闘う政治家 安倍晋三 | 独立直観 BJ24649のブログ

独立直観 BJ24649のブログ

流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

大きな、

大きな大きな、

喪失感に包まれている。

胸にぽっかりと大きな穴が空いたような。

ただただ、悲しい。

 

 

「安倍晋三元首相死亡 奈良県で演説中に銃で撃たれる」 NHKニュースウェブ2022年7月8日

 

 

「演説中に銃で撃たれた安倍晋三元総理大臣は、治療を受けていた奈良県橿原市内の病院で亡くなりました。67歳でした。

 

安倍晋三元総理大臣は東京都出身で、祖父は日米安全保障条約を改定した岸信介元総理大臣、父は自民党幹事長や外務大臣を歴任した安倍晋太郎氏という政治家一家に育ちました。

成蹊大学を卒業後、アメリカ留学を経て鉄鋼メーカーの神戸製鋼所に入社し、その後、父、晋太郎氏の外務大臣就任を機に、大臣秘書官となります。

晋太郎氏の死去を受けて、地盤を引き継ぎ、平成5年の衆議院選挙に旧山口1区から立候補して初当選しました。

総理・総裁の登竜門とも言われる党の青年局長や、社会保障を担当する党の社会部会長などを歴任し、第2次森内閣と小泉内閣で官房副長官を務めました。

北朝鮮による拉致問題に早くから取り組んでいた安倍氏は、小泉総理大臣とともに北朝鮮を訪れ、キム・ジョンイル(金正日)総書記との首脳会談に立ち会いました。

そして、平成15年には閣僚や党の執行部ポストを経験しないまま、小泉総理大臣から49歳の若さで党の幹事長に抜てきされ、平成17年の第3次小泉内閣では官房長官として初入閣します。

長期政権を築いた小泉総理大臣の後継を選ぶ平成18年の自民党総裁選挙に立候補して、初めての挑戦で総裁に選出され、戦後最年少の52歳で総理大臣に就任しました。

在任中は、小泉氏の靖国神社参拝問題で関係が冷え込んでいた中国や韓国を訪問して、関係改善に努力する一方、「戦後体制からの脱却」を掲げて改正教育基本法や憲法改正の手続きを定める国民投票法などを成立させました。

しかし、公的年金の加入記録のずさんな管理が明らかになったほか、閣僚の辞任が相次ぎ、平成19年の参議院選挙で大敗して、いわゆる「ねじれ国会」を招きました。

そして、みずからの健康状態の悪化もあって、就任からおよそ1年で退陣しました。

退陣後は、超党派の保守系の国会議員による政策グループ「創生日本」の会長として、拉致問題の解決などに取り組んでいましたが、自民党が野党時代の平成24年に再び総裁選挙に立候補します。

決選投票で総裁に選出され、その後の衆議院選挙で政権を奪還して、総理大臣の座に返り咲きました。

第2次政権では、デフレからの脱却に向けて、「経済再生」を最優先に掲げ、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の「三本の矢」による「アベノミクス」を推進し、経済の活性化に取り組みました。

また、消費税をめぐっては、平成26年に税率を5%から8%に引き上げたのに続き、令和元年には、食料品などの税率を8%に据え置く軽減税率を初めて導入したうえで、10%に引き上げました。

また、上皇さまから天皇陛下への皇位継承にあたっては、一代かぎりの退位を可能とする特例法の整備やそれに伴う改元にも取り組みました。

総理大臣就任の翌年には、東京オリンピック・パラリンピックの招致の先頭に立ち、東京開催を勝ち取りました。

外交面では、「地球儀を俯瞰する外交」を掲げ、在任中に延べ176の国と地域を訪問し、平成28年にはG7伊勢志摩サミット、令和元年には日本で初めてのG20大阪サミットを開催しました。

伊勢志摩サミットの終了後には、現職の大統領として初めて、当時のアメリカのオバマ大統領の被爆地・広島への訪問を実現させる一方、安倍氏自身も、現職の総理大臣として初めてハワイの真珠湾を訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊しました。

オバマ氏の後任のトランプ氏とは、大統領就任前に各国の首脳の中でいち早く会談して個人的な信頼関係を構築し、電話での会談を含めると、首脳会談は50回を数えました。

また、経済外交では、TPP=環太平洋パートナーシップ協定の交渉を進め、アメリカが離脱したものの、11か国が参加する形での発効にこぎつけました。

さらに、安全保障分野では、従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を限定的に容認する閣議決定をしたうえで、安全保障関連法を成立させ、戦後日本の安全保障政策を大きく転換しました。

また、憲法改正の実現を目指して具体的な改正項目の取りまとめを指示し、安倍政権のもとで自民党は自衛隊の明記など4項目の改正案をまとめました。

この間、安倍総理大臣は、衆・参合わせて6回の国政選挙で勝利したほか、平成30年の自民党総裁選挙では党則の改正で可能となった3選を果たすなど、「安倍1強」とも言われる政治情勢が続きました。

一方、森友学園をめぐる財務省の決裁文書の改ざん問題や加計学園の問題、それに「桜を見る会」の対応などについて国会で野党から追及が続き、自民党内からも「長期政権によるおごりやゆがみの象徴だ」との指摘も出ていました。

そして、令和2年には、新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大し、特別措置法に基づく「緊急事態宣言」を初めて発出するなど対応にあたりましたが、持病の潰瘍性大腸炎が再発し、8月に総理大臣を辞任しました。

総理大臣としての連続の在任期間は7年8か月、第1次政権と合わせた通算の在任期間は8年8か月に達し、いずれも歴代最長です。

安倍氏は、総理大臣退任後、しばらく無派閥で活動していましたが、去年秋に9年ぶりに出身派閥に復帰して、党内最大派閥の「安倍派」の会長に就任し外交・安全保障政策や積極財政の必要性などについて活発に発言していました。

安倍氏は、8日午前11時半ごろ、奈良市内で演説中に銃で撃たれ、橿原市内の病院に運ばれ治療を受けていましたが、亡くなりました。

67歳でした。

安倍氏の経済・財政対策

安倍元総理大臣は、2012年12月に発足した第2次安倍政権で「アベノミクス」と呼ばれる一連の経済政策を打ち出し、デフレからの脱却と持続的な経済成長を目指しました。

政策の柱は、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「成長戦略」の3つで、これらの政策は3本の矢とも言われました。

金融政策では、2013年1月に政府と日銀が異例の共同声明を発表し、日銀が「2年程度で2%の物価上昇率を達成する」という明確な目標を掲げました。

そして日銀は、黒田総裁のもとで、2013年4月から「異次元」と称する大規模な金融緩和に踏み切りました。

これに金融市場は反応し、2011年に1ドル=75円台の最高値を記録した超がつくほどの円高は、急速に円安方向に動き始めます。

2015年には、1ドル=125円台まで円安が進みました。

株式市場も急速に回復し、政権発足前日の2012年12月25日に1万80円12銭だった日経平均株価は、2018年10月2日には2万4270円62銭となり、当時としておよそ27年ぶりの高値をつけました。

企業業績も回復し、これに伴って有効求人倍率は、2018年8月にはおよそ45年ぶりの高い水準まで改善しました。

一方で、政権発足直後の2013年度は、GDP=国内総生産の伸び率が2.7%に高まったものの、ほとんどの年度で伸び率は0%台から1%台にとどまり、「景気回復の実感が乏しい」という指摘も出ていました。

また、目標に掲げた2%の物価上昇率も達成できませんでした。

安倍氏は、在任中、2度にわたって消費税率を引き上げました。

高齢化が進み、増え続ける社会保障費などを税収だけでは賄えず、第2次安倍政権で、社会保障費の財源を確保し、財政の健全化も進めるため、2014年4月に消費税率を5%から8%に引き上げました。

増税後に個人消費が落ち込んだことなどから、税率の10%への引き上げは2度、延期しましたが、2019年10月には10%に引き上げ、食料品などの税率を8%のままで据え置く軽減税率を導入しました。

増税による税収は、幼児教育や保育の無償化の財源に充てることにして、社会保障制度を全世代型に転換することを目指しました。

通商政策では、自由貿易の推進を成長戦略の柱に掲げ、TPP=環太平洋パートナーシップ協定や日本とEU=ヨーロッパ連合のEPA=経済連携協定など、大型の貿易協定の発効につなげました。

安倍元首相と東京オリンピック・パラリンピックとスポーツ界

安倍元総理大臣は、去年、57年ぶりに東京で開催された東京オリンピック・パラリンピックに招致の段階から先頭に立って関わるなどスポーツ界にも大きな功績を残しました。

2013年9月にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC=国際オリンピック委員会の総会で当時の安倍総理大臣は最終プレゼンテーションに立ち、東京電力福島第一原発の汚染水の問題について、「コントロールされている」と説明しました。

そして、東京は財政基盤が安定していて世界で最も安全な都市であることをアピールし、1964年以来となる、東京オリンピックの開催が決まりました。

2016年のリオデジャネイロオリンピックの閉会式ではゲームキャラクターの「マリオ」の姿で登場し、東京大会のPRに貢献しました。

新型コロナウイルスの感染が世界で拡大する中で迎えたオリンピックイヤーの2020年3月には、安倍元総理大臣はIOCのバッハ会長と電話会談し大会の1年程度の延期を提案しました。

これによって、東京オリンピック・パラリンピックは史上初めて延期されることが決まりました。

すでにギリシャから日本に聖火が運ばれ、聖火リレーがスタートする直前でした。

その年の9月に総理大臣を退任したあとにはオリンピックの普及や発展に貢献したとして、IOCから「オリンピック・オーダー」と呼ばれる功労章の金章が贈られ、その後も大会組織委員会の名誉最高顧問を務めて、東京オリンピック・パラリンピックの開催に尽力しました。

また、大学時代にアーチェリー部に所属していたこともあり、長年にわたって全日本アーチェリー連盟の会長を務めていました。」

 

 

 

「安倍元首相 銃で撃たれ死亡 各界から悼む声」 NHKニウェブウェブ2022年7月8日

 

 

奈良市で演説をしていた安倍元総理大臣が銃で撃たれ死亡したことを受けて、各界から悼む声が上がっています。

拉致被害者家族は

北朝鮮による拉致問題に早くから取り組んでいた安倍元総理大臣が亡くなったことについて拉致被害者、有本恵子さんの父親の明弘さん(94)は「受けた傷が大きかったんだと思う。とても残念です。安倍さんのところに行って会うのが楽しみでした」と話しました。そのうえで「安倍さんは拉致問題に精いっぱい取り組んでくれた。あとに残った人は安倍さんの思いを継いでやってほしい」と話していました。

横田早紀江さん「非常に悲しく打ちのめされている」

また、横田めぐみさんの母親の早紀江さん(86)は取材に対し「あまりにも恐ろしいことが起き、非常に悲しく打ちのめされています。安倍さんは拉致問題を解決したいと長い間言い続け、アメリカをはじめとする各国に対しても協力を得ようと頑張ってくださった。亡くなられたのは残念でなりません」と話しました。
めぐみさんの弟の拓也さんは「本当に残念で悲しくて言葉にならない。私たちの親の世代が苦しんでいた時から手を差し伸べ、国際社会に働きかけてくれたおかげでアメリカの協力も得て私たちの要求を北朝鮮に伝えることができた。心から感謝しており、お悔やみを申し上げたい」と話していました。

横田拓也さん「安倍さんのためにも必ず解決させる」

安倍元総理大臣が亡くなったことを受けて、拉致被害者の家族会代表で、横田めぐみさんの弟の拓也さんが取材に応じ、「率直に言って、ことばにならない。国益や主権、人権を重んじ、とりわけ拉致問題の解決のためにいつも私たちに寄り添い、耳を傾けてくれた。また、お会いするときはいつも父や母のことを親身になって気遣ってくれ、身内のような人であり、悲しく、悔しく、残念だ。拉致問題が広く認知されていない時から奔走してくれた恩人で、世界に広めてくれた貢献者だと思っている」と話しました。
そのうえで、「これまでの歩みを止めるわけにはいかない。安倍さんのためにも、拉致問題を必ず解決させるという強い気持ちを持ってこれからも活動を続けていく覚悟だ」と話していました。

地村保志さん 富貴恵さん「大変悲しく残念でならない」

拉致被害者の地村保志さんと妻の富貴恵さんは8日夜、福井県小浜市を通じてコメントを出しました。夫妻は「突然の訃報にただただ驚き信じられない思いです」と述べたうえで「われわれ5人の拉致被害者や子どもたちの帰国に多大なご尽力をいただきました」とつづりました。

また拉致問題への取り組みについて「政権の最重要課題として、全面解決に向け、全力で取り組んでいただき、ことしの4月にお会いした際にも、問題の解決に向け全力を尽くすとの言葉をいただいたばかりでした」と振り返りました。そして最後に「このような形でお別れすることが大変悲しく、残念でなりません。今はただご冥福をお祈りするばかりです」とつづっています。

曽我ひとみさん「全身全霊で取り組んだ姿 絶対に忘れない」

安倍元総理大臣が亡くなったことについて、拉致被害者の曽我ひとみさんが地元の新潟県佐渡市を通じてコメントを発表しました。
曽我さんは、「あまりにも突然の訃報に際し、自分自身、何をどうすればいいのかわかりません。20年以上もの長い間、拉致問題解決のために全身全霊で取り組んでくださった姿は絶対に忘れることはできません。何かと気にかけてくださり、大変やさしくしてくださったこと、家族全員忘れることはありません。長い間お疲れさまでした。ありがとうございました」などとコメントしています。

市川健一さん「残念で悔しい」

鹿児島県の拉致被害者、市川修一さんの兄の市川健一さん(77)はNHKの取材に対し「安倍さんは25年前に被害者の家族会が結成される前から拉致問題に関わっており家族は慕っていました。これまでに会った総理大臣で最も印象に残っています。回復してほしいと祈っていましたが、残念で悔しくてなりません」と話していました。

松本孟さん「残念としか言いようがない」

鳥取県の拉致被害者、松本京子さんの兄の孟さんはNHKの取材に対し「なんとか一命をとりとめてほしかった。本当に残念としか言いようがない。拉致問題がここまで大きく国民に伝わったのは安倍さんの力もあったので、その火を消さないように頑張らないといけない。安らかに眠ってほしい」と話していました。

日銀 黒田総裁「強力なリーダーシップ 経済発展に尽くされた」

日銀の黒田総裁は「ご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。誠に残念でなりません。安倍元総理は様々な分野で大変に大きな功績をあげられました。経済の分野においては長期間続いたデフレからの脱却と持続的な経済成長の実現に向けて、多大な成果を残されました。強力なリーダーシップにより、わが国経済の発展に尽くされたことに心より敬意を表します。重ねてご冥福をお祈り申し上げます」とするコメントを出しました。

経団連 十倉会長「政治に対する暴力 断じて許されない」

経団連の十倉会長はコメントを発表し「突然のことで大変驚き、衝撃を受けている。このような政治に対する暴力は、断じて許されることではない」としています。

また、安倍元総理大臣の政権運営を振り返り「内政では『アベノミクス』を推進し、力強い日本経済の復活を成し遂げ、また外交面では『地球儀を俯瞰する外交』で国際社会における日本のプレゼンスの向上に貢献した。さらに安全保障に関しても関連法制を整備し、厳しい国際情勢への対応に万全を期すなど、極めて大きな功績を残した」と評価しました。そのうえで「在任期間最長の総理大臣として、わが国の憲政史上、最も傑出した総理大臣の1人だった。今はただ心よりご冥福をお祈り申し上げます」と悼みました。

日本商工会議所 三村会頭「深い憤りと悲しみを禁じ得ない」

日本商工会議所の三村会頭はコメントを発表し「このような蛮行はいかなる場合も決して許されるものではない。国家のために尽くした尊い命が奪われたことに、深い憤りと悲しみを禁じ得ない」としています。

そのうえで安倍元総理大臣の政治的な評価については「第2次安倍内閣では20年にわたるデフレで苦しんできたわが国の閉塞感を打開すべく果敢に挑み、経済再生の道に大きな突破口を開き、外交面においては強いリーダーシップで国益のために力を尽くし、世界におけるわが国のプレゼンスを大いに高めた」と振り返りました。さらに「連続在任日数は憲政史上最長となり、まさに一国のリーダーにふさわしい偉大な功績を残された存在感のある政治家であったと思う。生前の功績をたたえ、謹んでご冥福をお祈りいたします」として故人を悼みました。

経済同友会 櫻田代表幹事「傑出したリーダーだった」

経済同友会の櫻田代表幹事は長野県軽井沢町で記者団に対して「怒りしかない。民主主義において大事な選挙のさなかにこうしたことが行われたことを重く受け止めるべきだ。安倍元総理大臣は、G7=主要7か国の中で影響力のあるリーダーの1人だったと思う。経済、外交を含めて傑出したリーダーだった」と述べました。

経団連 御手洗元会長「痛恨の極みで激しい憤り」

経団連の元会長で大手精密機器メーカー「キヤノン」の御手洗冨士夫会長兼社長は、「理不尽な凶行に倒れられたことは誠に痛恨の極みであり、激しい憤りを禁じ得ません。憲政史上最長となる盤石な政権を築き、後世に残る多大な功績を残されました。総理大臣の退任後も精力的に政治活動を続けていたやさきに、志半ばで凶弾に倒れた無念の思いを察すると、まさに断腸の思いです」というコメントを出しました。

日本生産性本部 茂木会長「日本経済の活性化に尽力」

日本生産性本部の会長を務めるキッコーマンの茂木友三郎名誉会長はコメントを発表し「安倍元総理大臣とは、1990年代からの長いお付き合いでしたが、まじめでお人柄がよい上に仕事ができる立派な政治家でした。2度目の総理大臣在任中のアベノミクスでは、長く低迷していた日本経済の活性化に尽力されました」としています。その上で「これからも政界のご意見番として、存在感を示されるものと期待しておりました。たいへん残念です。日本でこのようなことが二度と起こらないよう、強く願います」としています。

日本自動車工業会 豊田会長「無念 心中察するにあまりある」

日本自動車工業会の豊田章男会長はコメントを発表し「驚きと悲しみを深くしている。このような大変残忍で卑劣な行為は決してあってはならないことであり、強い憤りを感じるとともに、断じて許すことはできない。世界平和と日本の未来を誰よりも案じ、全身全霊で尽力されておられた元総理の無念は心中察するにあまりある」としています。また安倍元総理大臣の政権運営を振り返り「憲政史上最長の安定政権を土台に、卓越した外交や安全保障に足跡を残されるとともに、アベノミクスを掲げた強いリーダーシップにより、リーマンショックや東日本大震災から力強い回復を先導された」と評価しました。そのうえで「生前の多大なるご功績に深く感謝を申し上げるとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げる」としています。

富士フイルムHD 古森元会長「卓越したリーダーだった」

長年親交のあった富士フイルムホールディングスの古森重隆元会長はコメントを発表し「突然の訃報に接し、ただただ残念であり、がく然としています」としています。この中で古森氏は安倍元総理大臣の政権運営について「大局観を持って日本の課題を捉えつつ、常に的確に対処され、日本国を正しい方向へと導いてこられた卓越したリーダーでした」と振り返りました。そのうえで「何事にも全く私心無く、常に自然体で人と接し、力強さと優しさを兼ね備えられた方でした。安倍元総理大臣と、公私にわたって親交を重ねさせていただきましたことに深く感謝するとともに、生前の偉大なる功績をしのびつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます」と悼みました。

経済同友会 小林元代表幹事「功績に心から敬意」

安倍政権のもとで政府の経済財政諮問会議の民間議員や産業競争力会議の有識者議員を歴任した経済同友会の元代表幹事で東京電力ホールディングスの小林喜光会長は「突然の訃報に接し、大変驚いています。安倍元総理大臣は長きにわたって国民のために多くの政策課題に取り組んでこられました。改めてその功績に心から敬意をあらわし、哀悼の意を表します」とするコメントを発表しました。

日本証券業協会 森田会長「大きな功績残された」

安倍元総理大臣が亡くなったことについて、野村証券の前の社長で日本証券業協会の森田敏夫会長は、「謹んで哀悼の意を表します。長引く円高、デフレ不況からの脱却、そして日本経済の再生を最大の目標に掲げ、大胆な金融緩和などを柱とした「アベノミクス」を推進し、わが国経済の安定的な成長に取り組まれ、大きな功績を残されました」とするコメントを出しました。

住友林業 市川会長「許せない 言語道断だ」

安倍内閣のもとで第32次となる政府の地方制度調査会で会長をつとめた住友林業の市川晃会長はNHKの取材に対して「民主主義国家である日本で、民主主義で一番大事な選挙のさなかにこういうことが起きるとは許せない。言語道断だ」と述べました。

西武HD 後藤社長「悲しみと激しい憤り覚える」

中学と高校の同窓生として親交があった西武ホールディングスの後藤高志社長は「憲政史上最長の期間にわたって確固たる信念と強力なリーダーシップで日本を引っ張ってこられた。日本のリーダーとして多大なる貢献をされ、退任後も日本の将来を常に考えておられたなかでさぞかし無念であったろうと尽きることのない悲しみと激しい憤りを覚えます。安倍元総理のご冥福を心よりお祈りいたします」とコメントしています。

河野前統合幕僚長「日本にとっての大きな柱を失った」

安倍政権下で4年5か月にわたって自衛隊トップを務めた河野克俊前統合幕僚長はNHKの取材に対し「驚くと同時にとても落胆している。自衛隊、安全保障に関心を持ち、強いリーダーシップを発揮した方で、統合幕僚長として務められたのは光栄だった。集団的自衛権の行使を限定的に容認する安全保障関連法についても、内閣支持率が下がるのを承知の上で決断していて、そばで見ていて、日本のために必要だという固い信念があったのだと感じた。これからも活躍してほしいと思っていた方だったので、日本にとっての大きな柱を失ったと感じている。本当にお悔やみ申し上げます」と話していました。

また自衛隊幹部の1人はNHKの取材に対し「第2次政権ではそれまで年々減っていた防衛予算を増やし、厳しさを増す安全保障環境にどう対応するか、強いリーダーシップを発揮した政治家だったと思う。特に安全保障関連法の制定は政治的に大きな議論を呼んだが、日米の連携のさらなる深化やインド太平洋地域への関与の強化など、自衛隊の活動が大きく変わるきっかけになったのは間違いない。自衛隊としては引き続き法律にもとづいて、国民の平和と安全を守るための能力を高めていくことに尽きる」と話していました。

政府分科会 尾身会長「危機乗り越えようという強い意志感じた」

安倍元総理大臣が亡くなったことについて新型コロナウイルス対策にあたる政府の分科会の尾身茂会長は「新型コロナウイルスの発生当初、情報が極めて限られていた中で最初の緊急事態宣言を発出する際に安倍元総理と対策の内容について何度もお話しする機会がありました。そのたびに一国の総理大臣として、この危機をなんとか乗り越えようとする強い意志を感じていました。長い間、我が国の発展のためにご尽力をいただき感謝したい。心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントしました。

JOC 山下会長「卑劣な暴挙 断じて許せない」

JOC=日本オリンピック委員会の山下泰裕会長は「民主主義の根幹をなす選挙という時期に起きたこのような卑劣な暴挙は断じて許すことができません。安倍元総理大臣は長くスポーツ界に心を寄せ、支えていただいておりました」とコメントしたうえで、東京オリンピックの開催が決まった2013年9月にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC=国際オリンピック委員会の総会で当時の安倍総理大臣が行った最終プレゼンテーションについて「スピーチの中で1964年の東京大会の思い出に触れ『スポーツこそは世界をつなぐ、そして万人に、等しい機会を与えるものがスポーツであると私たちは学びました』とおっしゃいました。スポーツに携わる者として安倍元総理が残したこのことばを改めて受け止め、多様性を受け入れ社会をつなぎ得るスポーツの根源的な価値をこれからも社会に伝えてまいりたい」というコメントを出しました。

IOC バッハ会長「勇敢なサポーターと親愛なる友人を失った」

安倍元総理大臣が亡くなったことを受けて、IOC=国際オリンピック委員会のバッハ会長は公式ホームページで「日本は偉大な政治家を失い、IOCはオリンピックムーブメントの勇敢なサポーターと親愛なる友人を失った。国際オリンピック委員会を代表して安倍元総理のご家族、ご友人、そして日本の皆様に心からお悔やみを申し上げる」とコメントし哀悼の意を示しました。
そのうえで「安倍元総理はビジョンを持ち、そのビジョンを実現するための決意と無限のエネルギーに満ちた人だった。私が最も高く評価しているのは彼が約束を守る人だったということだ。東京オリンピックの延期という前代未聞の決断を下すことができたのは、彼のビジョンと決断力、そして頼もしさだけだ。安倍元総理がいなければ、このオリンピックは実現しなかっただろうし、世界中のアスリートたちのオリンピックの夢も実現しなかっただろう」などとしています。

後援会長「残念でならない」

下関市の事務所で取材に応じた伊藤昭男後援会長は「まだまだこれからわが国に必要な人材で期待していた。残念でならない。一報が入ったとき事務所にいたみんなが肩を落としていた。この国でこのようなことがあっていいのか。父の晋太郎さんが亡くなったのと同じ67歳で、早すぎる。初当選から思い出深いことばかりだ」と目に涙を浮かべながら話していました。

地元 下関では悲しむ声

地元の下関市では悲しむ声が聞かれました。
60代の女性は「すごくショックです。地元で人気のある方だったのでとても憤りを感じます。とても気さくな方で何回かお会いすることもあって信じられない気持ちです。日本じゃないのかな、海外の話なのかなと思いました」と話していました。

また20代の男性は「悲しい出来事だと思います。長く日本を引っ張ってきた総理大臣で、日本のリーダーという方だったので、非常に悲しい気持ちです。ものすごく怖いなと感じます」と話していました。

震災の被災地でも悼む声

安倍元総理大臣が在任中、東日本大震災の被災地の視察で訪れた宮城県気仙沼市でも悼む声が聞かれました。

震災の発生から2年後の2013年に安倍元総理大臣が気仙沼市を訪れた際に案内をした気仙沼漁業協同組合の佐藤亮輔元組合長(81)は「ゆっくり話をする時間はありませんでしたが、被災地・気仙沼の現状について耳を傾けてくれました。大きな影響力を持った方だったので亡くなったと聞いてとても残念に思います」と話していました。

東日本大震災と原発事故のあと、安倍元総理大臣の視察のたびに復興状況を説明し要望を重ねてきた福島県飯舘村の菅野典雄元村長は「昼からずっとテレビを見ていて、なんとか助かってほしいと思っていましたが、亡くなったという話を聞き本当に残念でなりません。心から哀悼の意を表します。『福島の復興なくして日本の復興はない』という思いをもって村にも足を運んでいただいたことに感謝していたので、残念です」と語りました。そして、平成29年7月に村のうどん屋を訪れた時のことを振り返り、「店主から『昼は客がいるので困る』という話があったため、わざわざ時間をずらして立ち食いでうどんを食べていったことがありました。とても心配りのある方で、リーダーとしての強さとともに温かさがあった人でした」と話していました。」

 

 

 

 憲政史上最長の在職日数(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63896240W0A910C2MM0000/)。

 経済、外交。

 国際社会で存在感を失っていった我が国を立て直した。

 偉大な宰相。

 その安倍総理が、凶弾に斃れた。

 卑劣な蛮行。

 筆舌に尽くしがたい。

 

 

 

 享年67歳。

 奇しくも、父・安倍晋太郎と同じであった。

 安倍総理は、死生観について、こう語る。

 

 

 

安倍晋三 「軌跡 安倍晋三語録」 (海竜社、2013年) 9~12頁

 

「吉田松陰の言葉

ーーー2005年

 私が死生観の根本に置いているのは、郷土、長州の幕末の思想家、吉田松陰先生の『留魂録』の一節です。

 留魂録は、安政の大獄で刑死する松陰先生が処刑される前に、江戸小伝馬上(こでんまかみ)町の牢で弟子たちに遺した言葉を集めたものです。

 その中に「四時の順環」という一節があります。

 三十歳の若さで生を終わることが惜しくないのかと尋ねられた松陰は、そんなことはない、なぜなら「今日詩を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり」、つまり「私が平静な気持ちで死を迎えることができるのは、春夏秋冬の四季の順環を考えているからだ」と答えています。

 続けて、「十歳で死ぬ者にはその十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。十歳だから短く、百歳だから長いとは言えない」。

 そして松陰自身については、「義卿(ぎけい)三十、四時既に備わる」、つまり、「自分はすでに三十年にして四季を生きた」と言っています。そして「同志諸君が私の志を継いでくれるなら、それは蒔いた種が立派に育つことを意味している」と述べている。松下村塾を通して、高杉晋作や伊藤博文を育てたことを指しているのでしょう。

 

 私の父・安倍晋太郎は総理を目前に六十七歳で病気で亡くなり、「若すぎた」とさかんに惜しまれました。私は父を偲ぶ会でこの吉田松陰先生の言葉を紹介しました。六十七歳であれば、父も春夏秋冬、四季に富んだ人生だったのではないかと思います。

 政治家には国民の生命と財産を守る義務がある。そして国民から一票の信託を受けて国政に携わっている。その責任は非常に重いものがあります。

 ここ一番というときには、厳しい決断や判断をしなければなりません。そして政治家である以上、極めてまれではありますが、命懸けの判断を迫られることがある。そのときにたじろがずに、自分の命を懸ける覚悟は常に持っていなければならないと思います。

 もの心ついた頃、六〇年安保で町では「岸をタオセ! 岸をコロセ!」と私の祖父・岸信介総理の名前が叫ばれていたのを覚えています。実際に祖父は、安保条約改定直後に刺され、幸い急所を外れたものの、大怪我を負いました。

 ところが祖父が入院していた慶應病院に見舞いに行くと、悠々としていました。私と一緒にベランダの鳩にえさをやったりして遊んでくれました。とてもテロに遭った後のような厳しさはなかったです。

 父・安倍晋太郎は病を得てから、無理を押して当時のソ連を訪問しました。また亡くなる前年(一九九〇年)の二月に総選挙があり、手術直後の体で全国を遊説しました。

 家族は反対しましたが、「自分は政治に命を懸けており、応援を待っている若い候補たちのために命を削る覚悟で行かなければならない」というのが父の強い意志でした。結果として自分の派閥の新人議員を二十二人当選させました。

 

 そういう姿を見て育った私は、政治家が命懸けになる姿に間近に接する機会に恵まれていました。私自身は、初めての選挙のときは、父の無念な気持ちを抱きつつ、命懸けで戦いましたし、北朝鮮拉致問題では、かなり嫌がらせも受けました。家族は怖がっていましたが、政治家の仕事はこういうものだと言い聞かせました。

 松陰先生が「四時の順環」の言葉を遺したのが三十歳のとき。私はすでにそれより二十年以上長く生きています。

 まだまだ松陰先生の足元にも及ばないことしか成していませんが、本当に国のために命を賭すときに立ち会えるよう、与えられた生命を精一杯生きていきたいと思っています。

『文藝春秋』二〇〇五年一月号」

 

 

 

 

 

 闘う政治家。

 最期の最期まで、安倍総理は闘う政治家だった。

 

 

 

安倍晋三 「美しい国へ」 (文藝春秋、2006年) 3~5頁

 

「はじめに ー「闘う政治家」「闘わない政治家」

 

 わたしは政治家として十四年目を迎える。この間、素晴らしい仲間にめぐり合ったし、尊敬する先輩の指導を受けることもできた。
 政治家の中には、あまり政策に興味を抱かない人がいる一方、特定の政策については細部までつき詰める人たちもいる。政局になると力を発揮する人もいるし、そうしたことには一切興味を示さない人たちもいる。かつて自民党に「官僚派」と「党人派」という区分けがあったが、現在は「政局派」と「政策派」という分け方ができるかもしれない。その意味では、若手議員のほとんどは、かつてと比べて政策中心にものを考える傾向が強くなっているのではないだろうか。
 時代は変わったが、わたしは政治家を見るとき、こんな見方をしている。それは「闘う政治家」と「闘わない政治家」である。
 「闘う政治家」とは、ここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れずに行動する政治家のことである。「闘わない政治家」とは、「あなたのいうことは正しい」と同調はするものの、けっして批判の矢面に立とうとしない政治家だ。
 わたしが拉致問題について声をあげたとき、「右翼反動」というレッテルが貼られるのを恐れてか、運動に参加したのは、ほんの僅かな議員たちだけであった。事実、その後、わたしたちはマスコミの中傷の渦のなかに身をおかざるをえなかった。「応援しているよ」という議員はたくさんいたが、いっしょに行動する議員は少なかった。「闘う政治家」の数が少ないのは、残念ながら、いつの時代も同じだ。
 一九三九年、ヒトラーとの宥和を進めるチェンバレン首相に対し、野党を代表して質問に立ったアーサー・グリーンウッド議員は、首相の答弁にたじろぐことがあった。このとき、与党の保守党席から「アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)」と声が飛んだ。グリーンウッドは、その声に勇気づけられて、対独開戦を政府に迫る歴史的な演説を行ったという。
 初当選して以来、わたしは、つねに「闘う政治家」でありたいと願っている。それは闇雲に闘うことではない。「スピーク・フォー・ジャパン」という国民の声に耳を澄ますことなのである。」

 

 

 

 

 

 

 安倍総理は67年の四季の順環を得た。

 この年で命を落としたことは惜しくないのか。

 

 戦後レジームからの脱却。

 日本を取り戻す。

 

 憲法改正。

 旧宮家の皇籍復帰。

 拉致被害者、北方領土の返還。

 

 道半ばにすら達していなかったのではないだろうか。

 惜しかったのではないだろうか。

 遺された者たちで、安倍総理の志を引き継ぐほかない。

 生前、安倍総理は、マスメディアに散々叩かれ、その真意が国民によく伝わっていなかったと思う。

 今一度、安倍総理の志が、一人でも多くの国民に伝わってほしく思う。

 

 

 

 哀悼を捧げます。

 ありがとうございました。

 お疲れ様でした。

 

 

 

 

 安倍総理の手は、温かかった。

 そのことが、印象に残っています。