水鏡から最初に聞こえてきたのは、師匠のうめき声だった。
「どうしました?」
「いや……うん。弟に、頭に木刀を投げつけられてな」
「は?」
 あの師匠にしては迂闊だ。

「ックソ。イサのやつ……!」
 よほど悔しかったようだ。

「そ、それじゃ師匠、経過報告をします」
 チクショ、おう、クソッ、と師匠は適当にうなずいた。



 月明かりの晩、呪文を唱えながらよく冷えた水で円を描くと、魚の姿をした召喚獣が相手のもとに向かい、その遠くにいる相手と話ができる。
 双子鳥という方法もあるが、あれは声が大きくて、深夜ではご近所迷惑だ。

 任務を受けた彼は一人、長老宅の隣にある来客用の家を借りている。
 案内してくれた支部長は、書類が山積しているからと帰ってしまった。
 どうりで、見かけは若いのに総白髪なわけだ。
 さすが、一番秘境の一番忙しい支部。



「……の支部長が交渉してくれて、長老の一人からお話が聞けました。
 現れるようになったのは五季ほど前。

 最初は何の被害もありませんでしたが、なにぶん、いるだけで目立ちますよそりゃ。
 緑色ですから。
 子どもたちは物珍しげに見るだけですが、老人や長老筋にあたる方は何かの前触れではと、不安みたいです」

「何かってぇと?」
「まえにも……百年くらい前ですけど、姿を現したらしいです。
 その直後、例年まれに見るほどデッカイ台風に見舞われて、かなりの死傷者がでたって話です」

「五季たっても何もないが、何かあったら……ってことか」
「はい。
 雨の多い土地柄です。
 緑の狼が前兆として現れるんなら、特別な意味があるのではと長老も言われてました」

 この土地は、狼を神聖視している。
 特に金の魔導士と緑の狼は神のように崇める。

 緑色の毛並みの狼なら確かに珍しくて神聖視できそうだが、金の魔導士なんて、彼には理解できない。
 後光を放っているのだろうか。
 それとも、金粉を貼り付けたような肌をしているのだろうか……謎だ。

 もともと昔からの習慣を守りつづける土地だけに、不思議な話も多いのだろう。



「で、おまえは見たか?」
「緑の狼ですか?
 いいえ。まだです」
「特定の場所に現れんのか?」
「雨の降る直前、森の切れ間によく現れるって話で、場所は特定していません」

「じっとしててはくれねぇか。
 おいポッピー、応援はいるか?」
「ポッピーはやめてください。
 もっと探査に長けた者が必要です」

「呼び名くらい気にすんな。
 ギーとかどうだ?」
「大いに気にしますって。
 ギー導師なら永遠にお断りします」

「気の小させぇやつだ。
 ほかに手の空いてるやつは……ソドン、は北に行ったなぁ。
 ミマはぶっ潰れてるし」

 姉弟子は階位は高くないものの、司令塔としての能力が高く、あちこち引っ張りだこにあっていた。
 また倒れたらしい。
 かわいそうに……。

「ザンのやつが動ければ言ってみるか」
「……ザン?
 ザンティ導師ですか?」
「あぁ。あいつ探査とか関係なく、勘がものすごく働く。
 犬か猫かコウモリみたいだ」
 動物的勘か……。

 そんなわけで、人材不足の役士を補うため、動物的勘に優れているという、師匠の兄弟が呼ばれることになった。
 だから人を増やしましょうって何度も言ったのになぁ、と彼はぼやいて眠りについた。





 ふと、目を覚ますと暗闇だった。
 任務先で深寝入りすることなんてなかったのに、丸一日寝ていたかのようにすっきりとした目覚め。

 目が慣れると、最低限の家具の姿が浮かび上がる。
 二度寝しようにも目が冴えて、窓から差し込む薄緑色の月明かりに誘われてしかたなく、寝台から降りて外を見る。

「え?」
 月がなかった。

 そこには、発光する獣が一頭。

 従来の種族からすればふた周りは大きいだろう。
 夏の白い陽射しに照らされ、爽やかな風に揺れる草原を思わせる毛並み。
 藍色の瞳。
 逞しい四肢。

「おお、か、み……」
 今彼の目の前に、噂の緑の狼がいた。

 彼は急いで外に出る。
 緑の狼はさきほどと変わらない場所で彼を待っていた。

 その毛並みは淡く光り、月明かりもない地上にポツリと、星が落ちてきたようだ。
 その背景の深い森が広げられた夜の闇のようで、彼は空に浮かんでいる錯覚を覚えた。

 藍色の瞳が彼を見つめる。
 大きな口が開いた。
「ちがう……」
「え?」
「どこだ」

 彼は膝をついた。
 さすが、太古からの習慣を保ちつづけている土地だけのことはある。
 緑の狼を崇めるのは当然だ。

 人語を話す獣は限られている。
 魔族か。
 神族か。

「聖獣……か」
 彼はおもわず呟いた。

 聖獣がこんな人里に現れるなんて、夢にも思わなかった。
 召喚しない限り聖獣は現れないし、それ以外で見ることになるとは思いもしなかった。



「何を、探している?」
 彼はそっと語りかけた。
「……そのチは、ちがうのか?」
「ち? どの地だ?」
「その……ふるいチ。なつかしい……カノジョの、チ」
「彼女? どんな方だ?」
「ふるいチ。ヒカリ、ハルと、タンジョウのナ」

「……それは、人か?」
「ヒト、だ」
「魔導士か、王族か?」
「………………」
 緑の狼は首をかしげた。

 聖獣の捜し求めるものは彼にはわからなかった。
 情報が少なすぎる。

「…………。
 よし、おまえの言う彼女を探してみよう。
 見つかったら、また……月のない晩に会おう」
 緑の狼は少し考え、うなずいた。



 可哀想なのはザンティ導師で、任務地に到着早々、東総支部に移動となった。
 二人して、緑の狼の言葉に当てはまる人物を探す。
 秘境の多忙支部だけあってその蔵書は素晴らしい。
 散らかりようには肩が落ちるが。

 二人して埃まみれになりながら、一日が終わった。
「収穫、なし」
「そんなものだ」
「…………はい」
 一言で切られた。

 ザンティ導師は、世界で一番厳しい導師のお弟子さんだけあって、いうことに容赦がない。
 こんな固くて怖くて厳しい人が、自分の師匠と兄弟弟子なんて信じがたい。



 東総支部長が一緒に夕食を摂りたいとのことで、二人は東総支部長の自室に向かった。
 途中、廊下にまで資料が散乱していた。

 いやおそらく、本人たちにはわかるように分けて置かれているのだろうが、外部の者にしてみたら驚くことこの上ない。
 名前しか知らない禁書や、よだれの出そうな希少本があちこち廊下に置いてあるのだ。

 拾って帰りたい。
 三十冊ほど積み重ねられた書籍の一番下にある『ゼオラディスの生態』とか。
 なぜか廊下にある書棚の上で埃をかぶっている『シーマ史書』とか、特に気になる。
 ぜひ欲しい。



 東総支部長は、背の小さな老女で、机の向こうにいて頭しか見えなかった。
 薄紅色の頬がぷっくりとした、愛らしいおばあちゃんだ。
 ニコニコと笑って二人に席を勧めてくれた。

 こんないたいけなご老体に世界で一番多忙な支部を任せるなんて、大魔導師は人でなしだと彼は思った。
 だが聞けば、今の地位について百五十年ほど経つという。
 お見逸れしました。

 ……百五十年?

「総支部長!」
 彼は勢いよく立ち上がった。
「まぁ……どうしたの?」
「総支部長は、百年ほどまえに現れた、緑色の狼のことを覚えておいでですか?」
「緑の……狼?」
「はい。今、われわれが調べているのです」

 経緯を話すと、総支部長はおちょぼ口を驚きの形にした。
「まだあの子、迷っていたのね」
 あの子というのは緑の狼のようだ。
 さすが総支部長暦、百五十年。

「あの子はねぇ……もともと、大魔導師様のご領地にいたのよ。
 それを、ご主人様に着いてここまで来たのだけど、ご主人様は嵐に飲み込まれて、行方不明になってしまったの……」
 それから緑の狼は、嵐のたびに主の姿を探して現れるようになった。
 特に、大きな台風の時には人里にまで姿を現すのだという。

「行方不明、ですか……」
 ザンティ導師は絶望的な声で呟いた。
 そんな低い声で呟かれたら世界が終わってしまいそうで怖い。

「では、緑の狼は、主を……魔導士を探しているのですか?」
「そうよ。とてもキレイなお嬢さんだったわ」
「お、お会いしたことがあるんですか?」
 彼の驚きの質問に、総支部長は微笑んでうなずいた。

 さすが総支部長暦、百五十年。

「名前などはお聞きですか?」
「たしか……春の乙女と似た名前の子だったわ」
「春……」
 春は誕生を意味する。
 緑の狼が探していた人と同じだ。



 ふと思いついたように、ねぇ、と総支部長が手招きするのに彼は席を立ち、そばに歩み寄った。
「あなた、もしかして……」
 総支部長は小さな声で訊ねる。
「失礼だけど、生まれはどこ?」
 総支部長の質問に、彼は少し逡巡して小さな声で答えた。
「リ、リーイ家です」

 リーイ家とは、魔導家と呼ばれるほど多くの魔導士を輩出した家柄で、歴代の大魔導師の大半はリーイ家の人間だと噂される。

 彼の場合、親がリーイ家直系だったものだから、彼も魔導士の道に乗り込んだ。
 そうでもしないと父は、死んでも死にきれず化けて出そうだと言ったからだ。
 迷惑な親父だった。

 ちなみに彼は、非常に遅い能力開花とごく普通の能力に恵まれた、平均よりもやや下な魔導士である。



「まぁ驚きねぇ。
 ……でも、いいことを思いついたわ」
「良いことですか?」
 ひとり蚊帳の外になったザンティ導師が首をかしげる。

 総支部長は彼の手の握りしめていった。
「彼女も、そうだったわ。
 見事な銀髪でしたもの」
「銀髪? ……あぁあ」
 リーイ家の女性はそのほとんどが銀髪だ。
 目立ってしょうがない。

「あなたねぇ、ちょっと、その緑の狼を引き取ってみない?」
 総支部長は恐ろしいことを言った。
「はぁあ!? 無理です!」
「大丈夫よ、あなたなら」
「オレは平凡を地で行きますから!」

「ねぇ、ザンティ導師?」
「総支部長がおっしゃられるなら、可能でしょう」
 どういう理屈だ!
「ムリです!」

 まぁ、と総支部長はおちょぼ口を驚きの形にした。
「それじゃあなた、困ってる村の人をそのままにしていくの?」
「え?」
「かわいそうに……。

 わたしの血縁者も、あの地で穏やかに幸せに暮らしていたのに……。
 そう、だめなのね」
 総支部長は小さく丸い肩をがっくりと落とした。

「あ…………」
「ポッピー!
 女性を困らせるとは何事だ!!」
 後ろからザンティ導師が怒っている。

 目の前におばあちゃん。
 背後に怖い伯父師匠……。

 なんて可愛そうな自分、と彼は自分で自身を慰めた。
 そうでもしないとやっていられなかったから。





 次の月のない夜。
 彼は待ち狼を待つため、長老に客家を借りた。
 もちろん、ザンティ導師も。
 一緒にいてこんなに気詰まりな人は初めてだ。

 窓から光が差し込むと、彼は一人で外に出た。
 念のため、ザンティ導師が窓から外を見張っている。
 とはいえ、やはり聖獣を前にすると緊張する。

「きたか」
 緑の狼の声は、人で言うと男に近い。
 所々に少年のような高い声が混じる。
「来たよ。
 約束だからな。

 ……おまえの探している人は、もういなかったよ」

 緑の狼は彼の言葉を疑いもせず、うなだれて座り込んだ。
 ご主人様に怒られた犬のようだ。


「…………オレと、一緒に来るか?」
 緑の狼が顔を上げた。
「おまえ、もうずっと一人なんだろ?
 これ以上探しても、おまえの主は見つからない。

 彼女は……死んでしまったんだ」
 くぅーん、と緑の狼が鳴いた。

「おいで。
 オレは男だけど、リーイだ。
 それでよかったら、オレと一緒に来いよ」
 緑の狼に手を差し出す。

 緑の狼は動かない。
 じっと彼の手を見ている。

 彼は動かない。
 緑の狼も動かない。



 彼は目を閉じ、想像した。
 差し出した手を握りしめ、開く。

 そこに、濃い紫色の小さな花が咲いていた。

「ほら、懐かしいだろ?
 里によく咲いてたよな。
 崖に咲いててさ、一番キレイだったから、採ろうとして登ったら、オレ、落ちたんだ。

 おもいっきりケツ打ってさ、泣きたかったけど、泣かなかったよ。
 あの花が採れるまでは泣かないって、決めたんだ。

 もし採れたら、母さんに一番に見せようって思ったんだ。
 母さん、体悪くして寝込んでたから。
 この花みたら、絶対元気になるって思ったんだ。

 子どもってバカだよな。
 花一輪で、生死が左右できるわけじゃない。
 でもあのとき、オレは一所懸命だったんだ。

 一所懸命に何かしたんだって。
 自分は何もできなかったなんて思いたくなかったから、オレはずっとがんばったよ。


 でも、がんばっても、どうしてもダメなこともあるんだ」


 手の平で咲く花を指先で摘まむ。
 それは見る見るうちに枯れた。

「どこかで諦める。
 どこかで区切りをつける。
 それが、生きてるやつの……残された側の役目だ」



「──────……」



 緑の狼が立ち上がり、大きく首を伸ばした。

 空高く。
 亡き主にまで聞こえるようにと。





 泣いた。







 珍しく、聖獣を連れ歩く魔導士がいる。
 特別秀でいているわけでもない、ごく普通の魔導士だ。

 連れて歩く聖獣は、ただ聖獣というだけで珍しい。
 姿かたちはごく普通の狼だが、その毛並みは美しく、珍しい色をしている。
 その姿を見たものは、珍しさと毛並みの美しさに見惚れ、『緑の聖獣』と呼んでいた。

 聖獣は召喚されているわけでもなく、連れ歩く魔導士を主と仰いでいるわけでもない。
 まるで、友人のように話し、ときおり兄弟のようにケンカをする。

 魔導士の友人が、なぜそんなものを連れ歩くのか尋ねた。
 聞かれた魔導士は、渋々答えた。
『嵐にさらわれないように、見張ってるんだそうだ』

 あまりに情けない顔で言ったので、友人は腹を抱えて笑った。





「ポッ……………………ピー?」
 帰還した弟子を振り返り、師匠は固まった。
「た、ただいま、帰りました」
「……うん。なんだ、それは?」
「聖獣です」
「………………そうか」

 その聖獣の耳に、薄い紫色の花が差してあった。
 だって、緑の狼は女の子だったから……。

 お花大好き師匠はジェラシーを感じたようだ。
 こんにちは。
 最近、自分のブロネーム「ひぃな」の「ぃ」の字がメンドーになってきた、ひぃなです。
 いかん、いかん;

 このところ、すごい雨ですね。
 実家のママン家がボロく、心配で毎日メールしております。

 ニュースでは土砂崩れなどが起きているようで、気が気でありません。
 ママン、早く一緒に住もうぜ…(´・ω・`)
 そして飯を作ってくれ<オイ

 そんな冗談(?)は置いといて。

 土砂崩れや豪雨に見舞われている皆さん、しっかり!
 わたしも丈夫な傘を買いました!
 もう怖くない!
 たぶん!!



 で、お話ですが。
 ちょっとまた滞るかもしれません。
 ま、待っていただいている方はあまりいらっしゃらないかと思いますが。

 それでも、真っ白けなのもどうかと思いまして、中篇を一本、掲載していきます。
 15~6話ぐらいだったと思います。

 わたしのキャラの中ではNO.1ヘタレな彼が主人公です。
 「無口な友~」がちょっと暗くなってくるようですので、オキラクなものをと思いまして、編集しつつあげていきますね。(^ω^)

 それでは (・ω・)/
「……ティス?」
 どれだけそうしていたのか。
 呼ばれて顔を上げれば、ヨウスが見下ろしていた。
「気分でも悪いのか?」
 屈み込んで両腕に顔を埋めている姿が、そう思わせたのだろう。

「…………っ」
 馬鹿だと思った。
 人の心配なんてしている場合じゃない。
 顔に痣を作ったやつに、心配なんてされたくない。

 手を伸ばせば腕を掴める。
「ティス?」
 心配げな表情で見つめるヨウス。
 差し出された手を取れば、相変わらずそれは冷たい。
「トルクに、聞いて……」

 手を借りてゆっくりと立ち上がる。
 ヨウスを正面から見ると、意外と元気な様子で安心した。
「大丈夫か?」
「え?」

「心配して来てくれたんですよ」
 ヨウスの後ろから、エイトルがひょっこりと顔を出した。
「聞いたのか……」

 トルクは、二人のさらに後ろでだんまりしていた。
 ルフェランと二人両腕を組んで、怒っているようだ。

「これだけ護衛がいてくれたら、わたしは必要ないみたいですね。
 先に教会に戻ります」
「はい、エイトル様。
 ありがとうございます」
 ヨウスの心配はしていないのか、エイトルは軽い足取りで学舎を後にした。



「あー……ティス?」
「ケガは?」
「ないよ」
 これだけ、と自分の顔を指差すヨウス。

 襲われたなんて微塵も感じさせない。
 じっとヨウスの顔を見たが、堪えているのか、本当は何も起こっていないのではと思うほど普段どおりだった。
 安堵に、ティセットは肩を落とす。

 ヨウスが手荷物を持っているのを見て、ティセットは尋ねた。
「どこか行くのか?」
「……謹慎、だって」
「え?」
 襲われたのはヨウスだ。
 なぜそのヨウスが謹慎を受けるのか?

「殴ったんだとさ」
 不機嫌な声で言ったのはトルクだった。
「……?」
 ティセットには状況が飲み込めなかった。
 ルフェランに助けを求める。

「……ここじゃ話しにくいな。
 ヨウス、司祭様は?」
「夜までお務めに」
「じゃ、お邪魔しようか」
 ルフェランにまとめられ、四人はクワイトル司祭の家に向かった。



 家に着くなり、トルクはヨウスの胸倉を掴んだ。
 引き上げられたヨウスは爪先立つ。

「トル」
「脱げ」
「…………」
「何もなかったって言うなら、今ここで脱いで見せろよ」
 座る間もなく詰め寄られ、ヨウスは戸惑った顔でトルクを見上げる。

 その様子を、ルフェランは黙って見ていた。
 いつもなら真っ先に止めに入るのに。
 それどころか、止めようとしたティセットの腕を掴んで制止させる。

「ラン?」
 どうしたのだろうと、また問いかけてみる。
 トルクは普段、じゃれあいはあっても、怒ることは滅多にない。
 騒ぎだせば、いつもルフェランが止めにはいるのだが、今日は二人の様子が違う。

 ルフェランは重い溜め息を付いて、もたれ掛かっていた壁から背中を離した。
「ヨウス、部屋に行こうか?」
 その視線が居間の扉をチラリと見る。
 家人が、茶器を持って立ちすくんでいた。

「……ラナさん、部屋に上がりますから」
「でも……」
 ヨウスを押さえ付ける長身を見て、家人は去るのを拒んだ。
「トルク」
 ぽんぽん、とトルクの腕を叩くと、ヨウスは解放される。

 ヨウスは家人から茶器を受け取り、三人を二階に即す。
 階段を上がる途中、「大丈夫ですから」とヨウスが家人に話しかけているのが聞こえた。



 ヨウスの部屋は狭い。
 家人や見習いの僧侶を泊める部屋だからだという。
 それだけでなく、元々あった家具以外の私物も少ないようだ。

 一人、混乱したままのティセットは、指定席にも座らず、ヨウスと二人の間に立った。
「とりあえず、説明してくれよ。
 どうして襲われたはずのヨウスが謹慎で、二人は何に怒ってるんだ?」


 問われて、互いに目配せした二人。
「……座ろうか」
 ルフェランが話すようだ。

 ティセットとトルクは寝台に座り、ルフェランは唯一の椅子に。
 茶器を机に置いたヨウスは窓枠に腰掛けた。

「今朝、ヨウスを迎えに行ったら、こんな顔してたんだ」
 こんな、とルフェランの指がヨウスの顔の痣を指す。
「どうしたんだって訊いたらなかなか言わなくて……。
 そのうちランスが来て、指導室に呼び出されたんだよ」

 傷は何でもないというヨウスは、東寮長ランスに付いて行くので、二人もしかたなく同行した。
 道すがら、ランスが尋ねた。
(シーラット様を殴ったらしいが、本当か?)
(シーむがっ!?)
 叫びそうになったトルクの口を抑える。

 ヨウスは小さく頷いた。
(……押し倒されたか?)
 ランスが小さな声で尋ねる。
 行き交う学生たちには聞こえないように、慎重に。

(…………ヨウス?)
 東寮から本館に続く渡り廊下に入っても、それから本館の正面階段を登っても、ヨウスは答えなかった。
 それが答えだった。