やまぶきの花(30)Uターン、水の都、広島市に | 小説 豊饒の大地 第3部 こころ 

小説 豊饒の大地 第3部 こころ 

第3部 こころ 75歳になった男が孫娘との関わりで発見する天の役事
第2部 共鳴太鼓 未来を背負う若き世代の物語
第1部 やまぶきの花 戦後まもなく生まれた男が生きた昭和、平成、令和の物語。

  

69 住所未定、職業未定、配偶者あり 

 家庭をもって三年目だった。引越しようと数カ月前から決めていたわけではなかった全て目の前で展開する出来事に即決で判断、行動せざるをえなかった。悪く言えば渦に巻き込まれ流されていったのかもしれないし、良く言えばこれぞ天の計らいか巡り合わせだったのかもしれない。  

 十二月末に退社する事を正式に申しいれた。

 

 昭和五十八年(1983年)三十四歳になっていた。大晦日に近い日、東京から新幹線の広島駅で下車し、不動産屋さん探しから始まった。駅の近くあると目星をつけて歩いたが数は知れていた。何しろ人口の少ない地方都市である。JRを乗り換えて二駅目でやっと値段と間取りの手ごろな物件にであった。

 不動産屋さん曰く「大家さんがどんな人か一度顔を見たいのでお越し願えないかということです」ちょっとすまなさそうな顔をして言われた。

 大家さんとの顔を合わせでやっと納得してもらったが、今度は保証人の確保で困った。急遽、バスで三時間かかって実家に帰り母の実家の従兄妹に母を通して御願した。雪が舞う日だった。従兄妹の家に一泊させてもらった。従兄妹の御嫁さんとは初顔合わせだった。

 やっとの思いで新しい地での住居の賃貸契約ができた。

東京に引き返し最後の仕事の締めくくりをして、荷物をまとめ引越し業者に依頼した。荷物整理は短時間で終わってしまった。

 

 昭和五十九年(1984年)が始まった。都内に住む夫婦が挨拶に来てくれた。奥さんの底抜けの明るさに東京を後にする敗北感の思いが払拭できた。

 大阪の義理の姉の家に二泊して二人で京都見物をした。冬の京都は寒く嵐山のふもと桂川にかかる渡月橋を見ながら二人で寒さに震えた。妻は「新婚旅行みたいね」と言った。大阪駅から新幹線で下り、広島駅で降りて市内電車に乗り換えてやっと新しい住居に到着した。一月二十九日だった。

 平屋の木造モルタル造り一戸建て。三畳の間と八畳の間、四畳半のリビング。キッチン、風呂、トイレつきだった。トイレはポッチャントイレ。駅から十五分の距離だった。

 引越業者の到着を待った。荷物の割に荷運びの従業員四,五人は多かった。挨拶時に大家さんに言われた「いつ、荷物を運ぶのかね?」「もう運び終わりました」「?・・・・・・。ところで働くところは決まったかね。無かったら私が紹介してあげるけど」

 後日知ったことだが、大家さんは大手損保会社の支店の部長職にある人だった。住所未定、職業未就の一つが解決した。

70 昭和から平成へ 

 最初入社した会社は月刊の経済誌を出版していた。市内各所の企業を訪問し紹介記事書きが私の仕事だった。おかげで市内の様子が理解できた。私も三十三歳を超えていた。「もっと安定した会社、もっと給料の高い会社と」思って翌年、外資系生命保険会社に転職した。

 夏の暑い七月に長男が誕生した。三千八百グラムだった。

 妻は悪阻で足掛け五カ月の間入院していた。私が三十五歳妻が三十二歳だった。ロウソクを灯し”天の守りの中で真心をつくして育てます。天の性稟と性質が此の子のなかで成長しますように”という祈りをした。九月、十月と慌ただしく過ぎ去っていった。

 夏が終わるころから会社の同僚四人が次々と退職していった。別の生保会社に移ったり、損害保険の会社に転職したという噂が聞こえてきた。

 私の性格と社会経験の乏しさで営業職は無理だとわかってきた。十月の給料は九万円ばかりだった。ここから家賃三万五千円光熱費、食費、引算すると・・・。会社に通いながら職安に立ち寄り、求職ファイルを捲る日が続いた。十一月で退職した。

 翌日から目星をつけていた会社訪問だった。製造会社、製品検査を専門にしている会社、贈答品を専門に扱っている会社。最も期待していた銀行のお客さん案内と警備の仕事などなど。どうした訳かことごとく不採用だった。

 師走を迎え慌ただしくなるころ、大手菓子メーカーの工場にアルバイトに出かけた。夕方五時から夜中までの仕事だった。ホッパーから流れ落ちてくるペレット原料を大きな紙袋に詰め、重さを計って台車に積み込み次の工程まで移動する仕事だった。

 途中十分間の休憩が有ったがほぼ連続で身体を動かし続ける作業だった。昼間は職安と企業の面接待ちの毎日、不規則な生活と睡眠、職業が一定してない不安で十二指腸潰瘍の兆候があらわれた。

 大晦日に近い二十七日。求職ファイルで見つけた食品製造メーカーに面接に出かけた。バイクに乗って海岸の方角に走ってゆくと工場とアパートが並んでいる一角に工場があった。鉄の階段を上がると事務所があった。

 面接してくれた担当者はまだ若く「盆、暮れの無い仕事です。今からお正月明けまでもっとも忙しい時ですので、明日からでもきませんか」コンビニに弁当を卸しているメーカーだった。私は即答した。これで『やっと年が越せる』。貯金通帳の残高が四万四千円だった。

 その夜、実家の母から電話あった。「お父さんの様子が少し変なのよね」帰郷していた兄が付き添って明日地元の病院から広島の病院に移るという。