入学した早々退学願いをだした。中学校三年生の時の担任の教師に相談した。
言われた「一度、転校したという記憶は、これから君の人生で大きな意味を持つようになる。再び困難に遭遇すれば『また、転校すれば…』という気持ちが起ってくるもんだ。最初の志を貫徹できるかね。君が出来ると言うなら再受験の書類を整えてあげよう」
それからが本当の苦労だった。新しい高校のクラスは進学クラスだった。近隣の中学校の優秀な生徒たち大勢きていた。そこに京助は1年遅れで入学した。当初はマズマズの成績だったが、二学期から暗闘の毎日だった。父親からハッキリ言われていた。”とても私立大学に進学させるお金はない”と。
当時の通知表が残っている。成績順位は1年1学期35番/クラス人数54人。2学期39/54 3学期35/54 2年1学期 41/54 2学期47/54 3学期50/54。
学力の基礎力の無さを痛感した。特に英語の発音などカタカナ発音だった。二年生の後半ノイローゼに近い精神状態に陥った。『大学進学と二度と転校しないという恩師との約束』は絶対尊守条件だった。
三年間は受験という地下牢の中で呻くような生活だった。1年遅れて入学したから卒業した年19歳だった。大学受験したが不合格だった。職場も無く行く処もなく自宅浪人が始まった。近所の人と顔を合わせるのも嫌だった。夜父親のバイクで山道を無免許で走った。唯一の解放的気分だった。昼間は農家の手伝い、夜中は受験勉強。砂を嚙むような毎日だった。‶私立に入学させる金などないからね”‶一度変わってしまったら癖になるからね。それだけは約束できるね”
中学の恩師の言葉の狭間でモガキ続けた。翌年受験した。前年から全国の大学で吹き荒れた左翼学生運動の波は続いていた。国立1期校は不合格だった。2期校の合格発表の日の翌日に新聞を父親が配達所まで取りに行って帰ってきた。「合格しとるで!」嬉しそうだった。
中学卒業して最初に受けた工業高校入試に失敗した。『朝には今日一日だけ生きてみよう、今日一日だけ生きてみよう、明日は死んで・・・』の毎日だった。
京助は思った『やっと終わった。恩師との約束は果たせた』長い五年間だった・・・・。
今から60年も前の話だった。
韓国から帰って翌週の日曜日会場の区民文化センターに出かけた。広島県美術刀剣保存協会から定期鑑賞会の案内が届いていた。
実物の日本刀を両手で持ち上げて自分の眼で見つめる事ができる。
今回で二度目だった。
昨年の暮れに1度参加した。鑑賞会には5本の抜身の日本刀が並べられたいた。勿論、日本刀は鉄の塊だとは知っていたが思った以上に重量感があった。五本とも長さ、刀身の曲がり方、刃の表面に浮かび上がった文様、刃先の砥石による磨きの滑らかさ、刀身に施された彫刻、手で掴む柄の部分に刻まれた文字
一振り、一振り自分の手で持ち上げ目元近くまで引き寄せて鑑賞する。
貴重な体験だった。
幼児期、近所の鍛冶屋さんに父親と何度も訪問したことがあった。日本刀を製作していたのでは無かった。包丁、鎌、鍬など日常生活の必要品を製作していた。手押しのフイゴも有った。黒と茶色の鉄の粉が積もって赤錆の仕事場は秘密の場所の様な‶気”が立ち込めているようだった。この場所から稲刈りに使う鎌、毎日母親が使っている包丁が造られている。
京助が日本刀に関心を持っは高校時代に日本文学作家三島由紀夫の作品の作品に興味を抱いた。この作家が1975年、昭和45年東京の陸上自衛隊市ケ谷駐屯地で集まった自衛隊員に演説した後、日本刀で割腹自殺した。衝撃だった。
もう一つは幼少の頃、母親が教えてくれた話だった。戦時中父親が持っていた日本刀を警察に届ける時、警察所の職員が『随分立派な日本刀ですね』と褒めてくれたと・・
70歳を越えた京助は自分の人生行路は日本刀の製作工程と重ねてみるほど年月を経てきたのを感じた。
良い意味でも悪い意味でも・・
良しも悪しきも(よしもあしきも)
・・・日本刀の素材は、日本古来の製鉄技術であるたたらによって生産されます
1.水へし・小割り→2.積沸し→3.鍛錬(たんれん)・皮鉄(かわがね)造り→4.心鉄(しんがね)造り・組み合わせ→5.素延(すの)べ・火造(ひづく)り→6.土置き(土取り)・焼き入れ→7.仕上げ・銘(めい)切り
日本刀の研磨
1.下地研(したじと)ぎ→2.仕上研ぎ→3.拭(ぬぐ)い→4.刃取(はど)り→5.磨き→6.なるめ→6.なるめ→7.化粧研ぎ
しかし一口(ひとふり)の日本刀が完成するには、鞘師(さやし)、塗師(ぬりし)、柄巻師(つかまきし)、白金師、彫金師など、その道を極めた多くの職人の技術が必要となります。日本刀制作の大きな特徴は、これら全ての技術が結集して初めて一口の日本刀として完成するところにあると言えましょう・・・・
参考資料刀剣博物館 作刀工程と研磨 | 刀剣博物館
~次回に続く