ちょうどこちらの本も併用して読み終わったところです。
『維新の墓標』は、郷土史的な感じで、北越戊辰戦争にフォーカスして新潟県内の各藩の事情を解説しており面白かったです。この中でも高田藩は言及されておりました。
高田藩な。
徳川四天王の一人、榊原康政直系の家柄でありながら新政府軍に味方して徳川への恩義を忘れ幕府軍を攻撃した藩か?
奥羽越列藩同盟に肩入れする人間からしてみれば、裏切り者とか卑怯者とかのイメージですこぶる評判が悪いです。
ゴメン!!
まさにわたしもそう思ってた!!
でも実は、深い深い事情があったのでした。
もともとこの上越地区は、越後国府が置かれていたと言われており(それっぽい遺構が見つかっている)越後の国では最も栄えた地域だったらしい。京に一番近いですからね。なので上中下の”上越”なんでしょうな。
城としては春日山城、その後は福島城、高田城の順に築かれましたが、上杉景勝が会津移封になったあとは何人か統治者が変わり、幕末の頃には榊原家が高田藩の藩主となってました。
転機が来たのは、長州戦争です。
この時榊原家は、徳川家康の先鋒として活躍した藩祖榊原康政にならって、長州征討軍の先鋒を勤めました。オーさすが。
なんか藩主・榊原政敬自ら出陣したというから、ものすごい気合いの入れようだったのね。
そう、この時はね・・・
がっ!
結果、長州藩に大敗
理由は兵備・兵制の差。
この時のことは、
「高田藩ノ大恥辱」
とまで言われてます。めっちゃショックだったんだな。
これが高田藩の目を覚まします。時代が確実に変わっている。もう、刀や槍の時代じゃないし、幕府にかつての力は無い。
かくなるうえは討幕しか道はないのでは・・・
だからと言って、コロッと徳川に手のひらを返したわけではなくて、高田藩の主張は「哀訴諫諍」だったのですって。
・朝廷に対しては徳川家の存続を「哀訴」する
・徳川慶喜に対しては、朝廷に謝罪するよう諭す「諫諍」をする
実際、これを必死にやっていたそうです。
これを先にやっていたのが尾張藩の徳川慶勝公とのこと。慶勝公は御三家なのにいち早く新政府側についた人ですが、これは新政府の内部に入り込んでから徳川の救済を主張し続けるという、この人なりの忠義だったのです。
やっぱりな〜
最新の情報を早く掴んで、時代の流れを敏感に感じとった人ほど現実的な判断ができたみたいですね、この幕末という時代は。
徳川慶勝公は、弟たち(松平容保公と定敬公)とは真逆の立場を取りながら、形は違えど彼なりに徳川への忠義を貫いたと言えようか。
想いは一緒。
なんだけど、相容れない兄弟・・・
ウッ・・・(泣いてもいいですか?)
ところでこの頃の越後は、まるで火薬庫か!と思うくらいワラワラといろんなのが入り込んでいまして。
会津藩の預かり地に会津藩士、柏崎の飛地には桑名藩主御一行様、新潟湊には古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊と水戸の過激佐幕派・諸生党。
このうちの衝鋒隊を領内通過させてしまったことを新政府軍に咎められ、必死に弁明した結果、高田藩は許されて新政府軍に合流します。ですがそんな経緯なので、高田兵はいつでも新政府軍の先鋒に出され、味方に背中を小突き回されながら奥羽越列藩同盟軍と戦う運命となります。
特に長岡戦が酷かった。おびただしい数の死傷者を出します。
長岡藩には何の恨みもないのにね・・・
しょうがないこととはいえ、心が痛みますね・・・
これだけでも十分に悲劇なのですが、さらに驚愕の出来事が高田藩にはありました。
高田藩士は3つに分かれて、お互いが敵味方になって戦っていたのですって。
まず本藩の藩士
→これは先ほど述べた通り、新政府軍の先鋒。
白河奥州領の陣屋詰め藩士
→戊辰戦争勃発時から本藩と連絡が取れず、位置的に奥羽越列藩同盟に合流せざるを得ず、最後は鶴ヶ城籠城組となる。
江戸藩邸詰め藩士
→徳川家と榊原家の関係を重んじて幕府につく道を選ぶ。「神木隊」を結成し彰義隊に合流。上野戦争の後は榎本艦隊に加わり箱館戦争を戦う。
どの組に属しても、なんかもう裏切り者とかという一言では表せないような複雑怪奇かつ悲哀に満ちた高田藩士の運命
ゴメン!!本当に誤解していた!!
ところで『維新の墓標』の本ですが、長岡や桑名、新発田など他藩のことも情感込めて書いてあったので、これまた別記事にて感想をしたためたいと思っています。
〜おまけ〜
高田藩は、会津藩士が斗南藩に送られる前の預け先になっていましたね。罪人として収容された過酷な状況で、ここで亡くなった方も何人かいたそうで。
山の中腹に、ひっそりと会津墓地がありました。
思ったのが、キレイに草刈りされていて、お墓が丁寧にメンテナンスされているなーということ。
会津から植えられた木がありました。