彼はとても緊張していた。
目の前の人は今、風呂から上がったばかりだ。服の胸元から溢れんばかりのものにまだ雫がついている。
かきあげられた横髪の下から、青い宝石のついた耳飾りと、陽に焼けたうなじが見えた。
目のやり場に困った。
師匠に言われて高位者の棟の玄関前までたどり着いたものの、中にはいると三分で道に迷った。
それを助けてくれたのが、今目の前にいる人だ。
その人は彼を見るとひと目でわかったようだ。
その人のことは、残念ながら彼の記憶にはない。こんな美女なら忘れるわけがないから初対面……だと思う。
言われるままに部屋まで着いてきて、椅子を勧められてお茶まで煎れてもらったが、緊張で肩が石になってしまいそうだ。
その人はゆっくりと椅子に腰掛け、自分のお茶を一口飲む。ただお茶を飲んだだけなのに、目に妬きつくような色っぽさだ。
見惚れていた彼は慌てて、開いていた口にお茶を流し込んだ。
「急に呼び出して悪かったな」
「あ、いいえ。今日の稽古は終わっていましたから」
「そうか。導師が気を使ってくださったのだろう。
悪いが、あとで礼を言っておいてくれ」
「あ、はい」
「単刀直入に言うが、おまえはどこまで目指す気だ?」
「は?」
「魔導士として、どこまでの地位に行きたい?」
「え……?」
急に聞かれて、彼は困った。
彼はもともと、病気で親を亡くし、年老いた祖父母との生活に不安を覚えて村を出て、今の師匠に師事した。
ここにいれば食事と寝場所に困らないと思った。実際、院でひもじい思いはしたことがないし、見習い期間の辛さはあったが、寝台は清潔で温かい。
修行は辛いが師匠は尊敬できる人で、兄弟子たちは乱暴だが面倒を良くみてもらった。
今、彼は充実している。
どこに行きたいかとか、何を目指しているのかとか聞かれても、答えられないくらい今が好きだ。
「下位上段か」
その人は彼の腰に巻かれた綾紐をみて言った。
「満足か?」
「………………」
彼は答えなかった。
彼自身は満足だが、そう言えば笑われそうな気がして言えなかった。
「次の昇格試験、おまえを推薦したい」
「え?」
「わたしは直師だ。長を務めている」
彼は目を見張った。
直師は大魔導師直属だ。
側近と大師に次ぐ地位にある。
その、長。
直師は、まず自ら直師とは名乗らない。大魔導師からの密命を抱えるため、普段は本部や支部の勤めをして身を隠す。
だから彼が知る直師といえば、大先輩であるレイ導師くらいだ。それも亡くなった後に知った。
目の前のその人が後継者ということだろうか。
「イサ。登りつめる気はないか?」
「お……わたしが、ですか?」
「わたしはおまえに話している」
「でも……」
「なんだ?」
「わたしに、どうして、そんなお話を?」
「簡単だ。長として新しい人材を欲しているから」
その人は大きく息を吐いて、背を椅子の背もたれにかけた。
「やる気はなさそうだな」
「あ………………」
「今で満足か?」
同じ質問。
きっと答えるまで何度も繰り返されるだろう。
「……はい。今は、満足しています」
彼は顔を下に向けていった。
笑われると、やはり恥ずかしいから。
しばらく沈黙があった。
彼は俯いたまま硬直していた。
笑い声がした。
彼は顔を上げた。
その人は口元を微笑ませて彼を見ていた。
大きな唇に目が吸い寄せられるような魅力的な笑顔に、彼は言葉もなかった。
自分が笑われていることよりも、その人に見られていることが恥ずかしい。
耳が熱い。首まで赤くなっているかもしれない。
「良いだろう。気に入った。
付き合ってみよう」
「え?」
「おや? 父から何も聞いていないのか?」
「ちち?」
「わたしの父だ。おまえの師匠でもある」
「は?」
その人は口を大きく開けて笑った。
「謀られたな!
種明かしをしてやろう。
わたしの父は魔剣士シーリー。おまえの師匠シーリー導師だ。
大師のくせに大師と呼ばれるのを嫌がるジジイだ。
そして今ここは、おまえを気に入った父が用意した、わたしとの見合いの席だ」
言葉もない。
師匠に子どもがいたことも、その子どもがものすごい美女だということも知らなかった。
そしてその美女と自分が、見合い?
「あの……」
「なんだ? わたしでは不満か?」
「い、いいえ!」
「では、おまえも良いのだな?」
「え。あの……あ、その…………」
口篭もっていると、その人は魅力的な唇を微笑ませて彼を上目遣いで見た。
その目は吸い込まれそうなくらい深い青色だった。
はまり込めば二度と這い上がれない深さの、深海の青。
見つめられて捕らわれた彼は、引きずり込まれるようにうなずいた。
大魔導師ですら脅して見せた女丈夫がいる。
任務には非常に厳しく、男以上に男前な彼女だが、外見は美女の部類に入る。
ツンと尖った小さな鼻、大きな口は良く通る声を発する。
まっすぐな髪はくびれた腰まで伸び、鍛えられた脚はすらりとして長い。
たわわに実った胸は開放的で、同僚たちは目のやり場に困ったり喜んだりしていた。
そして何より、彼女の瞳は青かった。
怒られながらも大魔導師が見惚れていたというくらいに鮮やかで、色濃い。
一番深い海の底から海面を望んだときのようにしんと冷え、まぶたの裏に思い出せば懐かしく思える色だった。
そんな彼女は『青のセサ』と呼ばれていたが、夫は違った。
うちの奥さん、と呼んでいた。
なぜって、その奥さんから命じられたから。
魅力的な唇から彼の唇が開放されると、未来の奥さんは思い出したように言った。
「そうだ。息子を紹介しよう」
「は?」
「カワイイぞ」
「え?」
謀られた……。
目の前の人は今、風呂から上がったばかりだ。服の胸元から溢れんばかりのものにまだ雫がついている。
かきあげられた横髪の下から、青い宝石のついた耳飾りと、陽に焼けたうなじが見えた。
目のやり場に困った。
師匠に言われて高位者の棟の玄関前までたどり着いたものの、中にはいると三分で道に迷った。
それを助けてくれたのが、今目の前にいる人だ。
その人は彼を見るとひと目でわかったようだ。
その人のことは、残念ながら彼の記憶にはない。こんな美女なら忘れるわけがないから初対面……だと思う。
言われるままに部屋まで着いてきて、椅子を勧められてお茶まで煎れてもらったが、緊張で肩が石になってしまいそうだ。
その人はゆっくりと椅子に腰掛け、自分のお茶を一口飲む。ただお茶を飲んだだけなのに、目に妬きつくような色っぽさだ。
見惚れていた彼は慌てて、開いていた口にお茶を流し込んだ。
「急に呼び出して悪かったな」
「あ、いいえ。今日の稽古は終わっていましたから」
「そうか。導師が気を使ってくださったのだろう。
悪いが、あとで礼を言っておいてくれ」
「あ、はい」
「単刀直入に言うが、おまえはどこまで目指す気だ?」
「は?」
「魔導士として、どこまでの地位に行きたい?」
「え……?」
急に聞かれて、彼は困った。
彼はもともと、病気で親を亡くし、年老いた祖父母との生活に不安を覚えて村を出て、今の師匠に師事した。
ここにいれば食事と寝場所に困らないと思った。実際、院でひもじい思いはしたことがないし、見習い期間の辛さはあったが、寝台は清潔で温かい。
修行は辛いが師匠は尊敬できる人で、兄弟子たちは乱暴だが面倒を良くみてもらった。
今、彼は充実している。
どこに行きたいかとか、何を目指しているのかとか聞かれても、答えられないくらい今が好きだ。
「下位上段か」
その人は彼の腰に巻かれた綾紐をみて言った。
「満足か?」
「………………」
彼は答えなかった。
彼自身は満足だが、そう言えば笑われそうな気がして言えなかった。
「次の昇格試験、おまえを推薦したい」
「え?」
「わたしは直師だ。長を務めている」
彼は目を見張った。
直師は大魔導師直属だ。
側近と大師に次ぐ地位にある。
その、長。
直師は、まず自ら直師とは名乗らない。大魔導師からの密命を抱えるため、普段は本部や支部の勤めをして身を隠す。
だから彼が知る直師といえば、大先輩であるレイ導師くらいだ。それも亡くなった後に知った。
目の前のその人が後継者ということだろうか。
「イサ。登りつめる気はないか?」
「お……わたしが、ですか?」
「わたしはおまえに話している」
「でも……」
「なんだ?」
「わたしに、どうして、そんなお話を?」
「簡単だ。長として新しい人材を欲しているから」
その人は大きく息を吐いて、背を椅子の背もたれにかけた。
「やる気はなさそうだな」
「あ………………」
「今で満足か?」
同じ質問。
きっと答えるまで何度も繰り返されるだろう。
「……はい。今は、満足しています」
彼は顔を下に向けていった。
笑われると、やはり恥ずかしいから。
しばらく沈黙があった。
彼は俯いたまま硬直していた。
笑い声がした。
彼は顔を上げた。
その人は口元を微笑ませて彼を見ていた。
大きな唇に目が吸い寄せられるような魅力的な笑顔に、彼は言葉もなかった。
自分が笑われていることよりも、その人に見られていることが恥ずかしい。
耳が熱い。首まで赤くなっているかもしれない。
「良いだろう。気に入った。
付き合ってみよう」
「え?」
「おや? 父から何も聞いていないのか?」
「ちち?」
「わたしの父だ。おまえの師匠でもある」
「は?」
その人は口を大きく開けて笑った。
「謀られたな!
種明かしをしてやろう。
わたしの父は魔剣士シーリー。おまえの師匠シーリー導師だ。
大師のくせに大師と呼ばれるのを嫌がるジジイだ。
そして今ここは、おまえを気に入った父が用意した、わたしとの見合いの席だ」
言葉もない。
師匠に子どもがいたことも、その子どもがものすごい美女だということも知らなかった。
そしてその美女と自分が、見合い?
「あの……」
「なんだ? わたしでは不満か?」
「い、いいえ!」
「では、おまえも良いのだな?」
「え。あの……あ、その…………」
口篭もっていると、その人は魅力的な唇を微笑ませて彼を上目遣いで見た。
その目は吸い込まれそうなくらい深い青色だった。
はまり込めば二度と這い上がれない深さの、深海の青。
見つめられて捕らわれた彼は、引きずり込まれるようにうなずいた。
大魔導師ですら脅して見せた女丈夫がいる。
任務には非常に厳しく、男以上に男前な彼女だが、外見は美女の部類に入る。
ツンと尖った小さな鼻、大きな口は良く通る声を発する。
まっすぐな髪はくびれた腰まで伸び、鍛えられた脚はすらりとして長い。
たわわに実った胸は開放的で、同僚たちは目のやり場に困ったり喜んだりしていた。
そして何より、彼女の瞳は青かった。
怒られながらも大魔導師が見惚れていたというくらいに鮮やかで、色濃い。
一番深い海の底から海面を望んだときのようにしんと冷え、まぶたの裏に思い出せば懐かしく思える色だった。
そんな彼女は『青のセサ』と呼ばれていたが、夫は違った。
うちの奥さん、と呼んでいた。
なぜって、その奥さんから命じられたから。
魅力的な唇から彼の唇が開放されると、未来の奥さんは思い出したように言った。
「そうだ。息子を紹介しよう」
「は?」
「カワイイぞ」
「え?」
謀られた……。
静かだった。
ただ住む者がいなくなったというだけで、住居は瞬く間に枯れた花に似る。
美しかった分、その後の虚しさは大きい。
悪いことに、花は種を残すが、住居は残骸しか残さない。
見上げるだけで震えがこみ上げた。
見慣れたはずの建物が今にも動き出し、襲い掛かってくるようだ。
そんなはずはない、と首を振る。
「おい、あれ」
隣の茂みに身を潜めた仲間が小さな声で前方を見るように言った。
仲間の指の向かうほうを見ると、明かりが灯っていた。
これだけ大きな建物にほんのりとした小さな明かりというのは、さらに侘びしさを募らせる。
「わたしが行こう」
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
庭先の茂みや木の上に隠れた仲間の視線を浴びながら、寂しげな明かりを目指した。
帰ったときたとはまだ思えない。
実感が湧かなかった。
蝋燭を見つけた。
押して乾燥された花が薄く埋め込んである。
ゆらとも揺れない炎を見つめる。
人は恐れずはずの炎。
火事を恐れ、雷を恐れ、噴火を恐れる。
だが、炎は美しい。
ただ燃えているだけだというのに、一身に見つめさせるほどの優美な姿をしている。
優美さは、時に威厳を持ち、豪快さを放つ。
同じ火であるはずなのに、ひとつも同じものはない。
ため息もつかずに見つめていた。
ふら、と炎が揺れる。
ウィリアムは窓のほうに視線を向けた。
開けた覚えはなかったのだが、昼間のままだろうか、窓は空いていた。
鍵を閉め忘れたらしい。
夜にもなって無用心なことをしてしまった。
今日は、それを後悔しないだろう。
「……姫?」
呼ばれた、とわかった。
返事をしようとした。
声が出ない。
立ち上がろうとした。
脚がすくんだ。
手を上げようとした。
硬くショールを握りしめている。
動けない。
窓からの訪問者が一歩、歩いた。
その一歩、近づいた。
もう一歩、歩いた。
また一歩、近づいた。
三歩目、四歩目、五歩目……。
月光から離れ、蝋燭の光の中に訪問者が訪れた。
寝椅子の側にたった彼は跪いた。
懐かしそうにウィリアムを見つめる。
ショールの端を握り、口づけた。
「お迎えにあがりました、姫」
胸が震えた。
吸いこんだ空気は炎のように胸を焼いた。
掛けていたはずの鍵が溶け、胸のうちからたくさんのものが飛び出してきた。
まず、彼を抱きしめた。
飛び掛かられた彼は尻餅をついた。
そして、ウィリアムは名前を呼んだ。
「クーラ!」
騎士クラウスの両手がウィリアムの背に回された。
懐かしい温もりを感じた。
腕だけではなく、全身で彼は受け止めてくれた。
「姫」
王子だった少女はクラウスにしがみつき、駄々をこねるように首を振った。
彼の困惑する顔を見ず、その胸に顔をうずめた。
「お約束したとおり、わたしは戻ってまいりました。
一緒に参りましょう」
「いやだ!」
両手でクラウスの胸を押し返し、泣き顔を目一杯怒り顔にする。
「姫……」
「イヤだ。
クラウスは短剣をくれなかった。
貰ってほしいって言ったのに、くれなかった。
嘘つきだ。
クーラの嘘つき!」
ぷい、と顔を背ける。
押し倒されたまま床に座り込んだクラウスは、困ったように顔をかいた。
投げ出された両足の間に、主人がちょこんと座っている。
「わ……わたしが、王子になったから、か?
主従になって、後悔したのか?」
「姫……」
「姫はやめろ!
いやなら、言ってくれれば良かったんだ。
嫌いなら、き、嫌いって、言って、くれれば……」
喉が詰まった。
次にいうこと場が引っかかった。
嫌いといってくれれば戻ってこなかったのに───でも自分は未だクラウスが好きなのだ。
老衰で彼女を置いて逝ってしまった婆やより、もっと好きなのに。
なのに嫌いと言われたら、とても悲しい。
国王に死ねと言われた時よりももっと辛い。
自分は本物の王子でもない。
せめてただの娘だったら、短剣をくれただろうか。
普通の平民の娘だったら、身分は違っても好きになってくれただろうか。
「もう……もう、あ、明日、川に、飛び込む。
そう、決めたんだ。
そうすれば、もう……もう、思い出さない」
彼と出会ったこと。
彼と遊んだ日々。
彼に抱いた淡い想い……。
「婆やのところに逝く。
婆やは、きっと、待っていてくれる」
クラウスは何も言わず、涙目の主人をじっと見つめている。
いたたまれなくて、横を向いて俯いた。
飛び掛からず、逃げてしまえばよかった。
北西の物見台まで走って長くうねる階段を登りきり、北側に向かって身を踊らせれば、城になだれかかるように流れる大河に飲み込まれるだろう。
あれあけの高さがあれば身はバラバラになり、それが王子ウィリアムではないかという推測しか残さないだろう。
それが王子ウィリアムの最期で、最初からいなかった自分もこっそり最期を迎えることになる。
誰にも知られず。
誰にも見送られず。
たった一人で。
ゾクッと、寒気がした。
自分の両肩を握りしめる。
生々しい未来の孤独が体中を包んだ。
ふわっと、毛布にくるまれたような錯覚。
抱きしめられた。
「では、わたしもお供いたします。
わたしはあなたの騎士です。
どこまでもお供いたします」
「……クー……」
「わたしがあなたに短剣を差し上げなかったのは、あなたが王子の影という大役に就かれ、わたしは一介の騎士だったからです。
外戚とはいえど、あなたは王族に近い方。
なんの功績もないわたしには遠い人だった。
おそばにいられるだけでも幸せだと、自分に言い聞かせていました」
少女の体を離すと、クラウスは跪いた。
「もうあなたが姫でないと言われるなら、今ここで、わたしの剣を捧げさせてください。
わたしにとって、あなたはいつまでも、わたしの姫君です」
少女は首を振った。
「姫?」
「いやだ」
「…………」
「剣なんてほしくない。
わたしは、……クーラがいい」
クラウスはふっと笑った。
「では、わたしの姫君。
わたしがあなたのものである証しに、この短剣をお受け取りください」
少女は恐る恐る振り向き、捧げられた短剣を見下ろした。
蝋燭の明かりの袂に引き出された短剣は鈍く光り、昼間の明かりの下では銀であろう姿を煌かせている。
ときおり吹く風に揺られる蝋燭の明かりに誘われ、きらり、きらりと輝く。
そろそろと手を伸ばす。
驚いた。
指の腹で撫でた感触は固く、装飾の細かさが指に伝わる。
まるで彼のすべてがここにあるかのようにしっくりと手に馴染んだ。
「これで、クーラは本当に、わたしのそばに、いてくれるか?」
「はい、姫」
少女は安堵して力を抜いた。
ただ住む者がいなくなったというだけで、住居は瞬く間に枯れた花に似る。
美しかった分、その後の虚しさは大きい。
悪いことに、花は種を残すが、住居は残骸しか残さない。
見上げるだけで震えがこみ上げた。
見慣れたはずの建物が今にも動き出し、襲い掛かってくるようだ。
そんなはずはない、と首を振る。
「おい、あれ」
隣の茂みに身を潜めた仲間が小さな声で前方を見るように言った。
仲間の指の向かうほうを見ると、明かりが灯っていた。
これだけ大きな建物にほんのりとした小さな明かりというのは、さらに侘びしさを募らせる。
「わたしが行こう」
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
庭先の茂みや木の上に隠れた仲間の視線を浴びながら、寂しげな明かりを目指した。
帰ったときたとはまだ思えない。
実感が湧かなかった。
蝋燭を見つけた。
押して乾燥された花が薄く埋め込んである。
ゆらとも揺れない炎を見つめる。
人は恐れずはずの炎。
火事を恐れ、雷を恐れ、噴火を恐れる。
だが、炎は美しい。
ただ燃えているだけだというのに、一身に見つめさせるほどの優美な姿をしている。
優美さは、時に威厳を持ち、豪快さを放つ。
同じ火であるはずなのに、ひとつも同じものはない。
ため息もつかずに見つめていた。
ふら、と炎が揺れる。
ウィリアムは窓のほうに視線を向けた。
開けた覚えはなかったのだが、昼間のままだろうか、窓は空いていた。
鍵を閉め忘れたらしい。
夜にもなって無用心なことをしてしまった。
今日は、それを後悔しないだろう。
「……姫?」
呼ばれた、とわかった。
返事をしようとした。
声が出ない。
立ち上がろうとした。
脚がすくんだ。
手を上げようとした。
硬くショールを握りしめている。
動けない。
窓からの訪問者が一歩、歩いた。
その一歩、近づいた。
もう一歩、歩いた。
また一歩、近づいた。
三歩目、四歩目、五歩目……。
月光から離れ、蝋燭の光の中に訪問者が訪れた。
寝椅子の側にたった彼は跪いた。
懐かしそうにウィリアムを見つめる。
ショールの端を握り、口づけた。
「お迎えにあがりました、姫」
胸が震えた。
吸いこんだ空気は炎のように胸を焼いた。
掛けていたはずの鍵が溶け、胸のうちからたくさんのものが飛び出してきた。
まず、彼を抱きしめた。
飛び掛かられた彼は尻餅をついた。
そして、ウィリアムは名前を呼んだ。
「クーラ!」
騎士クラウスの両手がウィリアムの背に回された。
懐かしい温もりを感じた。
腕だけではなく、全身で彼は受け止めてくれた。
「姫」
王子だった少女はクラウスにしがみつき、駄々をこねるように首を振った。
彼の困惑する顔を見ず、その胸に顔をうずめた。
「お約束したとおり、わたしは戻ってまいりました。
一緒に参りましょう」
「いやだ!」
両手でクラウスの胸を押し返し、泣き顔を目一杯怒り顔にする。
「姫……」
「イヤだ。
クラウスは短剣をくれなかった。
貰ってほしいって言ったのに、くれなかった。
嘘つきだ。
クーラの嘘つき!」
ぷい、と顔を背ける。
押し倒されたまま床に座り込んだクラウスは、困ったように顔をかいた。
投げ出された両足の間に、主人がちょこんと座っている。
「わ……わたしが、王子になったから、か?
主従になって、後悔したのか?」
「姫……」
「姫はやめろ!
いやなら、言ってくれれば良かったんだ。
嫌いなら、き、嫌いって、言って、くれれば……」
喉が詰まった。
次にいうこと場が引っかかった。
嫌いといってくれれば戻ってこなかったのに───でも自分は未だクラウスが好きなのだ。
老衰で彼女を置いて逝ってしまった婆やより、もっと好きなのに。
なのに嫌いと言われたら、とても悲しい。
国王に死ねと言われた時よりももっと辛い。
自分は本物の王子でもない。
せめてただの娘だったら、短剣をくれただろうか。
普通の平民の娘だったら、身分は違っても好きになってくれただろうか。
「もう……もう、あ、明日、川に、飛び込む。
そう、決めたんだ。
そうすれば、もう……もう、思い出さない」
彼と出会ったこと。
彼と遊んだ日々。
彼に抱いた淡い想い……。
「婆やのところに逝く。
婆やは、きっと、待っていてくれる」
クラウスは何も言わず、涙目の主人をじっと見つめている。
いたたまれなくて、横を向いて俯いた。
飛び掛からず、逃げてしまえばよかった。
北西の物見台まで走って長くうねる階段を登りきり、北側に向かって身を踊らせれば、城になだれかかるように流れる大河に飲み込まれるだろう。
あれあけの高さがあれば身はバラバラになり、それが王子ウィリアムではないかという推測しか残さないだろう。
それが王子ウィリアムの最期で、最初からいなかった自分もこっそり最期を迎えることになる。
誰にも知られず。
誰にも見送られず。
たった一人で。
ゾクッと、寒気がした。
自分の両肩を握りしめる。
生々しい未来の孤独が体中を包んだ。
ふわっと、毛布にくるまれたような錯覚。
抱きしめられた。
「では、わたしもお供いたします。
わたしはあなたの騎士です。
どこまでもお供いたします」
「……クー……」
「わたしがあなたに短剣を差し上げなかったのは、あなたが王子の影という大役に就かれ、わたしは一介の騎士だったからです。
外戚とはいえど、あなたは王族に近い方。
なんの功績もないわたしには遠い人だった。
おそばにいられるだけでも幸せだと、自分に言い聞かせていました」
少女の体を離すと、クラウスは跪いた。
「もうあなたが姫でないと言われるなら、今ここで、わたしの剣を捧げさせてください。
わたしにとって、あなたはいつまでも、わたしの姫君です」
少女は首を振った。
「姫?」
「いやだ」
「…………」
「剣なんてほしくない。
わたしは、……クーラがいい」
クラウスはふっと笑った。
「では、わたしの姫君。
わたしがあなたのものである証しに、この短剣をお受け取りください」
少女は恐る恐る振り向き、捧げられた短剣を見下ろした。
蝋燭の明かりの袂に引き出された短剣は鈍く光り、昼間の明かりの下では銀であろう姿を煌かせている。
ときおり吹く風に揺られる蝋燭の明かりに誘われ、きらり、きらりと輝く。
そろそろと手を伸ばす。
驚いた。
指の腹で撫でた感触は固く、装飾の細かさが指に伝わる。
まるで彼のすべてがここにあるかのようにしっくりと手に馴染んだ。
「これで、クーラは本当に、わたしのそばに、いてくれるか?」
「はい、姫」
少女は安堵して力を抜いた。
