小説 共鳴太鼓 十字架と和太鼓 灯火をかかげる龍の子供たち(5) | 小説 豊饒の大地 第3部 こころ 

小説 豊饒の大地 第3部 こころ 

第3部 こころ 75歳になった男が孫娘との関わりで発見する天の役事
第2部 共鳴太鼓 未来を背負う若き世代の物語
第1部 やまぶきの花 戦後まもなく生まれた男が生きた昭和、平成、令和の物語。

  

   これまでのあらすじあらすじ

創立110周年記念の文化祭に「先輩の伝説の演技天孫降臨を越える作品に!」和太鼓クラブの高校生たちが選んだのは演目はイエス・キリストだった。洋の文化に和文化の代表ともいえる和太鼓の挑戦がつづく。

★★

 横山優斗が言った指摘は当を得た発言だった。

「まず、この物語の視点をどこに置くかを最初に決めておかなければいけないと思いましたね。イエスの信者の視点に立つと、イエス自身の内面まで入ってゆくのは難しくなってゆく。反対に群衆の側に立って物語をみると、対立勢力がイエスを騒乱罪で告発するという話で終わってしまう。

 イエス自身の視点に立って物語を組み立ててゆくと極端に流れ過ぎた作品になってゆく。また時間の経過に沿って物語を流してゆくと平凡な作品になってくる・・。

 それぞれの立場を全て取り込んで作品を作ると焦点ボケの作品になってしまう」

 

 上村佑子は信者の立場、反イエス(ユダヤ教徒、祭司長や律法学者)の立場、イエス自身の立場の三つの視点しか思い浮かばなかった。イエス自身の立場で物語を作り上げてゆくと映画『パッション』が一番うまく描いていると思った。だが『パッション』の映像をバックに和太鼓の演技を披露したなら見ている人に感動を呼び起こすことは予想できるが、佑子の心にストンと落ちてこなかった。

 

 3月初め、プロジェクトチームの会合で後輩の小川清が「父に勧められて映画『パッション』という作品を観てみました。イエス・キリストという人物の足跡を知るには聖書の記述にそって映像化されていて良く理解できる作品でした」と言った。

「その映画をバックに僕たちが和太鼓演奏したほうが簡単で演技だけに集中できるので良いかもしれないね」と大太鼓のバチを手に光永誠が後を引き継いで言った。

 佑子の横に座っていた横山優斗が「光永君の意見も判りますが、僕たちの独自の視点で物語を作りあげ、その中に和太鼓の演技を挿入したほうが観る方も演技する私たち自身にとっても意義あると思っていますが、どうでしょうか」と投げかけた。

 すぐに光永誠が「それは判りますが、あまり構想に力をいれすぎると次のステップである実際の演武に影響が有ると思って発言したまでです」。

 佑子は「時間的余裕はまだ有りますので、しっかり詰めて行動に移ったほうがより効果的に次の演技に臨めると私は思っています。映画は私も視聴しましたがかなり重たい作品でした。アメリカでは映画を見た観客がショックで亡くなったと作品解説に載っていました。

 映像を前に押し出して和太鼓を演奏すると、和太鼓演奏が脇役になってしまい、映画を盛り上げるための和太鼓になってしまうように私は思いました。『西洋の文化に和文化の代表ともいえる和太鼓で挑戦!』という意味を込めた作品に仕上げてみたいと今も思っていますので、前回横山副部長が言った『物語の視点』というところをしっかり論議してゆきましょう」

 2月のクラブ集会の時「創作ダンスを取り入れたら良いのではないか」という意見に「和太鼓演奏の存在が脇役に回ってしまうので、僕は反対ですね」と言った同級生の中島光義が「この前の副部長の発言以外に新しい視点となると残ったのは『神』というか、マタイ福音書3/16に有る”イエスは洗礼ヨハネから洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。その時、天がイエスに向って開き『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた』・・・のなかにある”わたし”。つまり『神』自身の立場になってくるのではないかと僕は考えますね。

 また、その神は聖書の創世記にある『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』の『神』で有るとうことですね」

 

 佑子は中島光義が言った『神』自身の立場という視点は思ってもみなかった。

横に座っている横山優斗をみると納得したようにうなずいていた。

 白石かづえが「それじゃ“神”にとってイエス・キリストは何なのか?という疑問がでてきますね。イエス・キリストは神を父と呼び。ヨハネから洗礼を受けた時『これは私の愛する子、わたしの心に適う者』という言葉から“神”とイエスは親子という関係。親子という血縁関係で結ばれた土台に心、事情、感情を通わせることができる関係と考えて良いわけですね。聖書を文字どおり解釈すればイエスは男性ですから神は男の子の父親といえるわけですね。息子の誕生から十字架に磔の刑で亡くなるまでを見つめ続けた父親。子供を見つめる親の心を和太鼓で表現する。何となく理解できるようになりました」と納得した顔した。

 

「旧約聖書のイザヤ書に『来るべき方』と予言されているイエスの誕生も『神』自身の計らいが有ったとするなら物語として一貫性が出来てくるわけだ。親子か?!・・西洋文化の根底に流れているキリスト教もぐっと身近に感じられるようになってきましたね」小川清がボソリと言った。

「そしてイエスが磔の刑に服し最後に言った『父よ、私の霊をみ手にゆだねます』と言葉にした『父よ』の“父”とも連続性ができてイエス・キリストの死後、パウロが弟子たちへ迫害、脅迫を続けている時、ダマスコの近くで天から光をうけ『サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか』呼びかける声を聞く(使徒行伝9/3)。パウロの回心が起こる・・・・この"声”の主も同じ父親だといえるわけですね。これ以降、パウロや多くの使徒たちによってキリスト教がヨーロッパに拡がってゆく・・・・。その背後にはいつも父親”神”がいた」白石かづえの言葉が続いた。

 

 横山優斗は黙って聞いていた。

 

「この存在者の視点でイエス・キリストの物語を作ってみるとかなりユニークな作品にできあがると思いますね。横山優斗さんに物語のプロットをお願いしてみましょう」

佑子は次のステップに一段上がったのを確信した。

 

 令和5年4月10日年、150名の新入生が入学してきた。学園に確実に春がきた。コロナ禍を越した新しい春が来た。

和太鼓クラブに入部したのは男4名、女3名で卒業生と同じ人数は確保することができ部活として円滑に活動できる人数が集まったことで上村佑子も副部長の岡村優斗も一安心だった。

                                             

 四月二十日。和太鼓クラブの部長上村佑子は年度初めのクラブ総会で新入生を含む二十人の部員を前に発言するまで後悔はしていなかったが苦悶していた。

 

 部長上村佑子は「今年の創立110周年記念の文化祭で和太鼓クラブの演目を『イエス・キリスト』に決定して新入生部員の加入で総勢21人の部員の総力を結集して、6ケ月の創造期間で学園創立記念イベントの観客に感動を与える作品にしてゆきましょう」と挨拶し一人一人の目を見ながら言った。

苦悶は消え去っていた。

 

 副部長の横山優斗が「演目の『イエス・キリスト』の眼目と大まかなプロットを紹介します。

眼目はズバリ、親と子、父母と子の根本にある信頼、絆、切断できないモノを表現する作品にしてゆこうと思っています。

 聖書にある今から2000年前のイエスの誕生、そしてユダヤの国で起こったイエスをめぐる出来事、最後はイエスの磔の刑という場面を通して『天とイエス・キリストの関係は親と子の関係で有った』という証明物語を和太鼓で表現するものです。

 この作品はクラブ員全員で創造してゆくものです。決して形としては残りませんが私たちの心にいつまでも刻み込んでゆく創造作品にしてゆきましょう。何か意見が有りますか?」と結んだ。

「西洋文明の底に流れているキリスト教。その根源的な存在であるイエス・キリストの歩みを和太鼓で表現しようとすると、賛成、反対を問わず様々な意見が有ると思いますがどう考えていらっしゃるのですか」一年生の男子生徒が質問してきた。

 横山優斗が落ち着いた表情で言った。

「それは有ると思っています。私たちは聖書に描かれたイエスの姿、歩みを和太鼓で表現しよういう、表現の自由を基本にしています。また、表題を『イエス・キリスト』にするか、または別な表現にするかはこれからの検討課題の一つです」と。

 

横山優斗の机の横にはA4のレジュメが表紙を裏にして置いてあった。

 続  <毎週土曜日掲載予定>