前回のあらすじ
『当法人に対して文部科学省が申し立てた解散命令請求に関し、同省が裁判所に証拠として提出した陳述書の中に意図的・組織的に虚偽事実を記載した捏造証拠が複数含まれているという事実が、当法人による反論・反証の過程で発覚しました・・・この報告書をここに公開します』勉強会で渡辺一喜が文面を読み進める時、橘武が突然叫び始めた「「クヤシイんだ!大学生だった頃、学内で我々が共産主義の間違いを訴えている時、取り囲んで黒板を壊しにかかってきたのがいた。勝共講義をしていた我々三人を十数人のヘルメットを被った学生集団が取り囲んできた。口々に『反動集団め!』『権力に加担する反動分子め!消えてなくなれ!』と言って黒板を壊しにかかった学生を俺は今でもハッキリと記憶しているんだ」と
連休が始まる前の4月28日だった。橘武から電話が有った。
「本田さん。今回の連休中に島根県の津和野町に行ってみようと思っているんだ」「津和野!?」「そうだよ、津和野の乙女峠にね。本田さんは行った事が有ります?」
「三年前だったかね?首相の暗殺事件が有った時マスコミが騒ぎ始めた季節に訪れたんだ」
「今年5月3日には『乙女峠まつり』が開催されるとネットのホームページに載っていたので。前日の2日は幼花園ホールで前夜祭『希望の巡礼聖年をむかえて』広島司教区の白浜満司教が講演。翌日3日には『開式 聖母行列 野外ミサ(乙女峠) 司式 前田万葉枢機卿(大阪・高松大司区)』と書いて有ったね。式典そのものには間に合わないと思うけれどね。今回の解散命令を受けて自分の決意を固めるために行ってみようと思っているんだ。
子供夫婦、孫たちも車は別だが行ってみると言い出したんだ。俺も日本の歴史の中にこうしたキリスト教の歴史が有ったという事を知ることが大切だと思って賛成したんだ」
橘武がこの前の会合の時突然、大声をあげて叫んだ時と比べて、電話から聞こえてくる余裕のある話ぶりに本田は安心した。
本田がこの乙女峠を訪れた季節はまだ夏の余韻が残る10月の中旬、午前9時過ぎだった。
軽自動車で津和野駅のほぼ裏手の仏教寺院の横を抜け家々あの間を通て山に向かって登る道を走り、途中の駐車場で車を降り、山裾を切り開いた小道を歩いて登った。 道の左には傾斜に沿って小さな渓流があった。
静寂だった。
観光客は誰一人いなかった。
ものの10分も登ると山裾の一角を切り開いた広場にでた。芝生が綺麗に刈り上げられた広場だった。
ステンドグラスの小窓がある華奢な建物がまず目に入った。
広場の左手の奥の斜面に白い人の像があった。その前に犬小屋くらい牢に閉じ込められた人の像があった。
「三尺牢」という立つこともない檻できでその中に閉じ込めて行われた拷問。
この拷問に耐える信者にマリア様が現れ、信者は不思議な力を得て感動して棄教にも応じなかった。
その奥手に聖母と殉教者がレリーフで描かれた碑があった。殉教者には名前が記されてあった。
空は青空、小鳥が木々の間を飛び廻っていた。
広場を一通り歩いた後、入り口にある石碑の文字を改めて読み返した。
石碑に『明治元年長崎浦上の隠れキリスタンは禁教令により三千三百九十四人が捕らえられ、
その内、百五十三名は津和野に流刑となり、長崎浦上からここ光琳寺の境内にあった古い納屋に収容されました。彼らは戦国時代のキリスタンの子孫で、江戸時代の二百五十年間激しい弾圧の中、隠れて信仰を守りとおしました。・・ここ津和野に連行された彼等は五年間、信仰を改めるように・・筆舌に尽くせぬ拷問を受けました』とあった。
石碑に刻まれた一文字一文字から遠く長崎から罪人として捉えられ、船で広島湾の廿日市の港に運ばれ、そこから中国山地の山道を越えさせられた背教かさもなくば死か、選択の余地の無い醜刑に処された方々。37人が命を落とすことになった。 37人の殉教者の中には小さな子ども達も含まれていた。
本田は何も言葉を口にするができなかった。『安らかに⋯』と言ってみても己の心は偽善だと見抜いている。
改めて碑文の文字を一文字一文字を声を出して読んだ。
空をみあげると春風にゆれる小枝の葉が200年の時を超えて囁いていた。
早いもので本田が乙女峠を訪れから3年が過ぎようとしていた。電話口の橘武の言葉を受けて近日中の自分もこの地をもう一度、訪問してみようという気持ちになった。
数日前に読んだ後藤徹氏の12年5ヶ月に渡る拉致監禁、餓死寸前での脱出、生還のドキメント作品『死闘』さらに、親族やキリスト教関係者、脱会請負人らによる拉致監禁に有った夫婦の話・・・長崎から流刑され島根県津和野町の乙女峠で拷問に有って殉教していった方々が重なって蘇ってきた。
『もう一度、乙女峠を訪問してみよう』
参考(長崎県ホームページ【おらしょ通信】 vol.291「浦上四番崩れ 2020年2月24日更新)
1867年、長崎の浦上村で僧侶の立ち会いなしで葬儀が営まれたことをきっかけに、信徒とみなされた68人が捕らえられ、拷問によって21人が棄教するという事件が起きました。
しかし諸外国公使がこれを宗教弾圧だと抗議したため、幕府はいったん拷問を行わないことを約束するのですが、自葬による入牢者が続いたことから再び拷問が行われるようになりました。
捕らわれた信徒たちの多くは改宗して釈放されましたが、その後、改宗の取り消しを申し出る者が増えたため、明治政府は浦上キリシタンを西日本各地に分散して流罪にすることを決定。1868年に114人、1870年には3,280人が各藩に移送されました。これが信徒発見後に起きた悲劇、「浦上四番崩れ」です。
次回更新5/10ころ
