諦観を灯火で照らす | 青い球。blauekugelという名に捧ぐ。

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花鳥風月、理の系の人間が超感覚的に追求する美学。やや欧州、技。

某トレンディドラマのリメイク版の主題歌は、コロナ禍に入った直後に発表された曲らしい。

 

もっとも、当時はコロナ禍に入った「直後」などと言う言い方はできなかったであろう。そもそも、現在生きている人々が初めて経験するパンデミックがそのあと3年以上も続くなんて、誰も想像できなかったのだ。あのとき、つまり2020年初頭には、その年の夏が始まる頃には元の生活に戻れると信じていた(希望していた)のだから、「コロナ禍に入った直後」などという言い方はきっと適切ではないだろう。

 
閑話休題。

 

この歌には、前向きで一歩一歩進んで行くようなメロディーとは裏腹に、当時の息苦しさや希望を持たなければ生きていけないという辛さが歌詞の中によく現れている。青春をいきなり奪われた若い人たちにとっては、尚更のことであっただろう。

 

交わした天の約束を裏切られたとしても

そんなことに僕たちは気付かずに生きていくだけ

天に裏切られる、すなわちどんなに理不尽な運命であったとしても、「僕たち」は「理不尽である」ということすらも知らずに生きていくしかない。令和におけるこのような諦観の雰囲気は、小松左京の「蟻の園」にも通じるものがある。

 

コロナ禍で失わされた膨大な時間、本来であれば享受できたであろう様々な営み。大人たちは、それが大きな損失だと理解できる。なぜなら、彼らはそれを経験しているからだ。一方で、若い世代は経験していないのだから、その価値を知ることもない。1日に100万円を使えるような生活をしたことがない庶民には、そのような贅沢の素晴らしさを理解することもできない(だから、残念に思うこともない)。

 

ありもしない滑走路

羽を広げ走る

揺るぎはしないよ僕たちは

何度も声を上げて ゝ ゝ ゝ

羽を広げ、飛び立とうとする「僕たち」。でも、実際には滑走路なんてものはありもしない。当然、飛び立つことはできない。それでも、飛び立てると揺るぎなく信じ、何度でも声を上げ続ける「僕たち」。何事も100%とは言い切れないから、滑走路が無くたっていつの日にかは飛び立つことができるのかもしれない。そう信じることができるのは、「僕たち」にはまだ膨大な時間が残されているからだ。我々大人が持ち得ないもの、それは「未来」である(それが実は、「膨大」ではないということを知っているのもまた、大人であるのだけれど)。

 

まだ見えない

未来を僕ら

灯火で照らしていくから

コロナ禍当時は、全く未来は見えなかった。全てが真っ暗な中、当時できたことは、ただ未来に希望を持つことだけだった。若者たちはまだまだ続く膨大な未来の可能性だけを信じて、「希望」という灯火を頼りに生きていたのだ。

 

そして、それは大人たちには決してできなかった、若い彼らだけの貴重な経験であったのだと信じたい。諦観から生まれるささやかな希望と、その希望が照らす無限の未来を胸に抱えて。