これまでのあらすじ
和太鼓クラブの部員磯部匡は学園創立110週記念文化祭の演目「イエス・キリスト」に1年生ながら第3部の主役ともいえるサウル(パウロ)を表現する中太鼓の演舞者の選ばれた。祖父母は舞台で演舞する孫を見ながらその成長した姿に感激した。
打ち続ける太鼓の鼓動は祖父の心まで揺り動かし、50年もの前の出来事まで思い起させた。
エンディングは和太鼓部員全員による演舞だった。イエスの弟子になったパウロ役の1年生の磯部匡はどうしたわけか胸の奥底から悲しみが沸き上がってきた。
最初は悲しみか喜びが判らなかった。
磯部匡はパウロ役を打診された時、小学生がいきなり大人と同じような仕事を言いつけられたような目眩を感じた。とにかく全力疾走するしかなった。
エンデングの太鼓を叩きながら瞼の裏側に涙が溜まってくるのが判った。
”全力で走り切った”という充実感から沸き上がってくる喜びの涙と思った。
違った。心の底にはもっと覚めた世界が広がっていた。
横山優斗は舞台の上でバチを握り大きく手を振りながら演舞する磯部匡が泣いているのを見た。そして正面の光永誠をみた。光永の目にも涙が溜まって、ス~と頬をつたわって落ちていった。
二人の涙をみて横山優斗も自分の瞼の下から泪が浮き上がって、視界が二重になっていった。だがバチを持って手はリズムを乱すことなく振り降ろされていた。
磯部匡も光永誠も作品の構想から携わり、参考映画を視聴し、聖書を読み、市内のキリスト教徒の殉教の記念碑を訪ね・・と自分たちでできる事、資料を漁って担当した役の心境を探ってきた。
横山優斗は演劇人が舞台の出演者の役になりきってその役の人間の心情の世界までも表現しようとするという話を聞いたことがあった。『僕たちは、役者になったようだね。舞台俳優と同じことをしている』と仲間たちと話題したことがあった。
光永誠は1,2,3部とほぼ全編にわたって関わってきた。この作品の結果を出さないかぎり、人生の次のステップに上がれないような気持にまでなった。
いや3人だけではなかった。多くの部員が「せめて自分の担当する所だけでも完成品に近づけていきたい」という思いになっていった。
その思いが涙になって流れている。
神を表現する大太鼓担当の光永誠、イエスキリストを現した中太鼓の横山優斗、イエスの弟子たちを迫害していて天からの光を受けて改心したサウロ(パウロ)役の磯部匡。
上村佑子は舞台の裏で部員たちの最後の演舞をみていた。後ろ姿から全身の力が光となって輝いているように見えた。
佑子の目から涙が膨らんできた。『ありがとう、ありがとう』舞台の上で演舞している部員の後ろ姿に頭を下げて感謝した。
磯部匡は頬をつたわって流れる涙が自分の涙ではないような気がした。
太鼓を打ち続けながらイエスの弟子たちを迫害し、”家々に押し入りって、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らしまわった”サウルの心”になっていた。『異端なユダヤ教はこの地から消えてなくなれ!』と。
光を受けた。天から声を聞き、目が見えなくなった。
サウルの改心が起こった。
バプテスマを受け”イエスこそ神の子であると説きはじめた”
磯部匡はこの心情の大転換を太鼓のバチさばきと演舞でどう表現するか苦悶した。
祖父の家で雷鳴と土砂降りの雨の夜の恐怖のただ中で閃いた。
言葉にならない閃きだった。
エンディングの太鼓を打ちながら頬を伝わる涙。
最初は悲しみか喜びが判らなかった。
胸の奥底から悲しみが沸き上がってきた。
悲しみの本源と共鳴した涙だった。
磯部匡の心の中で芽生えた感性だった。
磯部匡はこれが父が最近よく口にする”霊性”のような気がしてきた。
続 <毎週土曜日掲載予定>