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『なおえもん歴史紀行』

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突如禁教令を出した真意は?


秀吉は当初、信長にならいキリスト教の布教を認めていた。しかし、キリスト教の教義が自らがつくりあげようとしていた国家体制と矛盾したものであると気づき、国家統一に悪影響を及ぼすと考え、統制・禁圧の方針に変更していった。
九州征伐のさい、秀吉は肥前の大村純忠(日本最初のキリシタン大名)が長崎をイエズス会に寄進していることなどを目の当たりにし、また見渡すとキリシタン大名があちらこちらに出現している状況に憂いを抱いた。そこで九州平定の帰途間際に「11ヶ条の覚書」を出し、「個人のキリスト教信仰は自由」と認めるとしながら、大名や上級武士に限りキリスト教入信は秀吉による許可制とした。

さらにその翌日にはキリスト教宣教師らに5ヶ条の法令が発せられた。これが「バテレン追放令」と呼ばれるもので事実上のキリスト教禁教令であった。これによれば「日本は神国であってキリスト教は日本の伝統的宗教を破壊する邪教であり、宣教師は20日以内に国外追放を命じる」というものであった。
秀吉がこうした強硬体勢をとった理由には入信の強制や社寺の破壊と仏僧への迫害、ポルトガル人による日本人奴隷の輸出などがあげられる。そして秀吉は諸大名を集め、「キリスト教は一向宗に似て非常に危険である」と語ったとルイス・フロイスの「日本史」に記されている。こうした懸念がバテレンを追放した最大の理由であろう。
しかし、ポルトガル船の来航と商人の行き来は許容され、南蛮貿易については従来通り許可された。キリスト教を禁じながら貿易はOKという矛盾があり、結果的にこの禁教政策は不徹底なものとなった。