小説 ♪絶唱♪ -17ページ目

小説 ♪絶唱♪

ドキメンタリ-風小説絶唱
epilogue《エピローグ》小説それから
第3部 こころ 75歳になった男が感じる天の役事
第2部 共鳴太鼓 未来を背負う若き世代の物語
第1部 やまぶきの花 戦後まもなく生まれた男が生きた昭和、平成、令和の物語。

  

これまでのあらすじ

 義兄山下豊治から妻とよ子の父下亀一が戦時中教員中に軍隊に応召しシベリアの捕虜収容所で抑留生活をしていた事を聞かされた。過酷な収容所生活に加えておこなわれた学習運動。日本人捕虜を共産主義者に改造する思想運動だったが「父はこの学習に対しては一言の口にしなかった」と義兄は言った。義兄は「父が残した履歴に記されていた一行の文字と1970年代日本で起こったあさま山荘連合赤軍事件の詳細をまとめたドキメンタリ-記事からその実態が判った」と言った。橘竜二も一時、共産主義運動に共感した。

 

 橘竜二は義兄山下豊治が語る父親竹下亀一のシベリヤ抑留生活を聞きながら自分の父親橘久作を思い出していた。

 

 海に流れ込む小さな川の右側は田圃地で左側に30戸ほどの家が川筋に沿って点在する集落だった。

竜二の家はその中で最も小さな家だった。30戸の家のなかで専業農家は数軒。それ以外の家は職人か近くの土建屋などの雇われ作業員か他県に出稼ぎに出ていた。 

  父久作は農家の次男で明治の末の生まれ、母は大正6年(1917年)生まれで同じ集落の農家の長女だった。父の実家は農家だったが久作は分家して大工を生業としていた。母親から父親は萩市の旧家の改築にも参加するくらい「腕の良い大工だった」と何度も聞かされた。だが、分家した事もあり田畑は無く小作料を払って近所の畑を借り食卓に並ぶ葉野菜から芋類まで育てていた。母親は土建屋の手作業や森林組合で植樹や雑木、雑草の伐採する仕事をしていた。

 夕食はいつも母親が仕事から帰ってきてから準備にかかり食事が始まるころ父親が帰宅した。当時の唯一の楽しみはラジオだった。音楽もドラマもニュースもラジオが教えてくれた。

 竜二には四歳違いの姉久恵がいた。その姉は八十近い年齢だが今も健在で大阪いる。日本の高度成長時代に「金の卵」といわれ義務教育が終った3月、就職列車と言われた専用車両で京阪神や首都圏とその近郊に就職して故郷を後にした。姉久恵もその中の1人だった。

 姉久恵の上に生後3カ月もならないで墓刻されている長女順子の名が有るのを、物心がつくころ竜二は知った。

 竜二は橘家の二人の姉を持つ初めての男の子だった。近隣の人々の口に大学という呼称すら話題にならない時代だった。男の子ならせめて上級学校まで行かせたいという両親の思いが有って列車で通える工業高校に通わせて貰った。

 高度成長時代と後々の時代は名付けたが地方の町村は貧しく物資の乏しい戦後が続いていた時代だった。竜二も記憶している事だが小学校の頃だった。大工だった父親が建設中の家屋の屋根から転落する事故が有った。

 今の世と違って労災保険も休業補償も無い時代だった。母親が親戚に今日、明日食べるお米を貰いに行き昼間は森林組合の野外作業に従事し、作業から帰宅して夕食の準備をする日々が続いた。休日は父の見舞いに30キロ先の病院に向かった。姉と竜二は母親が帰宅するまで母親の実家で従姉や従兄と遊んでいた。従姉兄も実兄姉のように接してくれた。

 父親は職人らしく口数は少なく実直な人柄だった。竜二が就職して故郷を離れる時、「自分は大工の仕事で一時期朝鮮に渡って仕事をしていた時もあった」と聞かさせた。竜二は父親の言葉に‶新しい環境でも生きていってほしい”という親心の言葉として受け取った。就職先は横浜のプラスチック工場向けの金型を製作する会社だった。取引先は数社を抱えていた。工業高校の機械科卒業だった事が採用される大きな理由だった。

 就職列車が中卒の子供たちを運んだ時代から10年は過ぎていた。

 竜二は単身で山陰線の山口県の日本海の駅から大阪、京都と東海道本線と乗り継いで1000キロの距離を移動して横浜駅に着いた。駅舎には工場の労務課長が出向いてくれていた。列車を降りてまず一番ショックを受けたのは駅舎内を木霊する雑音の多さと大きさだった・・・。

 

 「もう田舎に行かなくなって何年くらいになる?」竹下豊治が唐突に聞いてきた。

 「家というか故郷に帰らなくなって数十年・・・でしょうかね。両親二人は姉が住んでいる大阪の介護施設で亡くなりました。実家は平屋造りの小さな家でしたので母の実家の甥っ子を通して町内の土建屋さんに依頼して解体してもらいました。お墓はこの親戚の墓地の片隅に小さな墓が建ててあります。自分もやがては故郷に帰るつもりでいましたので、今もそのままにして有ります。思い返してみれば不義理で親不孝者だったと後悔しています。 

 父と母は苦労を苦労で洗い流しながら生きてきた二人だったと思っています。就職して故郷を後にする時、列車の中で感謝して涙を流しながら故郷を後にしました。

 だが一つだけ好きになれない処がありました。父親は時々全身が揺れる霊動が起こってきました。今の現代医学では精神病と一括りにされる症状かもしれません。この症状が現れると父は精神的にますます弱々しくなってきました。その影響もあって近所の霊的に開けた方の助を求めたり、近県の神社にも参拝に出かけていました。そんな父親を見るのが嫌いでした。

 私がその反動で就職してから唯物論に惹かれ、宗教を否定する共産主義に魅力を感じるようにもなってきました。でも、不思議なものですね。そんな私がキリスト教信者になり家庭連合の会員なっているんですから。半面、父親がこうした宗教的な世界を切り開いてくれたのだと今は感謝しています。自分がこの世に生が有るうちに父母の墓の前で思い切り泣いて許しを請いたいと思うようになりました。特に最近、強く思うようになりました」

 橘竜二はつぶやくように言った。

 義兄山下豊治との間に有った壁が崩れて心許せる兄弟のような気持になった。

 

 「これから待ち合わせた庄原市に買い物行く用事があるので一緒にいきませんか?。帰りに荷物があるので私のベンツに同乗して」笑いながら山下豊治が言った。

「ベンツ??」「私のベンツは送迎車でもあり荷物運びのトラックでもあり農作業車でもありますよ」

「あ、ぁベンツね!愛用の!同乗させていただきましょう」

 橘竜二は答えて玄関口に止めてあった軽トラ、言うところのベンツの助手席のドアノブに手をかけた。

 ドアがギィと笑って歓迎してくれた。

 次回に続く