2019年が来ないとしたら、僕はまだその言葉を使うだろうか | 夢はなくとも 希望はなくとも 

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2018年が終わろうとしています。

 

年が明ければ

 

2019年になります。

 

当たり前の話しですが。

 

でも

 

よくよく考えてみると

 

それって本当に当たり前なんでしょうか?

 

本当に2019年が僕のところにやってくるんでしょうか?

 

その保証ってどこにあるんでしょうか?

 

もし、仮に

 

僕の人生が

 

2018年が終わるのと同時に終わってしまうとしたら。

 

そうならないという確約ってあるんでしょうか?

 

それって

 

このまま何もせずに

 

2019年が当たり前にやってくると思っているのと

 

同じことなんじゃないでしょうか?

 

このまま2019年を迎えるのと

 

2018年で僕の人生が終わるのと

 

どちらも必ずそうなる(そうならない)なんていう保証はない。

 

人間て

 

今までがそうだったから

 

これからもそうなると

 

それが

 

さも真実であるかのように

 

現実を捉えてしまっていますけど。

 

絶対なんてないのだとしたら

 

僕の人生が今日を含めて残り2日しかないということも

 

当然あり得る。

 

生と死はいつも隣り合わせ。

 

自分はまだ死なないと思っているかもしれないけれど

 

今、この瞬間に死ぬ可能性だってある。

 

まだ死なないなんてことは

 

誰にも言い切れるものではない。

 

どこか漠然と

 

「死」を遠い未来にあるものだと想定してしまっていると思うんですが。

 

それって本当か?

 

本当に遠い未来にあるものなのか?

 

僕は時々考えます。

 

もし、明日死ぬとしたら。

 

残り時間があとわずかだとしたら。

 

今やっていることを

 

そのままやり続けるだろうか? と。

 

人間て

 

頭の何処かで

 

「時間が無限にある」と思い込んでしまっていると思うんです。

 

それはある意味仕方のないことなのかもしれないです。

 

「時間」はただの概念ですから。

 

人間の都合で勝手に頭の中で作り上げた幻想ですから。

 

それこそ

 

無限にあるということにしてしまえる。

 

でも、

 

「時間」がただの概念であるという以上、

 

無限にあるということもまた、

 

ただの概念であり妄想でしかないです。

 

 

だからどうした?

 

だとしたら、何だって言うんだ?

 

 

頭の中で

 

そんな声がしました。

 

たしかにそうです。

 

それを目の前にして、

 

何ができるか。

 

何もできないかもしれないです。

 

でも、

 

今やっていることを選び直すことくらいはできるかもしれない。

 

もし、

 

明日死ぬとしたら、

 

今やっていることを

 

そのままやり続けるだろうか?

 

 

意識的に

 

そう考えて日々を生きる人もいるでしょうが、

 

やむを得ずというか、

 

そう考えざるを得ない

 

どうにもならないという状況になってしまう人たちも

 

実際にはたくさんいることだろうと思います。

 

そういう人たちの在り方がどうなのかというエピソードが

 

この本の最後の方には出てきます

 

 

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ある時、友人から連絡が入った。

 

「大きな手術を控えている俺の幼馴染が、西野のファンらしい。もし時間があったら、お見舞いに行ってあげて。きっと喜ぶと思う」

 

ボクのスケジュール感も知っているだろうし、普段は決してワガママを言うようなヤツじゃないので、少し気になって病名を聞いた。

 

 

急性白血病だった。

 

余命3ヶ月の宣告を受けていた。

 

 

翌日、病院に行った。

 

「はじめまして。西野です」

 

余命3ヶ月の彼は痩せ細っていたけど、底抜けに明るい人でね、ノートパソコンを開き、「僕が生き延びる為の方法」を、まるで夏休みの自由研究の発表のようにプレゼンしてくれたんだ。

 

2時間ほど話し込んだと思う。

 

 

同じ時期。

 

別の友人から、「この人にあって欲しい」と言われた。

 

妻子持ちのカメラマンさんだった。

 

そのカメラマンさんのブログには、自分が末期癌で、余命宣告を受けていることが赤裸々に語られていた。

 

後日、そのカメラマンさんともお会いした。

 

彼は、とても余命宣告を受けているとは思えないほど肩の力が抜けていて、ここでも、また話し込んだ。

 

 

彼らとの会話はとても気持ちが良かった。

 

気持ち良さの理由が分かっている。

 

彼らが選ぶ言葉のいちいちが、美しいのだ。

 

 

そこに怯えや迷いなどは見当たらなかった。

 

脇目も振らず

 

ただ、伝えたいことを、

 

今、伝えなければならないことを、

 

使わなければならない言葉を、

 

使わなくてもいい言葉を、

 

彼らは丁寧に取捨選択していた。

 

 

その言葉の羅列は、もはや機能美とも呼べる無駄の無さで、「友人の友人」という、知り合いでも何でもないボクの胸を貫いた。

 

 

彼らは生きることをまるで諦めちゃいないけど、しかし、最期の日も覚悟している。

 

自分が使える文字が、あと僅かかもしれないことを知っているんだ。

 

彼らが選んだ言葉を前にすると、自分が日頃、いかに不用意に言葉を選んでいるかを知る。

 

 

 

 

(P.315~318)

 

 

image

 

 

 

思ってもいないようなことを言っていないか?

 

言わなくてもいい言葉を使っていないか?

 

今、言わなければならないことを、

 

伝えたいと思う言葉を

 

僕は選んでいるんだろうか?

 

 

2018年はもうすぐ終わります。

 

そのまま何事もなかったかのように

 

2019年がやってくるとも限らない。

 

 

一番言いたいことはなんだ?

 

一番伝えたいことはなんだ?

 

 

そのために

 

これから口にする言葉を

 

丁寧に選んでみよう。

 

《終わり》