【広島】「過ち」の主語【オバマ・安倍演説】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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 本日は、71年前にアメリカによって広島に原子爆弾が投下された日だ。

 

 5月27日、アメリカのバラク・オバマ大統領は広島市を訪問した。現職の大統領として初めての被爆地訪問だ。

 そして、平和記念公園で「核兵器のない世界」を追求するという演説を行った。

 安倍晋三内閣総理大臣も演説を行った。

 

 この演説の評価だが、日米の絆を強める意味があったという点では、大方一致していると言ってよいだろう。

 他方で、「核兵器のない世界」なんて口先だけだ、現にオバマは「核のフットボール」を携行していた、オバマは原爆投下を謝罪しなかった、という批判的な見方もある。

 私としては、オバマ・安倍演説には結構衝撃を受けるところがあった。

 しかし、私の勝手な思い込みかもしれない。

 論壇誌の論評を待った。 

 

 ところが、「Hanada」「正論」「WiLL」の8月号を見たが、この演説の扱いが思いのほか小さい。

 「Hanada」にはこの演説に関する論考が見当たらない。

 「正論」「WiLL」には論考があるのだが、両方とも渡部昇一氏のものだ。当然、内容も似通っている。

 オバマ・安倍広島演説は、たったこれだけの取り扱いで済ましてよい些細な出来事だったのだろうか。

 私には国民的関心事だったように思えるのだが。

 

 渡部氏の論考を読んだが、私が気になっていた部分には触れられていなかった。

 渡部氏が触れないということは、私の思い込みだったのだろう。

 しかし、今回はあえて私の感想を書こうと思う。

 

 オバマ大統領と安倍総理大臣が演説を行った平和記念公園には、戦後レジームを語る上で重要な物がある。

 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれた原爆死没者慰霊碑だ。

 

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111632890024/index.html

 

 「過ち」の主語は何か。

 日本人なのだろうか。

 アメリカ様に楯突くという「過ち」を犯したから、日本人は原爆投下という懲罰を受けてしまったのか。

 むしろ、民間人大量虐殺という人道に悖る行為をしたアメリカにこそ「過ち」があるのではないか。

 戦後レジームからの脱却に関心を持つ人ならば、こういう議論に1度は接したことがあるだろう。

 自虐史観・東京裁判史観の象徴のような石碑だ。

 

 

竹田恒泰 「アメリカの戦争責任 戦後最大のタブーに挑む」 (PHP研究所、2015年) 32~38ページ

 

「 「イスラム国」を非難したオバマ大統領への違和感

 

 平成二十七年(二〇一五)二月三日、イスラム過激組織「イスラム国(IS)」(自称)が、捕虜として捕らえられていたヨルダン軍パイロットのモアズ・カサスベ中尉を生きたまま焼き殺す動画を公表し、世界を震撼させた。

(中略)

 この蛮行に対し、世界中から非難の声が上がった。「イスラム国とその憎むべき思想を歴史の彼方に葬り去る」との声明を発したのは、アメリカのオバマ大統領だった。

 しかし、この映像を見た私は、ISのあまりに非人道的な行為に戦慄を覚えたが、間もなく発せられたオバマ大統領の声明にもえも言われぬ違和感を覚えた。なぜなら先の大戦で広島と長崎に原子爆弾を投下して三〇万人以上の民間人を焼き殺し、東京をはじめ、日本中の都市に空爆を敢行し、東京だけで一〇万人以上の民間人を殺めたアメリカに、ISを避難する資格があるかと疑問に思ったからだ。しかも、アメリカは大戦後も、ベトナム戦争で枯れ葉剤を撒き、イラク戦争で容赦なく劣化ウラン弾を使用するなど、人道上問題のある戦闘方法をとってきた。

 「人間を生きたまま焼き殺す」という点においては、ISの蛮行とアメリカの原爆投下や東京大空襲は同じである。いや、カサスベ中尉は軍人だが、アメリカが原子爆弾と焼夷弾で殺傷したのは日本の民間人だった。しかも、これまでにISは何十人もの外国人を処刑してきたが、米軍が殺害した日本の民間人は一〇〇万人と推計される。無論、平時と戦時の違いはあるが、たとえ戦時であろうとも、国際法は民間人の殺傷を禁止している。

 だからといって、ISの蛮行を擁護するつもりは毛頭ない。とはいえ、大空襲と原子爆弾で多くの日本人が命を落としたことにつき、アメリカ側に責はまったくないのであろうか。

 ところが、原爆投下の責任については、戦後の日本では「日本が悪い」→「原爆を投下されても仕方ない」という理屈で語られることはあっても、アメリカの行為自体の合法性や、責任について公に論じられることはなかった。

 広島・長崎に投下された二つの原子爆弾は、約一四万人を即死させ、広島市は昭和四十五年(一九七〇)末までの死者を約一四万人、長崎市は昭和五十年(一九七五)までの死者を約七万人と、いずれも公式に国連に報告している。それ以降に原爆症で亡くなった犠牲者を数えたら、さらに倍以上の数に膨れ上がる。

 これだけの大人数が死亡した責任はどこにあるのだろうか。日本が悪いことをしたのが原因だから、日本の責任なのか、それとも、国際法に違反する行為だから、アメリカの責任なのか。先述のとおり、この問題を日本の報道機関が正面から取り上げたことはなく、公人がアメリカの責任について言及することもなかったが、むしろ一般人は居酒屋などで盛んに論じてきたのである。

 

 広島の慰霊碑の「過ち」とは誰の「過ち」か

 

 原爆投下のアメリカの責任については、しばしば広島平和記念公園に設置されている原爆死没者慰霊碑に刻まれた文言をめぐっての論争がある。そこには「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」と彫られている。「安らかに眠って下さい」ということから、この言葉は、原子爆弾の犠牲者の御霊に語りかける言葉であることは明白であるが、「過ち」というのが誰の過ちなのか、つまり加害者は誰であるかが必ずしも明白ではなく、これが議論の対象となることがあった。

 この慰霊碑は、昭和二十四年(一九四九)に成立した広島平和記念都市建設法の精神に則り計画されたもので、広島市が建立したものである。したがって、アメリカに代位して広島市が、アメリカの「過ち」を「繰り返さない」と誓っているとは考えにくい。であれば碑文の文脈からして、また建立の経緯からして、その「過ち」とは「日本の過ち」と読む以外にないであろう。

 つまり、日本が非道な侵略戦争を行った結果、アメリカから懲罰を受けたのが原子爆弾の投下だったのであり、広島で民間人が大勢絶命したのは、もとを正せば日本の国家指導者たちの責任という意味になろう。被害者は広島市民、加害者は日本の国家指導者という構図になる。であれば、この碑文は、日本人が日本人に謝罪していることになろうか。それにしても、広島市が建立する慰霊碑で、広島市が東条英機をはじめとする開戦時の国家指導者たちに代位して、被害者に謝罪すると考えるのも無理があるのではないか。

 一方で、実際に原子爆弾を投下したアメリカの責任は一体どうなるのか。百歩譲って日本が侵略戦争を行なってアメリカから懲罰を受ける必然性があったとしても、アメリカの責任については、しっかりと検証する必要があるはずだ。

 この碑文は、被爆者である雑賀忠義・広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもので、浜井信三・広島市長が述べた「この碑の前にぬかずく一人一人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ一つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」という考えを反映させたものとされる。

 この考えに立てば、「過ち」を犯した者は「慰霊碑にぬかずく全ての人」となり、原爆投下は人類の犯した罪ということになるだろう。慰霊碑の除幕式直前の昭和二十七年(一九五二)八月二日の広島市議会で、浜井市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破滅を意味している」と答弁していることからも明らかである。

 ところが、除幕式の四日後の八月十日、『中国新聞』に「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」「原爆を投下したのは米国であるから、過ちは繰返させませんからとすべきだ」との投書が掲載された。この投書を受けて様々な意見が提示されるようになったが、いまだに原爆投下を論じる時に、話題となる。

 原子爆弾によって殺されたのが広島と長崎の市民であることは事実であるが、殺したのは米軍であることも動かすことのできない事実である。日本の戦争責任については今後もしっかりと検証を続けなくてはならず、何が誤りであったかを自らの手によって明らかにし、謝るべきところはしっかり謝り、謝るべきでないことについては誠心誠意をもって誤解を解いていく努力を重ねていかなくてはならない。そして他方では、アメリカの戦争責任についても、そろそろアメリカ人自身がその検証を始めるべき時が来ていると思う。

 もし慰霊碑の「過ち」を「人類の過ち」とするのであれば、実際に原子爆弾を投下したアメリカがそれに同意しなければ意味をなさない。現にアメリカでは、「原爆投下は正義である」という見方が一貫して政府の公式見解になっている。であればなおさら、この慰霊碑は、アメリカ大統領がぬかずいてこそ初めて、意味をなすのではあるまいか。

 

 

 

 

 日本語では主語が省略されているが、英語ではそうはいかない。

 雑賀は「Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil.」と英訳した。

 「過ち」の主語は「We」すなわち「私たち」である。

 広島市による碑文の説明を見ると、英訳の直接的な説明ではないが、この「We」は「全世界の人々」と解することとしているようだ(http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111632890024/index.html)。

 しかし、雑賀は「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。」と述べており、「We」は日本人を指すと解される(http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu3_ayamachi.html)。

 

 この碑文は、日本人に対し、大東亜戦争について罪悪感を植えつけるという呪いだとさえ思う。

 この碑文を乗り越えることが、戦後レジームからの脱却に繋がっていくのだと私は思う。

 

 私はそういう問題意識を持っていたわけだが、オバマ大統領の演説のこの部分に興味を持った。

 

 

「Remarks by President Obama and Prime Minister Abe of Japan at Hiroshima Peace Memorial」 ホワイトハウスHP2016年5月27日

http://urx.mobi/xyba

 

「And perhaps above all, we must reimagine our connection to one another as members of one human race.  For this, too, is what makes our species unique.  We’re not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past.  We can learn.  We can choose. We can tell our children a different story –- one that describes a common humanity; one that makes war less likely and cruelty less easily accepted.」

 

 

「オバマ大統領の広島訪問 所感の全文」 NHK戦争証言アーカイブス

http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/hiroshima_obama/

 

「もしかすると、何よりも必要なのは、私たちがいかに世界の人々と互いにつながっていて、人類の一員であるのか、改めて思いをいたすことなのかもしれません。

このことこそが、私たちの種の特別さなのです。私たちの運命は、遺伝子で決まっているわけではありません。だから、過去の過ちを再び犯す必要はないのです。

私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。子どもたちに、これまでとは違う話を伝えることができます。人類に共通の価値観があり、戦争が起こりにくく、今よりも残酷な行いを許さない世界の話を。」

 

 

 「過ち」という言葉が出てくる。

 そして、主語が「We」だ。

 演説している場所が場所だけに、原爆死没者慰霊碑の碑文が思い起こされる。

 もっとも、結論を先に言うと、この碑文とはあまり関係ないと思われる。

 というのは、この碑文の英訳で「過ち」に相当する部分は「evil」であるが、オバマ大統領は「mistake」の語を用いているし、この「mistake」の中身も原爆投下に限定するものではなく、紛争全般を指していると解されるからだ。

 「We」も、アメリカ人に限定するものではなく、人類全般であろう。

 オバマ演説のこの部分を聞いた時、この碑文に関係あることを言っているのかと期待してしまったが、後で読んでみると、期待とは違うものだった。

 それにしても、関連づけたくなってしまうのが人情ではないか。

 あくまでオバマ大統領の言う「mistake」と碑文の「過ち」は特に関係ないと解されるが、それにしても、

「もし慰霊碑の「過ち」を「人類の過ち」とするのであれば、実際に原子爆弾を投下したアメリカがそれに同意しなければ意味をなさない。」

「この慰霊碑は、アメリカ大統領がぬかずいてこそ初めて、意味をなすのではあるまいか。」

という竹田氏の上記引用部分が頭をよぎる。

 「意味をなす」ところが僅かでもあったかもしれない。

 

 オバマ大統領が演説を終えた後、安倍総理大臣が演説を行った。

 その中で、安倍総理大臣はこう述べた。

 

 

「広島訪問 日米両首脳によるステートメント」 首相官邸HP平成28年5月27日

http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2016/0527hiroshima.html

 

「 先ほど、私とオバマ大統領は、先の大戦において、そして原爆投下によって犠牲となった全ての人々に対し、哀悼の誠を捧げました。 
 71年前、広島、そして長崎では、たった一発の原子爆弾によって、何の罪もない、たくさんの市井の人々が、そして子供たちが、無残にも犠牲となりました。一人一人に、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実を噛みしめる時、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
 今なお、被爆によって、大変な苦痛を受けておられる方々も、いらっしゃいます。
 71年前、正にこの地にあって、想像を絶するような悲惨な経験をした方々の「思い」。それは、筆舌に尽くし難いものであります。様々な「思い」が去来したであろう、その胸の中にあって、ただ、このことだけは間違いありません。
 世界中のどこであろうとも、
 再び、このような悲惨な経験を
 決して繰り返させてはならない。

 この痛切な「思い」をしっかりと受け継いでいくことが、今を生きる私たちの責任であります。」

 

 

 私はこれに衝撃を覚えたのだが、どうだろう。

 原爆死没者慰霊碑には「過ちは 繰り返しませぬから」と刻まれている。

 安倍総理大臣は、当然、このことを知っているだろう。

 この慰霊碑が置かれているこの場で、安倍総理大臣は、いわば「過ちは 繰り返させませぬから」と言ったように私には見える。

 「過ち」の主語は、日本人ではない。

 私は、この碑文が安倍総理大臣のこの演説によって上書きされるような感覚を抱いた。

 また、安倍総理大臣は、オバマ大統領の面前で、公的に、原爆投下は「決して繰り返させてはならない」「悲惨な経験」だと述べたということになるが、過去にこういう例はあるのだろうか。

 アメリカから不快の声が出てくることもあり得る発言に思えるが、そういう声が出てきたという話は聞いたことがない。

 渡部昇一氏は、昨年のいわゆる戦後70年談話について、「東京裁判史観を払拭した」と評価したが、この安倍広島演説も、これをより一層進めるものだったという気がする(「WiLL2015年10月号」(ワック)32ページ以下)。

 

 しかし、こういう評価が識者から出てこず、この演説が論壇で話題になっていないということは、私は、にわか知識のせいでかえって見方を誤り、安倍政権支持に前のめりな曲解をしているのであろう。

 それにしても、論壇誌における伊勢志摩サミットおよびオバマ大統領広島訪問の扱いは小さく、これではその成果がよくわからない。

 私としては不満だが、他の読者はそういう不満を感じていないのだろうか。

 

 日米が戦後を乗り越え、和解し、同盟関係を強化して、中国や北朝鮮に臨む。

 そうなったならば、いよいよ安倍総理大臣による靖国参拝が期待されるところである。

 昨年、安倍総理大臣は戦後70年談話を出し、私は靖国参拝を期待した。

 未来志向の談話を出し、大東亜戦争についての罪悪感を払拭し、また、確か中国くらいしかこの談話に対して強い不快を表明していなかったはずで、安倍総理大臣は靖国参拝しやすくなると私は思った。

 しかし、それは叶わなかった。

 

 昨年4月の安倍総理大臣による米国連邦議会上下両院合同会議演説以来、日米の和解および日米同盟の強化は顕著に進んできた。

 そして、今回のオバマ大統領の広島訪問により、1つの到達点を迎えたように思う。

 今年は昨年よりさらに靖国参拝しやすくなっているのではないか。

 期待を膨らませていたら、こういう報道が出てきた。

 

 

「米国務省、稲田氏に15日の靖国参拝自制促す」 読売オンライン2016年8月4日

http://www.yomiuri.co.jp/world/20160804-OYT1T50135.html

 

「【ワシントン=大木聖馬】米国務省のトナー副報道官は3日の記者会見で、第3次安倍再改造内閣が同日、発足したことについて、「日本政府との緊密な協力関係を深めていきたい」と期待感を示した。

 ただ、稲田防衛相が8月15日の終戦記念日に靖国神社を参拝するかどうかについて明言を避けていることを巡り、「癒やしと和解を進める方法で歴史の問題に取り組むことが重要だ。それが靖国神社に関する我々の立場だ」と述べ、自制を促した。

 

 

 アメリカ国務省が稲田朋美防衛大臣による靖国参拝に自制を促してきた。

 稲田大臣にだけ自制を促し、安倍総理大臣には促さないということはないであろう。

 アメリカ流に言えば「失望した」だ。

 胸糞悪い。

 と思ったら、どうやらこの報道は文脈を正確に伝えていないらしい。

 

 

https://twitter.com/iMcLOVIN7/status/761235247581294592

 

 

 ソース記事は↓。

 動画はhttp://video.state.gov/en/video/5069893880001の47分あたりから。

 

 

「Daily Press Briefing - August 3, 2016」 アメリカ国務省HP2016年8月3日

http://www.state.gov/r/pa/prs/dpb/2016/08/260813.htm

 

「QUESTION: -- a quick question on the Japanese cabinet reshuffling. Do you have any comments, particularly on the defense minister? She’s been seen as very conservative. Both China and Korea have made complaints.

 

MR TONER: No, I mean, look, we’re aware obviously of the new Japanese cabinet. From our perspective, we’re going to maintain, sustain, and frankly, work to deepen our close cooperation with the Government of Japan, and that’s across a range of regional and global issues. And we want to obviously, as I said, strengthen our cooperative efforts. Specific to your question about the defense minister, I don’t want to get into commenting on what we consider to be really domestic politics in Japan.

 

QUESTION: Well, in the past she’s made regular visits to Yasukuni Shrine, and when asked earlier today, she did not rule out a visit later this month.

 

MR TONER: Sure.

 

QUESTION: And visiting – is visiting the shrine something you would discourage given that you have spoken about --

 

MR TONER: Yeah.

 

QUESTION: -- shrine visits in the past?

 

MR TONER: I mean, I’d just say we continue to emphasize the importance of approaching historical legacy issues with – in a manner, rather, that promotes healing and reconciliation, and that’s always been our position regarding the shrine.」

 

 

 政府には、アメリカの意図を分析し、靖国参拝の可能性を諦めずに模索してほしい。

 私にも、トナー報道官が稲田大臣に対して上から目線で靖国参拝を自制するよう強く求めているようには思えない。

 とにかく、アメリカ(や中国など)が何と言おうと、わが国の閣僚が靖国参拝をするのは当然のことだ。これが原則だ。

 外圧に屈して靖国参拝を控える方が本来は問題だ。

 外圧に屈することを求めるわが国のマスメディアの方が狂っているのだ。

 平成25年12月26日、安倍総理大臣は靖国参拝を行ったが、これを肯定的に評価したのは産経新聞のみであった(渡部昇一「渡部昇一、靖国を語る」(PHP研究所、2014年)19~22ページ)。

 他紙は主に外交上不利益だと批判したが、東京裁判史観を押し戴いて外圧に屈することが国益だという倒錯に過ぎない。いわば、上の碑文の「呪い」にかかっているのだ。

 

 内閣総理大臣による靖国参拝が当たり前に可能となること。

 これは戦後レジームからの脱却の不可欠の要件だと私は思う。

 参拝する日については8月15日にこだわる必要はない。

 内閣総理大臣として初めて8月15日に靖国参拝したのは、三木武夫総理大臣であった(昭和50(1975)年。神社本庁編「靖国神社」(PHP研究所、2012年)152ページ)。

 例大祭に参拝すればよいと思う(年内に参拝するならば秋季例大祭。http://www.yasukuni.or.jp/schedule/shuki.html)。

 

 今年こそ、安倍総理大臣の靖国参拝が実現してほしく思う。

 靖国参拝をしないこと、できないことこそが、戦没者たちに対する「過ち」なのだ。