今日もまた、川崎市で子どもたちが刃物を持った男に切られるという悲しい事件が起きた。

命を落とした方たちのご冥福を心よりお祈りします。

 

駅から学校までのスクールバスに乗るために並んでいた時の惨劇だったようだ。

何が起きたのかわからない子もいただろう。怖かっただろう。

ただただ学校に行くためにいつも通りの道に立っていただけなのに。

 

誰一人として傷つけられる理由も、命を奪われる理由もなかったはずだ。

それだけのことをしておいて…

犯人は自分の首を切って自殺したという。

何なんだ。なぜ他人を、子どもたちを巻き込む必要があったのだ。

 

腹立つ。悔しい。悲しい。

 

びっくりしたよね。怖かったよね。痛かったよね…

 

被害に遭った子どもたちが通う小学校が記者会見する必要はありますか?

現場に花などを手向けている人を写し、マイクを向ける必要はありますか?

亡くなった方たちの生前のことを詳細に伝える必要はありますか?

 

必要なのは、心身共に傷ついた子どもたちのケアではないのですか?

 

このところの「マスコミ」の「報道」には憤りを感じることが多い。

私は女性として生まれた。

しかし、好むものは男性物が多い。着る物・持つ物・それらの色など…

そして女性が好む物・好むことには何の興味もなく、むしろ嫌悪感がある。

 

胸が出てきた時はパニックで、タオルを巻きつけて登校して先生と母に怒られた。

初潮を迎え、毎月「身体は女だ」と突き付けられるのは憂鬱だ。

中学生になり、制服がスカートなのが本当に嫌だった。

「オナベみたい、気持ち悪い」と言われていた。

 

高校を卒業し、スカートをはかなくてよくなったのがとても嬉しかった。

ところが、周りの友人が化粧をし始め、ブランド物のカバンなどを持つようになった。

自分にはあり得ないことで、取り残された感と疎外感、別世界に行ってしまうのを見ているしかない恐怖感が半端なく大きかった。

 

でも、恋愛対象や性行為の相手は男性なのだ。

いったい私は何にカテゴライズされるのだろう?

LGBTの当事者である友人からは、「あんたみたいな中途半端なのはLGBTじゃないから」と言われている。

確かに中途半端だとは思う。

でも、性別については身体と嗜好との不一致に悩み続けている。

 

 

 

「一日一日を大切に、精一杯生きる」
「今日という日は二度とないんだから、悔いのないよう一生懸命生きよう」
…今までどれくらいの人に言われたことだろう。

「悔いのないように生きる」ってどういうこと?
「一日一日を精一杯生きる」ってどういうこと?

太宰治の「斜陽」のヒロインの弟、直治の遺書の始めに出てくる
『僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
生きていたい人だけは、生きるがよい。
人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もあるはずです』
という言葉の方が私にはリアルに響く。

生きざまは努力次第で何とかなるのかもしれない。

でも人は死ぬ。
どんな立派な生き方をしても、それは変えられない。

どう死ぬか。

難しいのはむしろこちらではないのかな。


祖母の納骨が済み、とりあえず一段落。

 

自分の周りにぼんやりした膜のようなものがあるように感じる。

家と職場との往復なのだが、どちらにいても周りとの隔たりを感じる。

 

好きなものの色が褪せて見える。

好きな音楽が心に響かない。

SEKAI NO OWARIの曲が心に響かないことを自覚した時には、涙が止まらなくなった。

 

ここ数年で父・叔父・祖母が亡くなったこともあり、疲れているのかもしれない。

母との生活も疲れる要因だ。

 

甥っ子のことを考えると今すぐ自殺するわけにはいかない。

ならば家を出るしかないのだ。

でも、今の給料ではとてもじゃないけど自活できない。

土地勘のないところの、寮つきの工場で働くことを考えてみようか…

 

過食と爪噛み、日々ひどくなっていく。

どこへ行こうか…

 

 

昨日無事に祖母の四十九日法要と納骨が終わった。
何となく「この人より先に死ねないな」と思ってきた存在がなくなったことが突きつけられている。

子どもの頃の私は、とにかく嘘つきな子どもだった。
嘘をついてでも、自分の方を見て欲しい子どもだった。
そして、何べん怒られても、親の財布からお金を盗む癖も治らなかった。
みんなが食べている、普段は食べられない駄菓子を買って食べることなんかが嬉しかったのだ。
そんな感じで自分が悪いことをしているのに、すぐにバレる嘘をつくことの繰り返しだった。
悪いことをしなければいいのに…でもそれができなかった。
怒られるのは当たり前だけれど、とにかくその場を取り繕うことに必死で嘘の上塗りをしてしまうのだった。
(今も瞬間的に嘘をついてその場を誤魔化そうと思うことが多々ある)。

あまりに嘘ばかり言い、手癖の悪さもひどくなるばかりだったある日。
台所にいた母に呼ばれた。母は静かにこう言った。
「あるところに嘘ばっかりつく子どもがおるねん。何べん怒っても平気で嘘をつく子やねん。その子の親、どないしたと思う?」
私は答えに窮し、「殺してしまうかな」と言った。
母は「違うねん。許してん。その子が自分で気づいてくれたらええなと思って許してん。でもその子は気づかへんねん」と言って、改めて私の方に体の向きを変えた。
「お母さんと一緒に死のか」
そう言って、私の喉元に包丁を突きつけた。
さほど怖い、とは思わなかった。イヤでもなかった。

母にとって、私は「殺せる」存在なのだと思った。

あの日、いっそのこと殺してくれればよかったのに。


あさっては祖母の四十九日法要がある。
もう祖母の部屋にはベッドもポータブルトイレもない。
壁には100歳のお祝いに国や県、市などからいただいた表彰状が貼ってあって、50年ほど前に田舎の家を手放してこちらに来る時に持って来た柱時計が時を刻んでいるだけだ。
仏壇の前に作った祭壇に置かれている祖母の遺骨は納骨するので、物理的に祖母の不在を再認識することになる。

父が亡くなった時は、それまで同居していたので、ほんの些細なことで父はもういないのだ、と感じることが多かった。
祖母は叔父の家にいて、こちらから顔を見に行く、というスタンスだった。それでも何となく、いてくれるだけでありがたい存在だった。体が元気で働けているのならそれでいい、といつも言ってくれた。私には直接言わなかったけれど、私のアトピーのことを心配して母には話をしているようだった。

いつも死ぬの死なないのとグダグダ言っているが、祖母が生きている間はダメだという歯止めのようなものがあった。それがなくなるということは…
ここ数日、いつも見ている景色が色褪せて見える。
私はどこを向いて進もうとしているのだろう。
昨年亡くなった父の面会には、母と妹が行ってくれていた。私には仕事があり、そちらを優先しなければならなかった。
始発バスより一時間早く家を出て歩きで父の病院に向かい、10分ほど話をして、また歩いて最寄り駅から通勤の電車に乗っていた。

その父が危篤だと連絡があった時、私は睡眠薬が効いていて記憶があまりない。丸いすを並べて寝ているところに看護師さんが気をきかせてソファを持ってきてくれたこと、心電図モニターを見ようとしても瞼が閉じそうになったこと、何とか父の手を握って呼びかけたこと、そしてドラマのように全ての波形が直線になったこと。
それが、私が覚えている父の最期だ。

来週の祖母の四十九日の話をしていると、母が急に「かあちゃん(私の祖母)の穏やかな亡くなり方とお父さんの苦しそうな亡くなり方が違いすぎて、気持ちが追いつかんねん。上書きされるとか、そういうことではないんやな」と言葉を絞り出した。
「お父さん、そんなに苦しんだんや…」と呟いた私に「私らの顔を見て、しんどそうやった。苦しそうやった」と母。

ごめんな、全然知らんかった。全然覚えてないねん。

祖母が亡くなる前日の昼間、母とその弟夫婦が見舞いに行った時は38℃を超える熱を出し、意識ももうろうとしていたそうだ。それで「顔だけ見といた方がええかもしれんよ」と私の携帯に連絡が入っていた。

行ってみて、叔父から昼間の厳しい容態を聞いた。
とりあえず習慣だからとお茶とゼリーを持って祖母の部屋に行った。力が入らない祖母の身体を支えて座らせると、お茶を飲みゼリーも口にしてくれた。
叔父も驚き、帰宅して話すと母も驚いた。
結局それが祖母の101歳の人生の最後の食事になった。
娘である母ではなく、私が居合わせた時に…というのは何とも言えず申し訳ない。

この気まずさというか申し訳なさというか、どうしたものやら…



小学生の頃から自殺願望があった私。

具体的な行動を起こしたことはないけれど(自殺未遂など)心の底では早く死ななきゃ、という思いがまだある。

 

でもヘタレで根性がなくて、死への恐怖心を消すことができない。

先に自殺してしまった彼に対して、羨ましさと妬みを感じる。

 

彼を今も好きということではない。

でも、統合失調症の発病にもっと早く気づいたらよかったと思う。

大学の夏休み、帰省する私を彼は駅まで見送りに来てくれた。

少し食欲がなかったけれど、夏はいつもそうだったのでそんなものだと思っていた。

休み明けに会った彼の顔つきが何かおかしい…

イヤな汗が背中をつたった記憶がある。

 

そういうもろもろのことを抱えて生きることが私に対する罰なのだろうか。

無期懲役ではなく、終身刑なのだろう。

ずるずる生きても、うまく死ねてもその直前までは抱えていかないとダメなのだろう。

 

しんどい。

昨日(5月9日)の可愛かずみさんについてのプログへのアクセスがけっこうな数(私のブログとしては、です)になっていて驚いている。
それまでにかずみさんのことを書いた記事へのアクセスも増えているところを見ると、かずみさんのファンの方が見て下さったと考えるのが妥当だろう。
だとしたら本当にありがたいと思う。
生前のかずみさんのご活躍を知らない没後ファンなので、それでも受け入れて下さったのならそんなに嬉しいことはない。

今さらではあるが、自死した人の理由は誰にもわからない。
かずみさんには、かずみさんにしかわからない理由があったのだろうと思う。
その選択は残念なものだったけれど…
でもかずみさんが苦しさから解放されて、穏やかな心持ちになれたのであれば、それは尊重したい。
他の人が80歳までかかって会得するものを、かずみさんは32歳までに会得してしまったのだろう。
それは明るさであり、優しさであり、細やかな気遣いであり、気さくなところであり…
18歳から「可愛かずみ」として生きて下さったあなたに、心から感謝です。
今日は5月9日。可愛かずみさんの命日です。
22年前の今日、かずみさんは天に還ってしまわれました。

昨年の初春、何度も読んでいる自殺された方にまつわるノンフィクションを再読していました。それまでは「顔と名前は一致する女優さん」だったかずみさんのページ。
それまでも何度も何度も読んでいたのですが、その時なぜか大きく心を揺さぶられ、ネットでかずみさんのことを調べ始めました。ファンの方が運営されている「可愛かずみの博物館」などのサイトには本当にお世話になっています。

当然、知らないことの方が多かったです。
グラビアクイーンとして一世を風靡されたこと。
レコードデビューして歌手としても活動されていたこと。
どうしても「役者」(かずみさんご本人が使われた表現です)になりたくて、努力を重ねられたこと。

そして、精神的に追い込まれ、大量の薬を飲まなければならない状況になっても「役者」であることをやめなかったこと。諦めなかったこと。

その愚直なまでのひたむきさに惹きつけられました。
「勝手没後ファン」になり、当時の掲載誌や写真集、CDなどを買い集める日々。
麻布十番にあるお墓にも何度か参らせていただきました。いつもきれいなお花やお酒、タバコなどがたくさん供えられており、人を今でも惹きつけてやまないかずみさんのお人柄を見るような思いがします。

そして30年近く中断していた鉛筆でのデッサン(?)を再開しました(と言っても習っていたわけではなく、下手の横好きで描いているだけなのですが)。
同一人物とは思えないくらい魅力的な表情を見せてくれるかずみさん。「この表情いいなあ」と思うページを見ながら絵(?)を描いていると、心が救われるような不思議な感覚がします。

We still love you,KAZUMI KAWAI!

そちら側で穏やかに過ごしておられることをお祈りします。
これからも「勝手没後ファン」でいさせて下さいね。
元の写真が撮影されたのは1985年12月。かずみさんが21歳の時の写真です。