静かだった。

 ただ住む者がいなくなったというだけで、住居は瞬く間に枯れた花に似る。
 美しかった分、その後の虚しさは大きい。
 悪いことに、花は種を残すが、住居は残骸しか残さない。

 見上げるだけで震えがこみ上げた。
 見慣れたはずの建物が今にも動き出し、襲い掛かってくるようだ。
 そんなはずはない、と首を振る。

「おい、あれ」
 隣の茂みに身を潜めた仲間が小さな声で前方を見るように言った。
 仲間の指の向かうほうを見ると、明かりが灯っていた。

 これだけ大きな建物にほんのりとした小さな明かりというのは、さらに侘びしさを募らせる。

「わたしが行こう」
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
 庭先の茂みや木の上に隠れた仲間の視線を浴びながら、寂しげな明かりを目指した。

 帰ったときたとはまだ思えない。
 実感が湧かなかった。



 蝋燭を見つけた。
 押して乾燥された花が薄く埋め込んである。
 ゆらとも揺れない炎を見つめる。

 人は恐れずはずの炎。
 火事を恐れ、雷を恐れ、噴火を恐れる。

 だが、炎は美しい。
 ただ燃えているだけだというのに、一身に見つめさせるほどの優美な姿をしている。

 優美さは、時に威厳を持ち、豪快さを放つ。
 同じ火であるはずなのに、ひとつも同じものはない。

 ため息もつかずに見つめていた。

 ふら、と炎が揺れる。

 ウィリアムは窓のほうに視線を向けた。
 開けた覚えはなかったのだが、昼間のままだろうか、窓は空いていた。
 鍵を閉め忘れたらしい。
 夜にもなって無用心なことをしてしまった。

 今日は、それを後悔しないだろう。

「……姫?」

 呼ばれた、とわかった。
 返事をしようとした。
 声が出ない。
 立ち上がろうとした。
 脚がすくんだ。
 手を上げようとした。
 硬くショールを握りしめている。

 動けない。

 窓からの訪問者が一歩、歩いた。
 その一歩、近づいた。
 もう一歩、歩いた。
 また一歩、近づいた。
 三歩目、四歩目、五歩目……。

 月光から離れ、蝋燭の光の中に訪問者が訪れた。
 寝椅子の側にたった彼は跪いた。
 懐かしそうにウィリアムを見つめる。
 ショールの端を握り、口づけた。

「お迎えにあがりました、姫」

 胸が震えた。
 吸いこんだ空気は炎のように胸を焼いた。
 掛けていたはずの鍵が溶け、胸のうちからたくさんのものが飛び出してきた。

 まず、彼を抱きしめた。
 飛び掛かられた彼は尻餅をついた。
 そして、ウィリアムは名前を呼んだ。

「クーラ!」

 騎士クラウスの両手がウィリアムの背に回された。
 懐かしい温もりを感じた。
 腕だけではなく、全身で彼は受け止めてくれた。

「姫」

 王子だった少女はクラウスにしがみつき、駄々をこねるように首を振った。
 彼の困惑する顔を見ず、その胸に顔をうずめた。

「お約束したとおり、わたしは戻ってまいりました。
 一緒に参りましょう」
「いやだ!」

 両手でクラウスの胸を押し返し、泣き顔を目一杯怒り顔にする。
「姫……」
「イヤだ。
 クラウスは短剣をくれなかった。
 貰ってほしいって言ったのに、くれなかった。
 嘘つきだ。
 クーラの嘘つき!」
 ぷい、と顔を背ける。

 押し倒されたまま床に座り込んだクラウスは、困ったように顔をかいた。
 投げ出された両足の間に、主人がちょこんと座っている。
「わ……わたしが、王子になったから、か?
 主従になって、後悔したのか?」
「姫……」

「姫はやめろ!
 いやなら、言ってくれれば良かったんだ。
 嫌いなら、き、嫌いって、言って、くれれば……」

 喉が詰まった。
 次にいうこと場が引っかかった。

 嫌いといってくれれば戻ってこなかったのに───でも自分は未だクラウスが好きなのだ。
 老衰で彼女を置いて逝ってしまった婆やより、もっと好きなのに。

 なのに嫌いと言われたら、とても悲しい。
 国王に死ねと言われた時よりももっと辛い。

 自分は本物の王子でもない。
 せめてただの娘だったら、短剣をくれただろうか。
 普通の平民の娘だったら、身分は違っても好きになってくれただろうか。

「もう……もう、あ、明日、川に、飛び込む。
 そう、決めたんだ。
 そうすれば、もう……もう、思い出さない」

 彼と出会ったこと。
 彼と遊んだ日々。
 彼に抱いた淡い想い……。

「婆やのところに逝く。
 婆やは、きっと、待っていてくれる」

 クラウスは何も言わず、涙目の主人をじっと見つめている。
 いたたまれなくて、横を向いて俯いた。

 飛び掛からず、逃げてしまえばよかった。
 北西の物見台まで走って長くうねる階段を登りきり、北側に向かって身を踊らせれば、城になだれかかるように流れる大河に飲み込まれるだろう。
 あれあけの高さがあれば身はバラバラになり、それが王子ウィリアムではないかという推測しか残さないだろう。

 それが王子ウィリアムの最期で、最初からいなかった自分もこっそり最期を迎えることになる。
 誰にも知られず。
 誰にも見送られず。

 たった一人で。

 ゾクッと、寒気がした。
 自分の両肩を握りしめる。
 生々しい未来の孤独が体中を包んだ。

 ふわっと、毛布にくるまれたような錯覚。
 抱きしめられた。

「では、わたしもお供いたします。
 わたしはあなたの騎士です。
 どこまでもお供いたします」
「……クー……」

「わたしがあなたに短剣を差し上げなかったのは、あなたが王子の影という大役に就かれ、わたしは一介の騎士だったからです。
 外戚とはいえど、あなたは王族に近い方。
 なんの功績もないわたしには遠い人だった。
 おそばにいられるだけでも幸せだと、自分に言い聞かせていました」

 少女の体を離すと、クラウスは跪いた。
「もうあなたが姫でないと言われるなら、今ここで、わたしの剣を捧げさせてください。
 わたしにとって、あなたはいつまでも、わたしの姫君です」

 少女は首を振った。
「姫?」
「いやだ」
「…………」
「剣なんてほしくない。
 わたしは、……クーラがいい」
 クラウスはふっと笑った。

「では、わたしの姫君。
 わたしがあなたのものである証しに、この短剣をお受け取りください」
 少女は恐る恐る振り向き、捧げられた短剣を見下ろした。

 蝋燭の明かりの袂に引き出された短剣は鈍く光り、昼間の明かりの下では銀であろう姿を煌かせている。
 ときおり吹く風に揺られる蝋燭の明かりに誘われ、きらり、きらりと輝く。

 そろそろと手を伸ばす。
 驚いた。
 指の腹で撫でた感触は固く、装飾の細かさが指に伝わる。
 まるで彼のすべてがここにあるかのようにしっくりと手に馴染んだ。

「これで、クーラは本当に、わたしのそばに、いてくれるか?」
「はい、姫」
 少女は安堵して力を抜いた。