「わたしの婚約者が消えました。
 姿が透けて、消えてしまったのです」

 自分の口で言った途端、全身から力が抜けた。
 信じられなかった。ついさっきまでイルスの目の前にいた人が消えてしまったのだ。
 しかも、自分の婚約者が。
 簡単に信じられるはずがない。

 イルスが床に座って黙り込んでいる間、主が魔導士を呼んだ。
 窓から入り込んできた大きな黒い鳥が、部屋に入った途端、人の姿になる。
「……魔導士さま…………」
「何か、大事のようですな」

 イスルはその人に縋りついた。
「魔導士様! イエラが消えました!
 イエラが消えてしまったのです。わたしの目の前で、透けて、消えてしまいました!」
 黒い魔導士は法衣を掴むイルスの手に手を重ね、落ち着いた声を発した。
「お話を聞きましょう。
 まずは、その椅子にお座りください」

 何度も同じことを繰り返しながらも、イルスは説明した。
 主と黒い魔導士は辛抱強く、口もはさまず耳を向けてくれる。二人の落ち着いた表情に、イルスも次第に落ち着きを取り戻した。

「最後にイエラは、『魔導士様』と、言ったように聞こえました。
 それで……混乱したわたしは、無礼にも陛下に、魔導士様を呼んでいただきたく、おすがりに参ったのです」
 イルスは頭を下げた。

「補佐殿。事情はわかりました。
 しかし……おそらくそれは、わたしではありません」
 黒い魔導士の言葉にイルスは頭を上げた。
「あなたの婚約者殿に術を施したのは、わたしではありません」
「では、どなたが……?」

「補佐殿。あなたには、あなたの魔導士がおります」
「……は?」
 黒い魔導士は笑ったようだ。
「あなたのご教育係の方に、お聞きになるといいでしょう」
 聞いたことのある台詞だ。

 操られたようにイスルはうなずき、主の部屋を後にした。



 夕暮れ時。
 珍しい時間に現れたイルスを、老人はすべてを呼んだかのような眼差しで迎えた。
「若……」
「じい。イエラはどこだ?」
 老人は横たわる寝台を挟んで、イルスの向こう側を見た。

 窓の前の空気がそうとわかるほど、ゆるゆると揺れた。
 蜃気楼が現れるようにゆっくりと、イルスの婚約者がそこに現れる。

 いつもの彼女ではない。
 くるくると変わる表情も、よく動く口も沈黙している。

「…………イエラ」
「……んなさい」
「なんだ?」
「ごめんなさい」
「イエラ……?」
「どうしたんだ、イエラ。 何があったのか話してくれ」
 イルスの言葉に、婚約者は泣きそうな顔で俯いた。
「イエラ様。この年寄りめがお話しましょう」
 婚約者は暗い目でうなずいた。
 なぜだろう、と彼女は首をかしげた。

 ときどき、自分は感情が爆発する。
 しばらく意識がなくなる。
 気づくと周囲はごちゃ混ぜになっている。
 毎回毎回、同じ肯定。

 今回は特に悪かった。
 支部の、しかも支部長始めご老体方のそろった席でついうっかり意識がなくなった。

 ご老体のうち軽量の三名は強風に飛ばされ壁と天井に衝突した。
 かつらがひとつ、壷にかぶさっていた。入れ歯は水盤に一つ、部屋の隅にもの寂しげに二つ。書類は視線の先すべてに広がっていた。

 支部長は運良く無傷だった。
 彼は中肉中背で、頭髪はないし、真っ白な歯は健康そうで、手元の書類を片手で押さえていたから。
 けれど支部長の血管は今にもぶち切れそうだった。

「いい度胸だ。
 十日間、謹慎したまえ」

 支部長の血管は切れなかったが、堪忍袋の緒は切れた。



 そんなわけで彼女は今、支部の謹慎室にいる。師匠の部屋より片付いているが、師匠のパンツよりものが少ない。
 寝台。
 机と椅子。
 以上。

 一日十頁の反省文を書き終え、食事をする以外暇だ。
 そのあいだ、彼女は自分の悪癖が直せないものかと考えた。



 それに気づいたのは小さいころで、困った親が魔導士に師事させた。
 師匠となった人は穏やかな人で、普段は自分の悪癖も出ない。だが師匠にはほかにも弟子がいて、彼らといると悪癖は出る。
 だから師匠の部屋はいつも散らかっていた。

『おちしょうしゃま、ごめんらしゃい』
 小さいころからろれつの回りが悪かった自分は、十歳ごろまで簡単な呪文さえ言えなかった。それで兄弟弟子にからかわれ、師匠の部屋を散らかした。

『散らかったら、片付ければいい』
 師匠はそう言って、いつも彼女の髪を撫でてくれた。
 けれど多忙な師匠が頻繁に部屋の片付けができるわけもなく、師匠の部屋の掃除は彼女の仕事となった。
 自分でやったことなので異議はなかった。
 でも、それでまた兄弟弟子にからかわれ、部屋はいっそう散らかった。



『おちそうしゃま、ごめんらしゃい』
 良いんだよ、と師匠は髪を撫でてくれた。

 出会ったときから穏やかな人だった。お金がなく、子どもの多い夫婦の間に生まれ、感情の起伏で嵐を巻き起こすがために疎まれて捨てられたも同然の子どもに、両手を差し伸べてくれた。
 優しい、養い親。
 修行には厳しい師匠。

 修行が辛くて泣いても許してはくれなかった、師。
 兄弟子たちにいじめられて泣いた後は必ずそばにいてくれた、父。
 いないときは探し出して、広い背中にしがみついて泣いた。たとえその時師匠が仕事中でも。来客中でも。



『おしそうしゃま、ごめんらしゃい』
 良いんだよ、と師匠は髪を撫でてくれた。

 出会ったときから年老いた人で、大きな腹を窮屈そうに曲げ、ふさふさの眉を揺らし、ぷっくりと太い指のついた手で髪を撫でてくれた。
 師匠となる人の手は柔らかで、自分の髪がとてもごわついているのだと知った。

 兄弟となった兄弟子たちは、指を指して彼女を笑った。
 ぼさぼさの髪に、垢まみれの肌。泥と汗で汚れ、綻びだらけのボロ一枚が唯一身に付けていたものだった。
 初めてはいったお湯の風呂は熱くて怖くて、驚いて逃げた。素っ裸で。



『おしそうさま、ごめんらしゃい』
 違うんだよ、と師匠は髪を撫でてくれた。

 シワだらけの指。こけた頬。
 出会ったときの姿が想像できないくらい師匠は痩せ細った。
 彼は年老いていた。
 そしてさらに年を取った。

『おしそうさま……』
 ろれつの回りはなんとか克服できたが、気を抜くと回らなくなる。
『ははは。ひさしぶりに、聞いたぞ』
『……おしそうさま…………』
『泣くんじゃないよ』
『…………』

 古びた寝台の上に横たわる、やせこけた師匠。見るだけで胸が痛む姿だった。
『すぐに良くなるよ』
『でも……』
『泣くんじゃないよ。これから、授業なのだろう?』

 泣き虫で、兄弟子たちにいじめられて育った彼女も、いつしか一人前の魔導士になった。
 抜きん出た能力も素晴らしい技術もないが、彼女は支部で、身寄りのない子の教育を務めた。幼すぎる子、反抗期の子、泣いてばかりの子、怒ってばかりの子……毎日が賑やかだ。
 師匠のおかげで、この子たちと毎日が過ごせる。

 自分は師匠のおかげで生き延びることができた。だから今度は、誰かに手を差し伸べたかった。
 その姿を、ずっと、師匠に見ていてほしかった。



 師匠が病身の身にあることを、彼女には知らされていなかった。快復に向かう兆しがなく、高位の治癒者に見てもらうため、彼女のいる支部へ師匠が運び込まれて知った。

『どうして……?』
『心配すると思ったんだ。ホラ、泣くんじゃないよ』
 師匠の言葉は明瞭だった。
 けれど顔色は真っ白だった。

『……おしそうさま』


 高位の治癒者は、自分にできるのはここまでだといって帰還して、三日。

 何とかしなければと、彼女は支部長へ面会を求めた。
 治療の延長を強く求めたが、師匠へこれ以上の治療法はないと言われた。
 絶望的なまでに、彼女の願いを彼らは断った。

「続けてくださいって言ってるでしょー!!」

 彼女はキレた。



 そうして面会室は惨憺たるあり様と成ったのだ。





 大魔導師ですら謁見を拒否した魔導士がいる。
 怒れば強風、喜んで爆風、悲しんで疾風を巻き起こし、緊張してはかまいたちを呼び、周囲をかき回して回った。
 普段は温厚で慈愛に満ちた教育者でいるため、言われても誰もそれを信じない。目にして初めてもう会いたくないと言う。

 だが彼女の場合、子どもへの被害はなかった。
 なぜか風は、子どもたちを吹き飛ばしはしたが両足を着けて着地させ、どこかに衝突させるようなこともなかった。
 風に巻き上げられたいがために、わざと彼女を怒らせる子どもすらいた。

 おそらく、子供時代に兄弟子たちにいじめられていたため、同年代以上には容赦がないのだろうと言われた。
 そんな彼女を、誰もがこう呼んだ。

 嵐のイセセラ、と。





 謹慎室の扉が開いた。
「……支部長」
「反省したか?」
「………………………………。ごめんなさい」
 支部長ははげ頭に血管を浮き上がらせて彼女に詰め寄った。
「重傷者一名、軽傷者四名。おまえ、いいかげんにしろよ」
「だって、兄さんが……」
 つい、昔の呼び名が出た。だって支部長は兄弟子だから。

「だって、なんだ?」
「教えてくれなかったから……」
「何を?」
「師匠が……」
 支部長は渋い顔をした。
「わたしに言うな。師匠が恥ずかしいから言うなと言われたんだ。わたしのせいではない」
 だからといって、やってしまった後に耳打ちしてくれなくても良いのに……。

 だって、だって、と彼女は泣き出し、慌てて支部長は謹慎室を出て行った。

「だって、便秘だなんて聞いてな──────いぃ!!」



 謹慎室の扉が吹き飛んだ日。
 師匠はめでたく快便したが、彼女は謹慎が延長された。

「レセリアナをどう扱ってよいのかわからない。だから、しばらく待て」
「…………はい」
 百年か、それはあまりにも長くて確かにわからなくなるのは当然だと、イルスは承諾した。
 そして、自宅に帰って怒られた。

「バカ!!」
 婚約者は花瓶を投げてきた。
 イルスの頭ほどもある大きさのそれがあたれば大惨事になるなど、彼女の想定にはないようだ。
 執事が体を張って部屋に侍女たちを入れないように立ちふさがっている。
 あの細い体でかわいそうに。

「パーシィク、忘れたの?」
「何をだ?」
「約束したはずよ。婚約者の次は妻だって!」
「そう、だな」
 そういえばそんな約束をしたような気がする。
「来年には妻と呼んでといったはずよ!!」
 婚約者は泣き出した。

 驚いたのはイルスだ。
 従兄のいたずらで頭部から大出血したイルスの顔を見て泣いて以来、久しぶりの泣き顔だ。
「イエラ、イエラ、悪かった。わたしが悪かった、イエラ。そんなに泣かないでくれ」
 婚約者は泣きながら花瓶やら額縁やら、果ては飾りの剣や簪まで投げつけてきた。
 それらを避けながらイルスは謝罪を口にし、徐々に婚約者に近づく。

 徐々に近づいて、腕を伸ばせば触れる距離で止まる。
 婚約者の姿を頭から足元まで見る。

「……イエラ?」
「なによ!」
「どうして……?」
「なによ!」
「す…………」
 それ以上は言えなかった。
 イルスがあまりに凝視するので、彼女も異変に気づいて自分の姿を見下ろした。
「…………あ…………………………………………」

 向こうの文机が見える。その上の筆立てすら見える。
 蜃気楼のように、ぼんやりと。
 婚約者の体を透かして、向こう側が見えていた。

 婚約者は透けていた。

 泣きそうな顔がイスルを見上げる。
「……………………や…………」
「イエ、ラ?」
 触れようとイルスが手を伸ばす。婚約者はいやいやと首を振って後退する。
 イルスが一歩近づけば二歩下がる。

「お願い……」
「イエラ?」
 婚約者の姿がさらに薄くなる。
「……パーシィクお願い」
「どう……して?」
「パーシィク。……どう、しさま、に…………」
 ふらっ、と揺れて婚約者が消えた。



 混乱する頭を抱えたままイスルが急いで向かった先は、主の部屋だった。
 真っ青な顔をしていたのだろう。主の最初の一言は気遣いの言葉だった。
「座りなさい」
「いいえ、陛下。ことは急を要します。
 どうぞお願いです。魔導士様に会わせてください」
「どうした?」
 イルスはうめいた。

「お願いです、陛下」