71 働ける歓びと働く充実感 昭和六十一年(1986年)三月、大手コンビニの弁当供給会社の社員に採用された。

 社員は十数名でパートさんが三倍強の従業員だった。コンビニと取引が始まってまだ二年目、中国地方でのコンビニの普及はこれからだった。業務は午前三時から始まり夕方は最終納品がおわり、明日の準備の仕込み作業など全てが終了するのは夜七時ころだった。

 土曜、日曜日、祭日の前は特に忙しかった。平日よりもっと早く始まり、遅くまで仕事があった。勤務は変則の休日で八時間プラス残業だった。

 まだ暗い内にアパートを出発、バイクで十数キロの距離を通った。通勤途中に刑務所が川沿いにあった。

 早朝、黒いセダンが何台も止まり、提灯を手にした人が人待ちしている場面に出くわした。後で俗にいうヤクザ関係者が刑期を終え出所する時間だと知った。

 給料はやっと安定して生活に明るさが見え始めた。読書をする余裕も生まれてきた。会社が寮として借りていたアパートの一部屋を無料で貸してもらって空き時間は読書する場所として使用させてもらった。

 

 信仰生活は続けていた。いにしえの”隠れキリシタンの現代版”と思ってみたりした。信仰生活と現実生活の狭間で困ったことは日曜日の朝五時からの祈りだった。ベルトコンベアーの流れ作業中など「ちょっと、トイレ」と言って位置を離れトイレの個室に入って祈った。これまで教会から願われていた収入の十分の一、一割の献金も始めた。

 一度捧げ物には未練を残さないことにした。たとえ責任者のお昼代として使われたとしても・・・・。

 一般の人にとっては些細な事でも一度天との約束をした以上律義に守るのが信仰者であると感じてした。ちょうど道端で急に倒れた老人をみてそのまま立ち去り、のちのちまで心に負債を感じると同じような心との遣り取りだった。

 これをマインドコントロールというならばそうかもしれない。心が感じるからしかたがないことである。この祈り以外に特に困ったことなどなかった。

 時には朝三時過ぎから出社して「昼の弁当」の製造、出荷だった。作業が終わる朝七時からの休憩と社内食堂でのホッとする解放感は職探しに明けた暮れた時に味わう事のできなかった充実感があった。

 やっと「社会人になれた」と思った。東京から引っ越して三年目だった。

 十一月には東京大島の三原山が爆発して噴煙が上がり溶岩が噴出する様子がテレビ画面に映し出された。私は溶岩の噴出によって黒く炭化した木片から立ち上る煙と炎が、東京の会社で味わった社内抗争で受けた精神の荒廃そのままだと感じ慄然として涙が零れた。

72 むしろ生きている者のために 父が市内の病院に入院し田舎から母が父の入院に付き添って来た。

 私は朝早くから夕方遅くまで会社の仕事のお伴だった。働ける喜びもありそう苦にはならなかったが、変則の勤務で睡眠不足のためか、体調が思わしくなく身体全体の倦怠感が抜けなくなってきていた。

 母は父のベットの横の仮ベットで介助しながら過ごしていた。

 妻は長男を背負い荷物をもって路面電車で病院までほぼ毎日出かけていた。夏に向かって気温が上がるとともに少しづつ父の症状も回復した。

 やがて医者の許可もおりて自宅で静養できるようになり、実家に帰っていった。退院時、兄は医者が「検査の結果からそう長くないかもしれません」と言っていたと教えてくれた。父の脳の血管がそうとうダメージを受けているようだった。私は若い頃のシベリヤ抑留の影響があるのではないかと思った。

 昭和六十二年(1987年)の暮れも押し迫った十二月十二日の早朝だった。

 どんよりと曇って日射しはなく寒い朝だった。

 母から電話があった「父さんが亡くなったよ」涙声だったが気丈夫な声だった。亡き夫を送らなければならない重荷に必死に耐えている声だった。

 前の日から私は体調が悪く会社を休んでいた。外気がガラス戸を通して浸みいるように部屋に入り灯油ストーブの温かさなど消えてしまって部屋は一向に温まらなかった。

 

 葬儀の日時が教会の特別行事に参加するため東京に上がる日と重なっていた。

 行事はこの日だけ一回限りの特別な意味が含まれていた。私は迷った、どちらを優先するか?父の葬儀か、特別行事か。

 私は会社に電話して追加の休日願いを出して出発した。東京は雪だった。会場にいながら父の葬儀の様子が頭をよぎった。

 小さい時から心配と迷惑を掛けつづけ何一つお返しできず亡くしてしまった。妻が二歳になって間もない長男の手を引きながら葬儀に出席した。

「会社の社長さんがわざわざあの田舎まで来られてね。大変だったのよ。貴方はいないし、会社は休んでしるし。体調が悪くて医者に出かけたという事にしておいたのよ」葬儀には弟夫婦、家内の実家から義母が出席してくれた。

 弟夫婦、妻は私が東京に行った特別集会に合わせて三日間の断食中だった。もちろん妻は東京で行われた特別行事の重要性は判っていたが・・・

 

 東京は雪が降っていた。

 

 後日、実家に帰って父の遺品を兄と整理しながら不思議なことだったが自分には父の死の実感が無かった。ともに生活していた祖母、祖父の死はハッキリと死別したと自覚しているのに父だけはその感覚が欠落していた。今も「父が死んだ」という感覚は曖昧なまま続いている。

 このことから死者を送る葬儀の重要性が理解できるようになった。葬儀は生きている者にも必要だということが・・・・ むしろ生きている人のために・・・・