4月3日に韓国から帰国する時には桜の花弁が散って風が吹けば舞い上がる光景が拡がっていると予想していたが違った。
広島空港からリムジンバスで広島城の濠に沿って車が進むと車内にいた外国人がカメラを取り出して濠に向かって写真を撮影しだした。濠の土手に植えられた桜並木に造花のような花弁がビッシリ咲き誇っていた。満開だった。春が来た!不思議なもので心が浮き立つのが判った。3月城山公園の桜木は枯れ葉一枚もなく寒さに裸で震えるか細い姿態。細木が受ける寒さの感覚が良助の肌身に突き刺さるようだった。「春よ来い、早く来い!♪♪歩き始めたミヨチャンが…♪~どこからか幼子の歌声が聞こえてくるようだった。
何時も思う
冬の桜樹の小枝は折れやすい
春の日差しの温かさを感じ始める季節
突然この小枝の先に花の蕾が顔をだし
震えながらも花を力一杯振り絞って咲き誇る
このエネルギーは何処からくるのか?
無から有は生じない
人は便利な言葉を知っている
‶生命力!!”
桜花が吹く風に舞い上がり、風にのって飛び、拡げた花弁の落下傘でユラユラと地に落ちる
しばらくすると枯れた小枝に瑞々しい小さな緑色の葉が顔をだす。
アジサイがピンク、白、紫の色の花をつけるころ、桜の樹木の緑は濃い緑色
濃い緑色の葉をつけた樹木の中から聞こえてくるセミの独唱
空から降り注ぐ太陽の光
天然のスポットライトを浴びて歌うミンミンゼミ
京助が桜で最も印象残っているのは高校に入学した時だった。教室の前庭に植えてあった桜樹をバックに撮った写真が今もアルバムに残っている。もちろん白黒写真だが白黒写真が劣化している。あれから60年だから仕方がない。1クラス平均35名、一学年250名だった。
クラスは進学組のクラスだった。入学時に本人の希望と入試結果、中学校の内申書を合わせてクラス編成がされていた。まだまだ大学進学希望者が少ない時代だった。5クラスの内、就職クラスが3組、私立大学コース、国立大学コースがそれぞれ1クラスだった。
橘京助はこの高校に入学する前に別の高校に通っていた。
小学校の頃だった。近所に5歳離れた兄の友人上田敏行がいた。兄は毎日バス通学で高校に進学して瀬戸内海にある製鉄所の就職していた。兄の友人は同じ県内ではあったが工業高校の機械科に入学して下宿住まいで故郷を離れていった。春休み、夏休みの度に都会の雰囲気を漂わせながら帰郷する姿にまず憧れた。
そして兵庫県の京助も知っている大手電気メーカーに就職していった。
京助は工業高校と電気メーカーいう職業専門分野が繋がるという事がこの時、理解できた。京助の住んでいる町内には兄が通った県立高校の分校があった。この高校には普通科と農業科があった。
中学3年生になった時、受験高に兄の同級生が進学した工業高校を希望した。
だが、受験結果は無残だった。『不合格』だった。仕方なく京助は第二希望として受験していた町内の高校分校の農業科に入学した。
落胆しながら学校に歩いて通学した。小学校5年から夢を膨らませて受験した高校生活が叶わなかった。その年、山奥に有った農家の実家を集落の中心に近い場所に引っ越しする作業が始まっていた。当時は大工さんが半年くらい作業小屋の中で柱一本一本木と木を組み合わせるホゾをカンナとノコギリを使って加工する時代だった。
四月、京助は受験に失敗した敗北感を抱きながら父親と一緒に新しい家屋の基礎造りに励んだ。土台となるコンクリートの基礎の土台を固める作業だった。
勿論、土建業者は近所に有ったが『できるだけ建築代金を少なく』ということで手作業はすべておこなった。水道管の配管も父親と塩ビのパイプを火で温めて屈折する作業も、さらに屋根のトタン張も・・・。
水道がまだ町内にない時代だった。各家には井戸が必ず必要だった。水をくみ上げるには釣瓶から電気式ポンプにはなっていた。井戸掘り業者の助手のような手伝いも父親と二人で行った。
やっと完成したのは実家が完成して入居が叶ったのは真夏を過ぎた頃だった。
京助は希望校でない高校生活に疲れてしまった。思考錯誤している時、新居の後ろに有った家の長男が大学進学を目指していると知った。京助の頭の中に閃くモノが有った。良助より一つ年上だった。
『大学?!』
数日たった梅雨の季節だった。恐る恐る父親に聞いてみた。
「大学に行くために今に学校を辞めて進学したいんだ・・・」
咲くもサクラ、散るも桜、にせものは”さくら”
俺も、俺も!桜の花を咲かせたいだ!!!!
・・・・・
~次回に続く