昨日は祖母が亡くなってから1ヶ月が経った日。
「もう」なのか「まだ」なのか、正直よくわからない。

思えば祖母は大きな樹のような存在だった。
枝葉を繁らせ、強すぎる陽射しを遮り、幹のところで雨宿りをさせてくれる、そんな大きな樹。
私たち祖母の血を引く親戚たちは、そこの居心地のよさをよく知っていた。そこに集まるのは当然だった。

そんな祖母がもうこの世にいない。
何かあった時に、あのぬくもりに包み込んで欲しくてももうそれはかなわないことなのだ。
じゃあどうすればいいんだろう…途方にくれてしまう。

安心して祖母が向こう側の世界に行けるよう願っているけれど、現実にはなかなか…

おばあちゃん、寂しいよ。

平成から令和へと元号が変わった。

 

思えば、平成の始まりとともに始まった高校生活。

教師から名前でなく「アトピー」と呼び続けられ、廊下を歩くと同学年の生徒はもちろんのこと、関係ないはずの中学部の生徒からもすれ違うたびに「きもっ!」と息を止められていた。私がいるから周りの人間が不快になるのだという思いはこの時確固としたものになった。

 

阪神・淡路大震災で祖母を失う。

 

結婚するはずだった彼が統合失調症に罹患し、仕事以外の時間を彼を支えることのみに費やして私も鬱病に罹患した。

2年後、彼を飛び降り自殺で亡くす。後を追えないまま20年が経過する。

 

妹の結婚を機に摂食障害にかかる。

 

仕事先で過呼吸を起こし、1ヶ月精神科に入院。

自分を罰するにはどうすればいいのかばかり考えていた。

へなちょこなので剃刀などの切れ味が鋭いものではなく、カッターナイフで手を切っていた。

 

…何と無駄な31年だったのだろう。

 

そして昭和からの爪噛み・抜毛症・夜尿症も残ったままだ。

早く消えたい。

 

10連休とは全く関係ないシフト制の職場だが、今日は休みだった。外は雨だしひんやりしているし、どこかに出かけようという気にはならない。
可愛かずみさんの切り抜きの中に何枚か描きたいものがあったのだけど、今月はなかなか着手できなかった。
ああ、もうすぐ5月が来るなあ…と思いつつそれらの切り抜きを眺めていたら、やっぱり気になる表情をしているページに目が止まった。
何かを言おうとしているのか。
何かを言った後なのか。
何かを言おうと口を開いたものの、言葉が出ないのか。
この口元がいちばんのポイントなんだけどなかなかうまくいかずじまい。
平成最後の(笑)かずみさんのデッサン(?)です。




来月、祖母の四十九日法要が営まれる。
今はまだおじ宅の仏壇の前に祭壇をしつらえ、遺影とともに骨壺が並んでいる。白木の位牌もある。
四十九日の法要の後、納骨される。

父の時もそうだったが、骨壺があるとまだ存在感があった。姿は変わったけど、物理的に「父」がいた。
四十九日法要の前日、骨壺を開けて「父の身体」だったものに別れを告げた。

法要が終わると、黒塗りの位牌がひとつ仏壇に加わった。父の戒名が刻まれたその位牌に、父を感じることもなければ何の興味もわかなかった。毎日どころか、月命日に仏壇の前に座ることもない。
ただ、父にとっては亡くなった祖父母と同じ仏壇に祀られているのだから、居心地のいいところなのだろうと想像するだけだ。

祖母の納骨が終わった時、私は何を感じるのだろう。
大きな喪失感か、大きな虚無感か…

14年前の4月25日、福知山線脱線事故が発生しました。

亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りするとともに、被害に遭われた方々が少しでも穏やかな生活を送れる日が来るよう願っています。

 

実際にあの電車に乗っていて被害に遭われた方々だけでなく、そのご家族、救助に当たった現場近くの企業の方々などが心に大きな傷を負い、PTSDが問題になったことを記憶しています。

 

自分だけが助かったことに罪悪感を抱いたり、自分が代わりに被害に遭えばよかったと思う方々が多かったそうです。

 

大災害の後にもこういった問題が取り上げられますね...

 

事故の数か月後、JR神戸線・東西線を乗り継いで北新地駅に行く用がありました。帰りは福知山線に乗り、尼崎駅で神戸線に乗り換えることにしました。

 

寝過ごして、気づいたら福知山線に入っていました。

尼崎に戻る電車に乗り換え、先頭車両で現場付近を見ていました。カーブの角度が本当に急でした。本当に怖かった。

ここへスピードを出したまま突っ込んでいった車輌…何が起きたのかわからないまま亡くなられた方が多かったのではないかと思い、涙が出ました。

 

不謹慎かもしれませんが。

 

「加害者」となった運転士のご遺族はどのように暮らしてこられたのかと毎年思います。ご自分の息子さんもある意味JR西日本の日勤教育の被害者だと思いますが、絶対に息子さんのことは他言できず、悲しむ姿も他人には見せられない…

何とか生活されていることを心から願います。

 

最後にもう一度、亡くなられた方々のご冥福をお祈り致します。

 

昨日は祖母の部屋の掃除兼形見分け(?)に行った。
粗大ゴミのような大きなものは既におじが整理してくれていて、あとはタンスや押し入れの中の細々したものをいるもの、いらないものに分けていく。
懐かしいものもあれば、見たことのないものもたくさんあって、欲しいものはもらい、いらないものはゴミ袋へ。

祖母が帰ってくることはもちろんない。
101年の生涯で、使ったものは数知れずあるだろう。
そういった品々が永遠に持ち主を失うこと。
それを思うと、大きな悲しみや淋しさを感じる。
父が亡くなった時もそのことを強く感じた。
物に魂のようなものが宿るわけではない。でも、それを使っていた故人の姿を思い出すと、その姿を見ることはもうないのだという淋しさに襲われる。

片づけをしている私たちを見守るかのように、50年以上祖母と一緒にいた柱時計の針の音が鳴っていた。



祖母が亡くなって半月が過ぎた。
在宅介護だったので弱っていく姿をちょこちょこ見ていたし、101歳で老衰で亡くなったのだから、ある意味立派だったなとさえ思っている。

明日、とりあえず祖母の部屋を整理すると連絡が入った。幸いなことに、明日は休みだ。
着いたら、無意識に玄関を入ってすぐ左側の祖母の部屋のふすまを開けるんだろうな。そこには祖母の姿はもちろん、レンタルのベッドも車イスもない。
頭では理解できているけど、実際その様子を見て取り乱さずにいられるのか…
怖いよ…
買い集めた可愛かずみさんの雑誌が増えて置場所がなくなり、かずみさんのページだけ切り抜いてクリアブックにファイリングしたものが10冊以上になった。
これもそろそろ置場所に困ってきた。
部屋をゴソゴソやって置場所を作っていると、母が部屋に入ってきた。

「これ何?可愛ナントカさんの切り抜き?」
…(ナントカさんって何やねん。失礼やろ)
「こんなん置いといてどないするん?何の役にも立たんやん。こんなんにお金使える身とちゃうやろ!」

「こんなん」って何やねん!「何の役にも立たん」ってどの口が言うとんや!あんたの何倍も何十倍も私の心の支えになるんや!

もちろん口には出さなかったが、イラッとするを通り越して内心はらわたが煮えくりかえっていた。

あんたに何がわかるねん!




祖母が亡くなって1週間。
元通りの生活に戻りつつある。

まだ夢の中にいるような感じが抜けず、悲しみや淋しさは出てこない。心にポッカリ開いたような喪失感もまだやってこない。

確実に元に戻ったのは私の過食症と抜毛癖、爪噛み。
ファミマのスイーツ30円引きレシートが大活躍。久々に頭に10円玉大のハゲ出現。爪と周りの皮を噛むので出血。ばんそうこうが手放せない。

何なんだろうなあ…

火葬場が第1日曜は休みということで、土曜に亡くなった祖母の通夜と告別式は日曜・月曜で執り行うことになり、土曜は自分の部屋に安置して、日曜に告別式の会場に向かうこととなった。

土曜の晩はかなりまとまった雨が降った。
涙雨というような量ではなく、雷も鳴っていた。
家族葬とはいえ、足元が悪くなると足が悪いいとこや叔母が大変だなぁ…と思いながらうとうとしていた。

起きてみると快晴だった。
空の上では、50年以上前に逝った夫(私の祖父にあたる)や親戚、息子である叔父たちが待っていることだろう。晴れた空の下、あちらの世界へ無事に旅立てることを祈った。
祖母の手を握ることも頬に触れることも、斎場で納棺されて蓋を閉めてしまうとできなくなってしまう。祖母の部屋に行き、手を握り、頬に触れる。今にも起きて来そうな穏やかな顔をしているが、その冷たさはやはり生きている人間の体温ではなかった。

斎場で夕方死装束の準備をし、あちらに一緒に持って行ってもらうものを納めていった。妹や従姉妹の結婚式に着ていたワンピース。洋裁をやっていた叔父が特別に作った着脱が楽なパジャマ。冬になると家の中でもかぶっていた毛糸の帽子。愛用していたお灸のセット。それぞれが書いた手紙、そしてお花。顔の周りにたくさんの花を入れたので、少し祖母の顔が華やいだように感じた。
そして棺の蓋を閉める。もう、フィルム越しにしか顔を見ることができなくなってしまった。

みんな悲しくて寂しいはずなのに、どちらかというと祖母のすごさを讃える話をしていた時間が多かった。
88歳になるまで市営の農園を借りて野菜を作っていたこと。
90歳になっても柿の木に登って柿をとっていたこと。
腸に穴が開き、腹膜炎を起こしかけていたが、高齢なので手術はできないと言われたことがあった。細胞の再生を待つしかないと言われ、結局その通り自力で治してしまったこと。
97歳まで椅子に座ってでも料理を作っていたこと。その年にやっと介護認定を受けたこと。
白寿のお祝いで、特別食(お年寄りが食べやすいようやわらかくしたもの)ではなくみんなと全く同じお膳を平らげたこと。とろみをつけない普通のお茶を飲み、誤嚥しなかったこと。
オムツカバーにパッドを入れてもらっていたが、最後まで自力でポータブルトイレに行こうとしてベッドから落ち、青タンができていたこと…
もはや「武勇伝」の領域。祖母は文字通り「grand mother」だったのだ。

寺山修司さんに「(ぼくは)不完全な死体として生まれ 何十年かゝって完全な死体となるのである」という詩があった。
祖母は一世紀以上の時間をかけて「完全な死体」になった。その日がいつかは来る。それはわかっていたが、やはり涙が止まらなかった。

告別式には農園で一緒に作物を作った方たちが参列して下さった。お寺さんからは人に優しく、慕われた祖母の一生を表すのにこれ以上のものはないだろうというくらいのいい戒名をつけていただいた。

火葬場へ向かう際、霊柩車まで祖母の棺を運ぶのを手伝わせていただけた。男性でないといけないというわけではないと聞いてホッとした。
おばあちゃん、空への旅立ちやで…

最後にお骨拾い。
夫を亡くした後、末っ子を高校に通わせるために土方仕事までしていた祖母の足の骨はあまり残っていなかった。
でもきれいな背骨と上顎、頭蓋骨があった。
そして見本のような、標本にできそうなくらいきれいな喉仏と指仏3本が残っていた。あまりの喉仏のきれいさにみんな感心し、初めて見る指仏にも驚いた。確かに、仏様が立っているように見えた。
そうして大事な骨のみ骨壺に入れていただいたので、
蓋を閉める時も無理に押さえたりすることなく連れて帰ることができた。

悲しみや寂しさはこれから出てくるのだろう。
大きな喪失感がやって来るのもこれからだろう。

とにかく、祖母を無事に見送ることができた。
火葬場から叔父宅へ向かう道のあちこちに、ほぼ満開の桜の木があった。

おばあちゃん、見えた?人生の花道やな…