『おそらくわたしは、終わったら倒れて、しばらく起きないだろう』
 後は任せた、と言わんばかりに言われ、彼は緊張した。

 大師の補佐を務めることになるとは思いもしなかった。
 自分は成り立ての低位魔導士で、経験は浅い。同じ低位魔導士でも経験豊富なものはいくらでもいるだろうに、なぜ彼が選ばれたのかなんてわからない。
 ただ、師匠から命じられたままにその人に随行し、その人に言われるままに少女の家を突き止め、市長の屋敷に連れてきた。

 悪魔が大切な湖を占領し、その交渉役にその人は選ばれた。
 最初はギー導師が派遣されたのだが、悪魔が関係しているとわかると、すぐにその人が呼ばれたのだ。
 ギー導師は歴戦の人だが、悪魔関係はからっきしだそうだ。

 その人は、悪魔に会えなどといわれて動揺した少女を宥め、眠らせ、自身もその夢の中に入り込んだ。しばらくすると最初の言葉どおり床に倒れた。
 少女は椅子に座ったまま、まだ眠っている。

 彼は急いで医師を呼び、少女を寝台に運んで容態を見てもらうように頼んだ。
 その人は自分が抱えあげ、先日からあてがわれている客室まで運んだ。



 少女は次の日の朝には目覚め、ご機嫌な様子で家に帰った。
 その人は三日三晩眠りつづけ、彼をやきもきさせた。
 少女が元気なのなら、その人ももう起きていいはずなのに、なかなか起きない。
 大師の肩書きを持つその人を他人任せにできるはずもなく、汗を拭き、服を着替えさせた。
 意外と筋肉が着いていて驚いた。鎖骨にドキドキしたなんて秘密にしておこう。

 三日後、その人は目を開いた。
 普段は閉じているまぶたがパッチリと開いたものだから、驚いてしばらく観賞していた。
 その人には視力がないと最初に聞いていたので、見ているだけでは気づいてもらえないだろうと思い、大師、と呼びかけてみる。
「…………茹で汁捨てるの?」
「は?」
「……鼻が突き刺さっていますよ…………」
「?」
「………………………………」
 寝ぼけているようだ。
 その人はしばらくボーっとしたまま寝台に横たわっていた。ちゃんと意識が戻ったのは夕暮れ時だった。



 その人が目覚めたことを家人に知らせると、市長がすっ飛んできた。
 市長は湖を源泉としていた川の水が徐々に戻り始めたことを嬉々として語り、その人に感謝の言葉を延々と二時間、綴った。
 彼は病み上がりにやめてくれと叫びそうになった。



「世話をかけてすまなかった」
 その人は頭を下げた。
「いいえ、とんでもありません! 大師のお世話がでるきなんて、思いもしませんでした」
「……そ、そうか」
 軽い夕食を終え、その人はまた寝台に戻った。本調子ではないようだ。

「大師がこれだけ消耗されるなんて、すごい魔法だったんですね」
「え? ……あぁ、魔法自体はそんな強いものでもない。ただ、人の夢の中にはいると、体力の消耗が著しくなる」
「夢魔を呼び出すなんて、すごいですね! オレまだ一度も成功したことないんです」
「そ、そうか。……夢魔は、あまり無理に呼び出さないほうがいい」
「そうなんですか?」
「そう。とても気難しいから」
「へー」

 彼は気づかなかった。
 今回その人が呼びだした夢魔は、彼が呼び出せずにいる夢魔の王様だなんて知らなかった。いや、夢魔に王様がいることすらまだ彼は知らない。



 遠くから忙しない足音がした。
「お見舞いでしょうか?」
 彼は扉が壊れないうちに開けようと近づいた。
「待て! 開けるな!」
 その人の制止も虚しく、彼が開ける前に扉は開き、彼の鼻は扉の角で骨を折られた。
「がっ!」

「大師!!」
 精悍な男が駆け込んできた。
「げっ!」
 その人は仰け反った。
 男は素晴らしい脚力で跳躍すると、その人のいる寝台へ跳んだな。
 その人は逃げた。

 がごぉん

 丈夫な寝台だった。大の男が飛び乗っても、少々位置がずれたが壊れなかった。
 さすが市長、客室の家具に抜かりはない。
 それにしても、その人の目はまぶたを閉じているというのに、なんて素早い動きなんだろう。

「大師!」
 男が叫んだ。
「待て! 落ち着け!」
 顔を真っ青にしたその人も負けじと叫ぶ。

「大丈夫ですか大師!?」
「大丈夫だ。わたしは常に健康体だ!」
「見た目ではわかりません!」
「誰しも見た目がすべてではない!」
 さすがは大師、よい言葉を知っていらっしゃる。使い方を間違っているが。

 男はその人に近づこうとするが、その人は気配を感じて後退って逃げる。
「……なぜ逃げるんです?」
「おまえが追いかけるからだ」
「この距離じゃ手も握れない」
「握らなくていい。下がりなさい、ギル」
 本気の声に命じられ、男は歩みを止めた。
 そしてふと、まさに偶然にも鼻を押さえて壁にへばりつく彼に気づいた。

「あの男はなんです、大師?」
「……わたしの、補佐だ」
「補佐? あんなアゲたてをあなたに就けるなんて」
「ギー導師の配慮だ」
 男は苦い顔をした。
 ギー導師に嫌な思い出のある大勢のうちの一人なのだろう。彼自身はまだ噂に聞くだけだが、被害者は周囲に多いようだ。

「おい、おまえ、邪魔だ。もっと隅へ行け」
「やめなさい、ギル」
 その人は彼を振り返った。
「気にしなくていい。そしてできることなら、こいつを追い出してほしい」
「え? お、追い出すんですか?」
 明らかに男は彼よりも上位で先輩。
 だがこの場で一番の上位で先輩なのはその人だ。その人の命令は絶対だ。
「そうだ。的確に素早く追い出してほしい」
「は」
 はい、と答えようとした彼は殺気を感じて壁にまたへばりついた。力が入って鼻血もまた出た。それくらい男の睨みは怖かった。

「ギル!」
「壁に埋め込んでやろうか!」
「ギール!!」
 男はその人を振り返った。
 その人は真っ青な顔をしていた。見えないはずの視線を彷徨わせるように首を巡らし、まぶたの向こうから彼を見たような気がした。

 男の手がその人の手を取り、もう一方の手がその人の肩を掴んだ。その人の顔が一層強張る。
 その人は逃げようとしたが、明らかに男のほうが背も高く頑丈な体をしている。力では敵わないようだ。

 その人の目じりに光るものが見えたような気がした。

 彼の胸がときめいた。
 そして拳が硬くなった。



 がごーぉん





 ある魔導士に懸想された男がいる。
 男も魔導士で、相手よりも上位にあたるが、上下関係や礼儀や常識などそっちのけで攻撃されてうんざりしていた。
 男は逃げ回ったが、ある日うっかり捕まった。

 なんとその危機を救った勇士がいた。
 大仕事の補佐役で、ボーっとしていて冴えない平凡な部下だったが、男にはそのとき、救世主のように輝いて見えた。
 救世主の手を握り、男はいった。
『俺の壁になってくれ!』

 こうして、大師の肩書きを持つ有能な魔導士の片腕に選ばれた彼を、知人たちはこう呼んだ。

『壁のホーディット』。

 普段はボーっとしていて壁のように突っ立っている男。
 大師がぜひにと望んだ鉄壁の男。
 そんな複雑な意味を込めて。





 この数分後、上司に「俺を抱えて逃げろ」と命じられるなど思いもしない彼は、殴ってしまった先輩が床に倒れるのを眺めていた。

 あーなんかすごいことやっちゃった、と思いながら。
 鼻血を流しつつ。

 呆然とするイルスを横目に、主とレセリアナの婚約は広まり、サース国の使者を引き連れてイルスが帰還したときにはすでに皇都はお祭り状態だった。
「貴国は賑やかですなぁ」
 サース国の使者は喜んでくれたようなので、イルスは訂正しないでおいた。

 皇帝の婚儀など、どれだけ振りだろうか。
 先代女皇は幼くもあり、あまりに短い在位のために婚約者すらいなかった。だから誰もが資料と睨めっこで正典をやり抜こうと殺気立った。
 やっと主のお好みの女性が見つかったのだと宰相は小躍りし、娘や姪を帝妃にと企んでいた大臣たちは髪をかきむしり、ハゲた人が増えた。

 また、イルスの婚約が正式に公表されてからというもの、あちこちで婚約話が飛び交ったようだ。それまで待ちに待たせられた男性人は、大敵が一人減ったために叶った婚姻に複雑な気分のようだ。
 城下町でも恋の話が流行りだしたようで、恋愛物の書物が多く出版された。



 お披露目式の翌日には婚儀という目まぐるしい予定で、誰もが踊るように宮廷を駆け巡る。
 イルスも宰相からの指示と、部下からの報告と要望に駆けずり回った。さらに神官長の務めがあるため、休む間もない。

 それでもなんとか小休止を取って椅子に座ってぐったりしていると、それを見かけた侍女が真っ赤な顔で逃げていった。
 ……何をしたというのだろう。傷ついた。
 と思ったら、諦めきれない貴婦人たちが介抱と言い訳をつけて押しかけてきたので、慌てて執務室に篭もった。
 ……休めない。

 溜め息をついて椅子に腰掛けたイルスは、窓を叩く音を聞いた。
 振り返ったその先に、目の覚めるような笑顔があった。
「……フィー、どの?」
「こんばんは閣下。おめでたい話を聞きつけて来ました」
 来るのは構わないが、どうして窓からなのだろう。

「僕にもお祝いさせてください」





 祭りが始まる。
 神官長であるイルスが最初の祝辞を述べると、宮廷の露台を見上げるすべての民が大声で歓声を上げた。

 一日の禊ぎ。二日目の祓い。三日目の戒め……そして四日目に二人は婚儀で顔を合わせる。
 大神殿の大広間を埋め尽くす人々。その中央をゆっくりと歩く二人。
 青いヴェールの向こうのレセリアナの表情は見えない。それでも彼女の軽い足取りと、サース国から来た彼女の叔父の緊張した表情が現実的で、微笑ましい。

 彼女の叔父はぎこちない動きで彼女の手を主に渡す。
 主は頭を垂れる妻となる人のひたいに軽く錫上を当て、その手に錫上を渡す。その主の腰には、あの聖剣がある。
 大ぶりの剣は長身の主の姿にぴったりと収まっていた。

 二人は並んでイルスの前に跪く。
 イルスは祝辞を述べ、戒めを説き、誓いの言葉を結ぶ。主の声は震えていて、レセリアナの声はいつもより高い。

 そしてイルスは、祝福の使者を呼んだ。
「若き二人のために……」
 イルスの視線を追った主の目が大きくなる。
「……フィー殿」
 やはり、わかるようだ。法衣で顔を隠しているのに、主は知人を見抜いてしまった。
 ラヴァスト・ジフリーにとって怖いものは母以外にない。
 嫌いなものはたくさんある。
 ラディッシュ、姉、トマトに父親。

 それから最近、もうひとつ増えた。

「好き嫌いはいけませんよ」
 なんていいながら無邪気な笑みを向けてくる悪魔だ。



 いや、この悪魔の両親は普通の人間で、普通に子どもを作ったのかもしれないが、成長過程で間違いが生じて悪魔になってしまったのだ。
 親御さんに罪はない。
 と、アストは思っている。

 そもそも、国境付近の警備兵に名指しで依頼をする時点で怪しい。
 そんな仕事に微塵の疑いも持たずにもくもくと毎日を過ごす悪魔はさらに怪しい。
 そして、今日の空も怪しい。



「降りますね、今日も」
 悪魔は窓から顔を出して空を見上げた。
「やめろ。ホントに降るだろうが」
「すごいですね、アスト」
 悪魔が満面の笑みで振り返った。
「あ?」
「本当に雨が降り出しましたよ!」
「………………」
 どんな呪いだよ、と心の中だけで叫ぶアスト。

 小さな町の宿に閉じ込められて三日目。
 その前からしとしとと雨は降り続いていたのだが、昨日からの豪雨に川が増水した。
 次の町に行くための橋が流され、アストたちは足止めを余儀なくされた。

 一人なら、あるいはせめて警備兵仲間だったら札遊びでもしてお気楽に過ごせるが、悪魔と二人っきりだなんて窓から飛び降りたい。
 そのまま裸足で雨の中を逃げたい。



「アスト」
「なんだよ」
 床に座って剣を磨くアストに、悪魔がにじり寄ってきた。
「子どもの頃、雨の日はどんな遊びをしたんですか?」
「はぁあ?」
「僕は小さな村のはずれで育ったので、大勢と遊んだことがないんです」

 それは初耳だ。
 というより、悪魔は自分のことはあまり話さない。
 それもそうか。弱みを見せつけるわけにはいかないからな。

「遊びっつってもなぁ……。
 俺だって、十歳くらいまでは田舎暮らしだったんだ。
 学校に行くころに家に連れ戻されて、遊びなんていってもなぁ……」
 父のへそくりを盗んでお菓子を買いあさったり、姉の部屋に忍び込んで本を読み漁ったり、港で海虫を捕まえる競争をしたり、パンツ一枚で海に潜ったり……。

「くだらないことばっかだぜ」
「海の近くだったんですか?」
「親父の屋敷から少し南ある町だ。
 乳母の実家があって、そこに世話になってた。

 こんなこと聞いて、おもしろいか?」
「おもしろいというより、興味深いです。
 僕は本当に、歳の近い子どもと遊んだことがないので」
 そりゃ悪魔と遊びたい子どもなんていないだろうな、と思いつつも、やっぱりコイツにも人間らしい子ども時代があったのだろうかと思った。

 外見は天使のような愛らしいが、中身はどす黒い悪魔だ。
 それでも一応、医者に見てもらえば「こりゃ人間だ」と応えるだろう。
 それなら、不敵な笑みや恐ろしい含み笑いではなく、子どもらしい純朴な顔をしていた頃もあったのだろうか。

「おまえは、生まれはどこだ?」
「生まれはわかりませんが、養家はこの近くです」

 ……何?

「母が大ケガを負って、助けてくださった方が近くにお住まいなんです。
 そのまま母は亡くなりましたが、僕を引き取って育ててくださいました」



 悪魔は悲しそうでもなく、寂しそうでもない。
 いつものとおり、慈愛に満ちた微笑を口元に浮かべている。
 声にももちろん悲痛さなんてない。

 けれど。
 この悪魔にも母親がいて、助けてくれた親切な養い親との心温まる出会いが会った。
 そう思うと、いつまでも大人気ないことはしていられないような気がした。

 わざわざアストの仕事場まで出向いて依頼を持ちかけてくれた依頼主のためにも、報酬に見合った仕事をしよう。
 それが働く大人の常識ってもんだよな。
 アストはちょっと大人になった。



 それにしても、と悪魔が満面の笑みを向ける。
「あなたは本当に海が好きなんですね、アスト」
「はぁあ?」
「泳いでいるときにパンツが脱げて大笑いされても、翌日にはまた海に行くほど、好きなんですね」
「………………」

 うふふ、と悪魔が笑う。
 依頼主が選んだとはいえ、アストは一般人。
 依頼を告げる前に身辺調査がなされたと、悪魔から聞いた。

 いったい、身辺調査はどこまで進んでいるのだろうか。
 聞いてみようか。
 いや、恐ろしくて聞けない。

 そうだ。
 知らないまま、純粋な気持ちを持ち続けよう。
 そうすればきっと、明日には雨も上がるだろう。



 アストは童心に返ったふりをして、現実から逃げた。