキ、風の音は太鼓のように響き、天狗

の雅楽は自然のシンフォニーと、まことしやかに語った作家がい

るくらいだから、何が出てきてもおかしくないこの寺の夜は、森閑

して聖であるとともに不気味ともいえる。



    ユキノシタ


夜の闇が恐ろしいと思ったのはもう昔の話で、

年をとるとその「もののけ」とやらにあってみたくなる。

草木も眠る丑三つ時、

自然の命のうごめきなのか

何かがゆれる気配が、、、、

頭から仮面をすっぽりかぶり

天狗の雅楽に合わせて

まるで操り人形のように

ゆらゆらと宙に舞う

白い妖精たち

夜な夜な繰り広げられる仮面舞踏会。

あやしさよりも繊細で美しい「もののけ」の正体は

いったいなに??



   小さな空


  

  

  まばゆく光あふれる時刻を

  白昼と呼ぶのだそうです。

  四方山壁の

  わずかな空。

  見上げる私のからだが

  天空に吸い込まれそうな感覚に。

  どこまでも静まりかえった

  午後の一刻

  杉木立をゆっくりわたる

  白雲だけが

  静寂のなか

  ただ一つの動なのか。  





ワイセンベルクの奏でるバッハのカンタータBWV147

「主よ人の望みの喜びよ」、静謐で神聖な演奏に

心打たれます。

アレクシス・ワイセンベルク
バッハ:主よ、人の望みの喜びよ(ピアノ曲集)

   薊



 あざみあざやかな あさのあめあがり(山頭火)


 慣れるとは恐ろしいもの

 もみじの緑に心洗われて

 そのなかにどっぷり浸かっていると

 あぁ~色が恋しい

 目にも心にも彩がほしくなってくる


 谷に沿って

 夏草を踏み分ける

 目に飛び込んできた

 あざみの紫紅

 みどりのなかで

 ひときは鮮やかなあざみ色が

 しぼんだ心を豊かにしてくれた



あざみといえば、やっぱり、、、

大好きなあの歌

「くれない燃ゆるその姿 あざみに深き わが想い」

歌われる あざみの歌 でしょう。(クリック)




 
    なるこゆり

    葉をシカに食べられたナルコユリ


雨の日、暇にまかせて読んだ一冊の本。


有漏路より 無漏路へかへる ひとやすみ

雨降らばふれ 風吹かばふけ(一休)

有漏路とは煩悩にまみれた者たちの世界、

無漏路とは煩悩から脱した汚れない清浄の境涯

つまり浄土のことだそうです。

私たちは有漏路と無漏路の境目のこの世に生きている、

雨風やさまざまな試練にさらされるのは当たり前、

生きていくことのむずかしさや行く手を阻む障害、

それこそが普遍的であると一休は説いたのか?

人間の能力はどんな困難にも耐えられると説いたのか?

「まあ、そんなに硬いことは言わないで

もっと肩の力を抜いたらどうですか?」と、

余裕をもって人生に向かうことを説いたのか?

タブーを恐れず

何物にもとらわれずに生きた一休禅師の

人生を達観した言葉に引き込まれていった。


山寺に一人留守番の私

この本を読み終えた後

自然とは?と

自分自身に問いかけてみた。

目の前にあるもの

人間を含めすべてが自然だということ。

自然と人間をかけ離しているのは

他ならぬ

人の心の在りかたなのかもしれない。








    流れ

 いつもは穏やかな流れが30分も強い雨が降れば水があふれる


日常の生活用水を天の恵みに頼る山寺での暮らし、

ひとたび長雨や夕立に見舞われると、

天の恵みも得られない。

日頃からの貯め水に頼らなくてはいけない。

小さな谷川は少しの雨でもすぐに滝のように流れ

土砂で水が濁ったり、水を引く管に落葉が詰まったりする。

そのたびに山道を登って土砂や落ち葉を取り除いて

水が澄むまで水の使用を待たなければならない。

便利さに慣れていると大変だと感じるけれど

ここでは当たり前のこと。

あまりびっくりすることではないらしい。

お風呂も洗濯も水まかせ

自然と共に暮らすとは?

こいうことを言うのでしょうね。

不便な生活はともかく

あまり激しい長雨が続くと

心配なのはやはり自然の脅威

山道は寸断され小さな谷川は勢いをます。

崖崩れだけを心配した日々だった。






   雨の山門
   雨の日境内から山門を・・・


神々しい山々に神を感じ、

そこから流れ出る川を「神川」と呼ぶ。

「加茂川」、「鴨川」は神川に由来しており

「神聖なり」を意味するとか。


それにしても

鴨川の源流にあたる北山の山寺には

雨がよく降る。

古くから水を祀り、水の伝説として

歌舞伎の演題になってもおかしくない。


朝は晴れていても午後から突然強い雨脚にさらされる。

時おりお参りにこられる人が「街は晴れていたのに」と、

驚かれることもしばしば。

このように、ある一定の狭い範囲にだけに降る雨のことを

私雨(わたくし雨)、または、わがまま雨と呼ぶそうだ。

雨のつく言葉は数え切れないぐらいあるけれど

「わたくしあめ」とは素敵な響き。

夕立かな?と思ったけど

私はあえて「私雨」と呼んでみたかった。





   青もみじ


半月ほど家を留守にしている間に六月がいつの間にかすぎ去り、

私のなかで、しばし時間が止まっていたのに気がついた。

蒸し暑い下界を離れ再び訪れた京都北山の古寺。

京都の市街地を北に半時間で行けるところに今でも精霊の自然

環境を保つこの寺に行きつくまでの両側には北山杉がそそり立っ

ている。


古くから水の行場として鴨川の水源の一端をになっている水清ら

かなこの地も自然の形態は時代の流れと共に変化していったと

のこと。今は北山杉におおわれている四方山壁には江戸時代、

北山千本桜といわれるおびただしい山桜の咲く聖地であったとい

うことです。



     みどりの空間


五月に滞在した時は若々しいきみどりのもみじの中に石楠花の

やわらかい薄くれないと山椿の赤やピンクが美しい色を見せてい

た。夏を迎えたこの季節、淡い紅やピンクの彩はどこにもない。

あたり一面青もみじの、緑 、緑 、緑、まるで緑の花が咲き匂っ

ているような錯覚に陥る。


緑の絨毯を敷き詰めた贅沢な緑づくし。

石段には蝶のかたちをした緑のもみじの花が

なんとも可愛らしく落ちていた。

見上げるとわずかな空間に広がる青い空、

辺り一面のもみじの緑がしたたりおちてくる。

時おりなく鳥の声、ポ ポ ポと鳴くのは筒鳥、

青もみじが光に透けて

互いの影が自然の濃淡を生み出している。


緑一色のなかに色を探していると遠近にさく空木の白が美しい。

この季節山に咲く花は白が多いように思うのは気のせい?

森に差し込む陽射しは案外紫外線が多いとか、白色はもしかして

花自ら紫外線から身を守るためなのでしょうか?

それとも蝶ちょのお気に入りの色?

訳もわからないまま、ふとそんなことを思ってしまいました。



   空木



手入れがされていない自然の中で枯れ草も枯れ木も背の高く

なった雑草もみな同じ命を謳歌しているように思えるのがなんと

も不思議。

  山あれば山を観る

  雨の日は雨を聴く

  春夏秋冬

  あしたもよろし

  ゆうべもよろし


山頭火の山行水行、この境地には程遠いものの、近づきたい

という気持ちになってくるのも不思議。