手記だ、当然のことながら | 読んだらすぐに忘れる

読んだらすぐに忘れる

とりとめもない感想を備忘記録的に書いています。




イーアン・ペアーズの代表作『指差す標識の事例』は、四部構成になっており、それぞれが一冊の長編並みの長さになっている。文庫上下巻二冊で1000ページ近くするので、思っていた以上に読むのに時間がかかった。久しぶりに歯ごたえがある小説読んだなという気分。17世紀、支配者がかわる動乱の時代で魔女狩りや占星術の迷信と近代科学の萌芽が混在するイングランド、オックスフォードに読者を誘う重厚で、ロマンティックな歴史ミステリだ。



独裁者オリバー・クロムウェル亡き後、王政に戻りチャールズ二世が統べる1663年のイングランド。学問の街、オックスフォードで大学教師ロバート・グローヴが砒素で毒殺される事件が起きる。疑われたのは下女のサラ・ブランディ。病に伏せる母を助けて欲しいと懇願するも断られたことを恨みに思っての犯行と思われた。サラは数々の状況証拠から裁判で有罪になり、絞首刑の後、火あぶりとなった。傍で事件の流れを見てきた関係者たちは各々、手記で当時のことを回想する。ヴェネツィアから来た医学に心得のある青年、父親の裏切り者の汚名を雪ごうとする息子、暗号解読の達人にして陰謀好きの幾何学教授、そして、「事実」の収集を心掛ける学者。食い違う主張がぶつかり、読者は少しづつ認識を補正されていく。



第一の手記「優先権の問題」

マルコ・ダ・コーラは父の命を受け悪徳商人からイギリスにおける商権を取り戻すために使わされるのだが、当面の生活と対策を練るためにオックスフォードのロバート・ボイルを頼る。その途中、彼は貧しい母親の病気を治すことでサラと知り合うことになる。母親を助けるために当時としては初めてとなる母娘間における「輸血」をリチャード・ローワーと秘密裏に行い、命を助けようとする。一方で、オックスフォードで生活し始め、知り合って間もなく死んだロバート・グローヴの死を検証に立ち会う。その死の原因が砒素で、購入したのがサラであり、事件当時のグローヴの指輪を盗んだことが明らかになる。やがて、裁判でサラは死刑となり、ローワーによって無茶苦茶に解剖される。死者を冒涜したローワーと決別し、コーラはヴェネツィアに帰ることになる。



第二の手記「大いなる信頼」

オックスフォードの法学徒であったジャック・プレスコットは、第一の手記をローワーから手に入れ、在りし日の冒険を認める。

王党派として戦っていたが、敵方と内通する暗号文を差し押さえられ、裏切り者として告発された父親ジェイムズは海外に逃走し死んだ。一族は土地や財産を没収された。父親の無実を証明し、プレスコット家の再興を願うジャックは奔走、父親を嵌めた陰謀の全貌が見えてくる。その過程でプレスコットはサラを手籠にした上、親友トマス・ケンがグローヴとの争いを有利に進められるようにサラとグローヴのふしだらな密通の噂を流す。怒ったサラは呪いの言葉を吐きプレスコットはだんだん調子が悪くなり、サラの抹殺を決意。折しもトマス・ケンがグローヴの死の現場にいた事を目撃したプレスコットは彼をかばうためサラに罪を被せる。



第三の手記「従順なる輩」

クロムウェル時代はジョン・サーロウに、チャールズ二世時代はヘンリー・ベネットに仕え、体制転覆をはかる破壊者の監視を続けるジョン・ウォリスは独自の諜報活動のなかで、以前から怪しいと睨んでいたマルコ・ダ・コーラ宛ての一通の解読不能の手紙を入手する。それは折しもジェイムズ・プレスコットが、議会派に内通し王党派を裏切った際に通信に使用していた暗号文書と同じ様式であった。ある時は医学をかじった学究の徒、ある時はトルコ人相手に勇猛果敢に戦った戦士、得体の知れないカトリック教徒コーラが、イングランドを揺るがす重大事件を起こすのでは? と疑惑を深める。やがてウォリスは、大いなる陰謀の世界を覗くことになる。裏の裏はもはや表という複雑なドラマのなかで、ウォリスは、コーラが自分を毒殺する為にワインに毒を仕込んだが、誤ってグローヴが飲んでしまったことを確信するもサーロウの見えざる力によって、サラの死刑に手を貸すことになる。



第四の手記「指差す標識の事例」

三つの手記に脇役で登場したある人物は、三つの手記を読み、それぞれの偽りと誤りを指摘する。コーラはある事を隠すために嘘を書いており、プレスコットは妄想に取りつかれ自分に都合のよい物語をつくり、ウォリスは知ったかぶりの陰謀について書いているが本当のことを知らない。第四の手記の書き手は三つの手記と自分の行為、見知った出来事をつなげていき「事実」を描こうとする。それは誰も想像しなかった愛と奇蹟、そして、決して世間には公表されない秘密についての告白だった。



ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』、ジョン・ファウルズ『マゴット』(これは若島正さんの指摘)、アガサ・クリスティ『五匹の子豚』をちゃんぽんしたような感じ。物語はフィクションなのだが、実在の人物が残した「手記」(四番目のは、死後に焼却が指示されている)という形式にすることで、モキュメンタリータッチになっている。それぞれの手記の書き手しか知らない意外なドラマが次々と明かされていく展開は面白いが、如何せん長い、長すぎる。



また、正直なところ王党派、議会派の対立、国教会と非国教会の対立などイギリス史の知識が乏しいので、十分に作品を楽しめたと言えない。本書最大の秘密である信仰とアイデンティティの問題についても、事の重大さは理解できるが、現代の日本を生きる私にはあまりピンとこなかった。しかし、ル・カレを代表するスパイ小説を生み出すイギリスの土壌はこういう歴史から来ているのだなと感じた。



ペアーズはこの作品以降、凝った構成の小説を書いているようだ。訳されるか分からないが、あまりに凝ったものを出されると、柔い小説しか読んでないので、こちらの「歯」がもたないかもしれない。