前回のあらすじ
60年に渡って共産主義の間違いを訴えてきた渡辺一喜の話を聞いていた本田勝一、小学生の男の子の孫を持つ橘武、今春から大学生と高校生になった子どを持つ木村一二三はそれぞれの育ってきた環境圏によって影響を受けてきたのを感じとった。昨今のニュースからこれまで日本のなかで培ってきた家族愛、近所愛、国家愛、世界愛が崩壊しつつあるの三者三様に実感していた。
3月25日午後東京地裁が文部科学省の主張を認め世界平和統一家庭連合(旧統一教会)解散を命じる決定をいたというニュースが入ってきた。
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る解散命令請求について、東京地裁(鈴木謙也裁判長)は25日、文部科学省の主張を認め、解散を命じる決定をした。教団信者による不当な献金勧誘行為などについて「類例のない膨大な規模の被害を生じさせた」と指摘。法令違反を理由とした解散命令は3例目で、幹部らが刑事責任を問われたオウム真理教などとは異なり、民法上の不法行為を根拠とした初のケースとなった。(時事ドットコムニュース配信より)
解散命令請求について、プロテスタント系の「日本基督教団」は「刑法であれ民法であれ、不法行為をした宗教団体の法人格が取り消されるのは当然だ」と賛同。その上で、憲法では「信教の自由」が保障されており、「宗教活動まで剥奪されるわけではない」とした。
「事実上の宗教弾圧だ」と非難するのは新興宗教団体「幸福の科学」。文部科学省の解散請求は信教の自由を侵害しているとし、「『民法上の不法行為』を理由に(解散命令の)適用範囲が不当に拡大される恐れがある」と危惧した。
創価学会は解散請求への賛否について「回答は控える」とした上で、「信教の自由を厳守する観点から、宗教に対する公権力の行使は慎重であるべきだ」との考えを示した。(時事ドットコムニュース2025年03月26日 08:56民法根拠、割れる見解 「妥当」「弾圧の恐れ」より)![]()
翌々日3月27日東京の外国人記者クラブで日本家庭連合の会長の記者会見がライブで入ってきた。この裁判で文科省が甚大な被害があったとした根拠は訴え出た数名の人たちの証言が根拠となっているようだった。『その人たちの数名は拉致監禁に遭った人たちの訴えだ』と会長や顧問弁護士が発言していた。
今から55年前、本田が家庭連合の信仰に目覚めた学生時代。同級生が拉致監禁に遭って真夜トイレの窓から脱出したという友人がいた。彼は妹と二人の母子家庭で「母親から監禁、涙の訴えで説得された」と言った。だが、彼は監禁、説得に折れることなく信仰を続けた。母親は家を相続してくれると思って大いに期待されていたらしい。
本田が知っている限り、その頃の脱会説得者や教会を異端視する人たちはいたが法律の専門家や教義の専門知識を保有している人は多くなく、脱会専門家に近い人たちは少なかった。
今回の裁判の判決に対する記者会見て『脱会屋』という存在があり、役割り分担もプロ並みに洗練された人たちがいたということを知った。昨今ニュースでネットで集められた輩が押し込み強盗の役割分担で事件に加担する時勢で『さも、ありなん』と思った。
本田も高校入学で1年浪人し大学入学にも1年浪人して2年生の春、中途退学して伝道活動で日本全国を歩いた。
携帯電話もスマホもない時代、父親はバスに乗り汽車に乗り私が入った教会まで訪れたと数年後に聞いた。親の愛情の深さ、子供に対する思いの大きさを知った。が本田はそれ以上に『確信が欲しかった。親の愛情以上に人生の道しるべが、人間が生きるという意味の確信が・・・』
それからは暗黙の了承で許してくれた。心の中の片隅には寂しさを抱えながらも黙っていた。親の心情も解りながらも自分はこの道を”去る”ことは出来なかった。浄土真宗の開祖親鸞上人がそうだったように。宗教に目覚めた日本の仏教の開祖がそうだったように。本田は若かったがそれが偽らざる気持ちだった。
同じ家庭連合の信者で十数年間拉致監禁され、偶然にも発見された後藤徹氏の実録告白文を読み切った。
どこかもわからない施錠だらけのマンションの一室。親族からの突然の監禁が事件の発端だった。12年5ヶ月にわたる監禁から、餓死寸前での生還と、民事案件という不利な状況から全面勝訴を勝ち取った裁判の軌跡を明らかにする自伝。創藝社発行死闘監禁4535日からの生還 『死闘』後藤徹著(税込み1650円)だった。
その日は突然訪れた。
1995年9月11日、実家へ帰った日。
31歳の私は婚約者と所帯をもつ約束を交わしていたばかり。
何とか脱出できないか。過ぎ去る歳月。焦燥感。
天井に沿う木目模様を眺めながら想う「このまま一生ここで朽ちるのか」
孤独と絶望と飢餓。一日一回の慰めは夕方に微かに聞こえてくる“夕焼け小焼け”のメロディー。そのしらべを何千回と聞き果てた末。監禁から12年5か月たった2008年2月10日、突然の解放。
私は44歳になっていた。(帯文)
次回4月6日ころ
