『かなへびさん』(大崎市鳴子温泉字川渡) | 碧風的備忘録

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宮城県岩沼市三色吉字水神に鎮座する金蛇水神社。

宮城県では、金運円満や商売繁盛の御神徳をいただける神社として

金華山黄金山神社や涌谷黄金山神社と並び知られています。

 

御祭神は水の女神とされる水速女命、別名『金蛇大神』

その他に大巳貴命少彦名命を相殿神としてお祀りしています。

境内には、同じく水の女神である金蛇弁財天もお祀りされています。

 

由緒によれば、岩沼付近に人々が住み始めた頃、

山から湧き出た水が平野に流れ出る場所に

水神を祀ったことが神社のはじまりという。

 

一条天皇の御代である平安時代の永祚元年(989年)、

京都の三条に住んでいた刀鍛冶である三条小鍛冶宗近

一条天皇の御佩刀を鍛えよという勅命を賜った。

小鍛冶宗近は刀を鍛えるために使う名水を求めて諸国を巡り廻っていた。

 

たまたま三色吉の地を訪れたところ、そこに鎮座していた

水神宮のそばを流れる水の清らかさに心を打たれた。

小鍛冶宗近は早速、水神宮に参籠(おこもりして祈願すること)して

水神の加護をいただけるよう願い、刀作りに取り掛かった。

岩沼市三色吉の『三条小鍛冶宗近 鍛冶場跡』石碑。

金蛇水神社からハナトピア岩沼を超え、三色吉公民館の東の田んぼ脇にあります。

 

しかし、刀を鍛えていた場所が水辺であったため、

カエルたちの鳴き声がうるさく、跳ね回ることで水も汚されてしまい

作業をすすめることが全くできなかった。

 

仕事が進まないのでどうしたものかと考えた小鍛冶宗近は、

鉄でできた雌雄の蛇像(金蛇)を作り、それを水中に投げ込んだ。

すると、カエルたちの鳴き声がピタリと止んで静かになり、

ようやく小鍛冶宗近は心を込めて宝刀を鍛え上げることができた。

 

一条天皇の御佩刀を無事鍛えあげることができた小鍛冶宗近は、

水神宮に祀られる神様に宝刀の完成への御加護に感謝し、

カエルを静めるのに作った雌雄の金蛇を水神宮へ奉納して

帰京の途についたという。

 

それからは、この雌雄の金蛇は水神宮の御神体としてお祀りされ、

神社の社名も『金蛇水神社』として崇敬されるようになった。

 


以上が金蛇水神社の由緒として知られているお話です。

 

 

 

…ですが!!

 

金蛇水神社の御神体の雌雄の金蛇について、

興味深いお話を伺ったので調べてみました。

それは『鳴子町史 上巻』に記載されています。

 


今から1000年ほど前の永延元年(987年)頃、

時の一条天皇が国家弥栄と人民豊楽を伊勢神宮に祈願するため

名刀を奉納しようと考えられた。

名刀には『小狐丸』という名前を与え、京の三条に住む

刀匠である三条小鍛冶宗近に刀を鍛えるよう勅命が出された。

 

小鍛冶宗近は名誉の大役を受け、良質の鉄が産出する

奥州へやってきて、刀を鍛えるにふさわしい霊地を求めた。

小鍛冶宗近は清水が豊富に湧き、近隣の山で良質の鉄が

採れる玉造郡宝の里小野松ノ荘蓬田という地を霊地に定めた。

 

小鍛冶宗近はその地に鍛冶場を設けてさっそく作業に取り掛かったが

夜ごとにカエルたちの鳴き声に悩まされ、全く仕事が進まなかった。

その対策として雌雄の金蛇を作ってみたものの効果がなかった。

 

その後、小鍛冶宗近は、舘野沢と水無沢の源である

紫雲峡と呼ばれる場所(三条山の裏尾根続きの羽黒原)を霊地に定め

そこに鍛冶場を再び設け、鉄鉱石を馬の背に乗せて鉱山から運び、

紫雲峡の泉水で刀を鍛え上げた。

小鍛冶宗近は紫雲峡に七年間滞在し、そこで『小狐丸』のほかに

『小豆長丸』『月山丸』などという名刀を鍛え上げた。

 

小鍛冶宗近が紫雲峡を去った後、里の人々は

小鍛冶宗近の人徳を偲び、紫雲峡に続く山嶺を『三条山』と名付け、

三条山南麓の台地を三条平と呼んだという。

 


三条小鍛冶宗近は鳴子の地で刀作りを始めたとき、

最初は現在の鳴子中学校がある場所の西裏の場所に
鍛冶場を構えていた。そこは鍛冶谷沢と呼ばれていた。
 
鍛冶谷沢で作刀したときに、夜な夜な鳴き騒ぐカエルたちを
静めるために作った雌雄の金蛇は、その後、
三条山の麓の末沢山洞川院という寺院に納められた。
 
しばらくして、カエルの被害に悩んだ鳴子の里の養蚕農家が
雌雄の金蛇の像を洞川院から借り出して、カエルを退治した。
その噂を知った近郷在住の農家の人々が洞川院から
雌雄の金蛇を我も我もと借り受け、一年中、雌雄の金蛇が
洞川院に帰ってくることがなかったという。
 
それでも、始めのうちは盆と正月だけは洞川院に
戻されていたものの、当時の住職が
「そんなに金蛇さんに効き目があるもんなら、お寺さ
戻さなくてもいいんでねぇかなぁ~」と言うので、
それからは雌雄の金蛇は貸し切り制となった。
 
その後、雌雄の金蛇のうちの一体は
当時の大口村→名生定村→一栗村→岩出山村→
西大崎村→東大崎村という村々から荒雄川沿いをどんどん下り、
石巻にまで渡った後、そこから海沿いを南下して
最終的に名取郡三色吉村の金蛇水神社の御神体として
祀られるようになったという。
 
鳴子に残された雌雄の金蛇のうちの一体は
養蚕の盛んな大口村や名生定村を廻っていたが、
何時しかカエルたちも少なくなり、金蛇の御加護を
受けなくてもよくなったため、金蛇の像は
川渡温泉にある祥雲寺という寺院に納められた。
 
本当ならもともと安置されていた洞川院に返却されるべきだが、
数百年という長い期間、寺に帰らずいろんな農家の間を
渡り歩いているうちに洞川院の住職も代替わりし、
里人も移り変わったりしたため、どこの寺から借りたものだったのか
忘れ去られた結果、川渡温泉の祥雲寺に納められたとされている。
 

以上の話が『鳴子町史 上巻』に記載されています。

 

そして、現在も雌雄の金蛇のうちの片方は、

川渡温泉にある祥雲寺の本堂内で大切にお祀りされています。

祥雲寺本堂。御本尊は釈迦如来とのことです。

 

『金蛇』は、本堂内部に厨子に納められて安置されています。

 

祥雲寺本堂内の『金蛇』の厨子。

寺宝である金蛇は、赤い敷物の上に安置されています。

 

この鉄黒色の蛇像が、三条小鍛冶宗近がカエルを静めるために

鍛冶谷沢で作ったという『雌雄の金蛇』のうちの一体です。

もう一体の金蛇が最終的に岩沼市の金蛇水神社に行き着き、

その後、御神体としてお祀りされているという伝えられています。

 

 

金蛇の体は赤錆色の鉄でできており、

三重にとぐろを巻き、鎌首をもたげた姿をしています。

体の鱗模様の浮き彫りや蛇腹の様子が見事な像で、

まるで生きているかのように赤茶色の眼を持ち、舌を出しています。

 

大きさは直径15cmほどで、台座ごと持たせて頂きましたが

ずっしりとした重さのものでした。

 

川渡温泉には他に寺院がないそうで、

住職さんがおつとめに出ている場合があるということなので、

金蛇の拝観を希望される方は、祥雲寺さんに

参拝前に連絡しておくといいかもしれません。

(写真の撮影もOKとのことでした)

 

三条小鍛冶宗近に関係した名刀を見る機会はあまりありませんし、

金蛇水神社の御神体を拝観することはまず不可能です。

そんな中、三条小鍛冶宗近の作品と伝えられている金蛇を

間近で拝観できる祥雲寺の御紹介でした。

 

川渡温泉や鳴子温泉方面にいらっしっる時には、

温泉巡りと併せて、是非とも祥雲寺さんに参拝してみて下さい。

 


< 地図 >

・金蛇水神社

 

・祥雲寺

備考:祥雲寺へ向かう川沿いの道は狭いので対向車に注意。