『維新の墓標』
〜昔々 北越戊辰戦争で〜
というサブタイトルが涙を誘う。本当に、昔々の話。
この本は、目線が越後の民なので、戊辰戦争の大義名分とかは関係なく一体ここで何が行われていたのかという取材のもとに書かれています。
まあ冷静になってみれば、越後人にとってハタ迷惑な話であります。なんだか知らんけどいきなり余所者がワラワラとやって来て、略奪はするわ鉄砲ぶっ放すわ、最後は焼け野原にして去っていった感じなので・・・
しかし、
筆者は絶対
河井継之助の
大ファンだろ?
・・・全然扱いが違いますわな。
まぁでも河井継之助は後世の人の善し悪し評価は別にしても、傑物であったことは間違いない。
今回、河井継之助の従者・松蔵の墓マイラーしてきました。
長岡市の願誓寺というところにあります。
イケメン松蔵はよく生き残れましたね。幸せな余生だったら良いのですが。
河井継之助の章では「慈眼寺会談」について考察がしてありました。有名な事件であり様々に論じられてもいますが、言われてみると確かにおかしいところがあり、ミステリーっぽくて面白かったです。
↓慈眼寺。
常々思っていたが、岩村精一郎の肖像画はイケメンに書いてあるな。(性格はいただけないが・・・)
筆者曰く、
あんなに用意周到なリアリストであり、己の信念でのしあがった政治家であり、経済通でもある河井継之助が、山県狂介や黒田了介に何の根回しもせず、いきなりやって来て岩村みたいな青二才と大事な交渉をするかな?
これが謎なんだそうです。
つまり。
ぜんぶ河井の罠
これだったのじゃないかと。
交渉は決裂しましたが、この会談の結果としては揺れていた長岡藩の藩論を「抗戦」でまとめ、それまで態度をはっきりさせなかった越後諸藩(村松、新発田、村上など)を一気に同盟に持っていき、奥羽越列藩同盟の成立を誘導したに等しいとのこと。
わお!孔明の罠みたいだな。
後からそれに気づいた山県・黒田は「してやられた」感があり、維新後も口が重く多くを語らないのではないかと。
そして岩村だけは何が起こったかわかってない→「ん?」
けれど、肝心の本人が戦死してしまっているので、真相は藪の中です・・・
もう一つ印象的だったのが、桑名藩の話題です。
そういや桑名藩は徳川四天王の一人、本多忠勝ゆかりの藩ですからな。そりゃあ徹底抗戦しなきゃね!
柏崎の飛地にやってきた桑名藩主・松平定敬公。
この人はっきり言って、第一級の危険人物ですよね。
(褒めてます↑大好きです)
もー柏崎で大人しくしているかと思ったら、虎視眈々と抗戦派の家臣と連絡をとり、恭順派の家老を始末しちまいます
桑名兵めちゃくちゃ強い。特に立見艦三郎のパワーがすごい。
(※その立見鑑三郎も、宇都宮戦で土方歳三に鍛えられて覚醒したと書いてある本がありました。土方さん怖いよ←褒めてます)
桑名藩の戦術は、「抜刀斬り込み」と言うのがまた驚きです。
だって、西洋の最新兵器をバシッと揃えた新政府軍に対して、抜刀斬り込みですよ?普通負けるでしょ?なのにめちゃくちゃ勝つわけです。どんだけ恐ろしいんだ。さすが土方歳三仕込み。
筆者の書き方では北越戊辰戦争は河井継之助と桑名藩兵が奮戦し、清々しいほどに頼もしい存在です。
その代わりというか、会津藩に対してはかなり辛口な批評。越後の預り地の領民に対する圧政が、自らの首を締めたんだみたいな論調でした。
越後の民にしてみれば、突然やって来て戦争を理由に食糧やら物やらをぶんどっていく会津藩にはちょっと恨みがあったかも。新政府軍に川舟を用意したり、抜け道を教えて協力した農民も多かったようです。お金をくれて優しくしてくれるなら、幕府だろうが新政府だろうがどっちでも良かったんですね。
その越後の民は、長岡藩が参戦した途端に列藩同盟軍に協力的になり、新政府軍は苦戦を強いられたと書いてありました。
これが、「余所者」と「地元の殿様」の違いね。
エンゲージメントって大切なんだな・・・
〜おまけ〜
松平定敬公が陣所にしていた柏崎の「勝願寺」です。
こんな碑がありました。
桑名藩士のお墓。
これも。何をかたどっているのか?