前回の blog で、世界中の人々から
「救世主」
と呼ばれるイエスが歩んだと言う3年半の苦難の路程と、
先の大東亜の戦いにおいて、
日本民族が歩んだ3年半の悲劇的な道のりが酷似していることを指摘しました。
それはまるで、
日本民族が将来歩むかも知れない道のりを、
イエスという人物の人生になぞらえて書かれているようにさえ感じてしまうほどです。
キリスト教においては、
イエスの出現は旧約聖書において預言されていて、
その箇所は「イザヤ書53章」だと言われています。
私も、
この「イザヤ書53章」はかつて読んだことがあったのですが、
今回思うところあって、
この聖書の記述も改めて読んでみました。
すると、、
今度もまた、
「気付き」を感じてしまったのです。
ということで、今回の blog でもまた、
気付きに至った内容を、
皆さんと一緒に share していきたいと思います。
ではまず、
肝心の聖句の内容を知らないと話にならないので、
この下に記載しておきます。
イザヤ書 53章1~11節
53:1[編集]
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。しかるに、
われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、
苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主は我々のすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11[編集]
改めてこの記述を読んで感じたこと。
え、これひょっとして、、
日本のこと言ってんじゃないの?
ということで、またしても考察を入れてみましょう。
大東亜の戦いにおいて、
日本は Asia の独立をかけて奮闘しましたが、
爆撃、大空襲、原爆投下と、
散々な被害を被った挙げ句、
戦後は「Asia の侵略者」の汚名を着せられ、
まるで孤独の中で死んでいったイエスのように、
日本は孤立し、侮られ、傷つけられてしまいました。
第二大戦の前から、日本は、
中国の人々の救済と解放を目指して、
中国大陸に乗り込んで行きました。
しかし、その国は、
自国民同士で情け容赦無く殺し合う、
獣のすみかだったのです。
自国民でも平気で殺す者達の所に、
日本人が飛び込んでいったら、
これぞ正に
「飛んで火にいる夏の虫」
多くの先人達が、
中国において虐殺されてしまったと言います
このような、
獣達が殺戮し合う危険極まりない世界に飛び込み、
人間の住める世界を創ろうとしたのだから、
これはもう、
“Mission Impossible”
だったと言っても過言ではないでしょう。
満州国を建国し、
日本国内でさえ食料が不足している時勢に、
中国に対して莫大な投資を行ない、
道路、学校、病院、鉄道建設などのインフラを行ない、
「人間の住める国」を実現したのです。
しかし、戦争が終わった後、
中国人同士で殺し合って積み上げられた何百万人もの死者の責任を、
「日本軍の蛮行」
として押し付けられてしまったのです!
先人達は、
自分達が同胞と信じて疑わなかった中国人達から裏切られ、
罠に掛けられ、
彼らの不義のために砕かれてしまったのです。
日本には戦時中、二発の原爆が投下されました。
日本は、ユダヤ・キリスト教圏勢力から、
異邦の神を祀る、
多神教で偶像崇拝者達だという烙印を押されていました。
原爆投下は、彼らの振りかざす正義の名の下に、
「神の裁き」
として行なわれました。
原爆投下前、America においては、
Protestant 教会の牧師たちによる
“Best wishes”
の祈りが捧げられました。
そのような日本に対して、
戦後行なわれた「暴虐な裁き」。
それが他ならね
「東京裁判」
でした。
この裁判は、侵略勢力によって仕組まれた、
日本に対しての「初めに有罪ありき」の裁判で、
彼らの不義を、全て日本に負わせる為の裁判でした。
多くの先人達が、虐げられ、苦しめられ、
悪しき者達によって葬られていきました。
日本は戦時中、
連合国軍からの攻撃によって、
230万人もの死者を出したと言われています。
日本が、これほどの犠牲者を出したことに対して、
「日本は何故さっさと降参しなかったんだ?」
という人達もいます。
しかし、日本は戦時中、
自国の為だけに戦ったのではありません。
日本は、
Asia の解放と独立の戦ったんだということを、
忘れてはなりません。
日本は先の戦いにおいて、
沢山のものを失ってしまいました。
しかし、この、日本の払った犠牲が、
その後の世界の状況を、一変させて、
全く新しい世界秩序が形成されたのです。
このことは、大変重要な内容なので、
後でもう少し詳しく書きます。
既に申し上げたように、私は以前既に、
上記の「イザヤ書53章」は読んだことがあったのですが、
この聖句と、日本民族が辿ってきた道のりと、
かくも共通点が多い、というか、
まるで日本の近代史をなぞるように書かれているとは、
全く気付きませんでした。
多くの日本人は聖書に馴染みが薄いので、
上記の聖句自体を知らない人も少なくないかも知れません。
また、知っていたとしても、
「反日自虐教育」
という度の強い眼鏡のように強力な filter が掛かっている人には、
この聖句と、日本民族との関連性など、
気付く由もありません。
別の見方をすれば、
反日自虐教育を仕掛けた張本人達は、
殆どの日本人が知らない、日本に関する、
ある重大な秘密を握っていて、
それを当の日本人に気付かせない為に、
「自虐史観」という強烈な呪縛を、
日本人達に掛けたのかも知れません。