【慰安婦問題】著書に見られる安倍総理の想い【拉致問題】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

 前回の記事で、日韓両外相が先月28日に表明した慰安婦問題日韓合意について、私の素人的意見を述べた(http://ur0.pw/qtbe)。
 実のところ、私はこのブログで自分の意見を言うのはあまり好きではない。
 素人が自分なりに考えた意見など、当たっていないことの方が多い。私は恥ずかしい記事を書いたかもしれない。
 しかし、この日韓合意について保守言論人の多くが否定論を唱えているが、私にはあまり説得力を感じられないところがあり、異論を述べてみることにした。
 むしろ私がこのブログでしたいのは、当該問題について詳しい人たちの解説を紹介することだ。
 また、安倍晋三内閣総理大臣自身の言葉を紹介することだ。

 我々が国の行く末を考える時、内閣総理大臣が何を考えているのかを知ることが重要だ。
 安倍総理大臣が何を考えているのかを知ることは、国民が政治的意思決定をする上で、そして民主主義政治を行う上で重要だ。
 安倍総理大臣を支持する保守系メディアと支持しない革新系メディアとを問わず、安倍総理大臣の著書は重視すべきものであり、積極的に紹介して然るべきものだと私は思う。
 あくまで政治家の書いたものなので、いろんな方面に配慮して本音を語っていないと思われる部分もあるが、それでも議論の出発点だと言って過言でない。
 にもかかわらず、保守系メディアと反日系メディアとを問わず、安倍総理大臣の著書を無視して、安倍総理大臣について好き勝手に憶測を言っているところを見ることが珍しくない。
 こういうのが玄人の言論だとは思えない。
 集団的自衛権を巡る報道にしても、安倍総理大臣は著書でこれについて書いているのに、これを無視して不毛な憶測を語るものばかりだった。

 上記日韓合意について、保守系メディアの日本文化チャンネル桜の代表の水島総氏は、「安倍は先人の名誉を汚した。もう支持しない。」などと言っている(http://ur0.pw/qtcB)。
 国会においては、民主党の緒方林太郎衆議院議員が、蓮池徹氏の著書を引用して、安倍総理大臣は拉致問題を政治利用して出世した、などと批判し、顰蹙を買った(http://ur0.pw/qtbk)。
 安倍総理大臣が、慰安婦問題について、拉致問題について、どういう想いを抱いているのか。
 はたまた、憲法改正が政治日程に上ってきたが(http://ur0.pw/qtbl)、戦後レジームからの脱却について、どういう想いを抱いているのか。
 それは、安倍総理大臣が故中川昭一氏へ贈った弔辞を見れば察することができる。


安倍晋三 「軌跡 安倍晋三語録」 (海竜社、2013年) 131~144ページ

わが盟友・中川昭一へのレクイエム
―――二〇〇九年

「安倍ちゃんは間違っていない」

 熱い人でした。はにかみ屋で、繊細な一面もありましたが、誰よりも熱い心を持っていた。その熱い心が、主義主張を超えて多くの人を惹きつけたのでしょう。私も、勇気づけられたことが何度あったことか。
 お父上の中川一郎先生と私の父・安倍晋太郎が盟友でしたから、学生の頃から家族ぐるみの付き合いがありました。しかし、初めて親しく話をしたのは、私が外相だった父の秘書となり、北方領土の視察で北海道に同行した時です。
 当時、昭一さんは一郎先生のあとを継ぐ決意をされた直後で、私に向かって「父がやり残したことを成し遂げたい。どんな苦労も厭わない」と熱く語っていたことを、今も鮮明に覚えています。その熱意、その気迫に、私は圧倒されました。思えばこの時から、昭一さんの闘う姿勢を学ぶようになったのです。
 一九九三年に私が代議士となってからは、お互い若手保守派として、行動を共にすることが多くなりました。私が三十八歳、昭一さんは三十九歳。政界歴は長いのに、先輩風を吹かせることは一度もありませんでした。
 当時も、自民党は結党以来の危機を迎えていました。小沢一郎氏らが離党して分裂したため衆院選で過半数を割り込み、初めて野党に転落。一年足らずで政権与党に復帰しましたが、長年の政敵だった社会党と連立を組むという非常事態で、自民党内の混乱はしばらく続きます。
 ちょうどその頃、党の理念や綱領を見直そうという動きがあり、党基本問題調査会(後藤田正晴会長)で「自由民主党新宣言」をまとめることになりました。ところがその案分に、結党の最大の理念である自主憲法制定が盛り込まれなかったため異論が噴出。この時、一年生議員に過ぎない私と共に、猛然と立ち上がってくれたのが昭一さんです。後藤田会長ら百戦錬磨の重鎮を相手に堂々の議論を挑み、「このままでは自民党が自民党でなくなってしまう」と訴える姿は、私の脳裏に焼き付いています。
 この時の踏ん張りにより、新宣言の中に改憲の方針がなんとか残りました。
 「新しい時代にふさわしい憲法のあり方について、国民と共に議論を進めていきます」という文言ですが、これがなければ、自民党は保守政党としての心棒を失っていたかもしれません。

 一九九七年、中学校の歴史教科書に「従軍慰安婦」に関する記述が掲載されることになった時も、一緒に闘いました。有志が集まり、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成、昭一さんがその代表に、私が事務局長となり、自虐教育の是正に奔走したのです。
 昭一さんが凄かったのは、歴史観や国家観に関わることは、妥協を一切しなかったこと。私たちは何回も勉強会を開き、徹底して理論武装に努め、意見の異なる学者らも呼んで議論をしましたが、今から振り返っても、圧勝だったと思います。証拠もなく軍関与の慰安婦連行を認めた河野談話の撤回を、河野洋平氏に直接迫ったこともありました。
 今、中学校の歴史教科書に、「慰安婦」の文字はありません。自国をマゾヒスティックに貶めるような内容も、まだまだ改善は必要ですが、ひと頃に比べれば良くなったと言えるでしょう。それは昭一さんの、闘いの成果なのです。
 拉致問題への取り組みも、昭一さんを語る上で欠かせない功績です。二〇〇二年の小泉首相(当時)の訪朝で北朝鮮が拉致を認め、蓮池薫さんら五人の被害者の帰国が実現した時、拉致議連(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟)の会長として政府をバックアップしたのが、昭一さんでした。
 この時の被害者の帰国は、北朝鮮側から「二週間」という期限を付けられていました。しかし官房副長官だった私は、本人や家族の意向も踏まえ、”国家の意志”として北朝鮮には戻さない方針を立て、小泉首相の了承を得ました。
 当時のマスコミや政界の多くは、「約束したのだからいったんは戻すべきだ」と政府を批判しましたが、昭一さんは「安倍ちゃんは間違っていない」と言ってくれた。「拉致は犯罪だ。その犯罪者の手に国民を渡すようでは、国家とは言えない」と援護射撃する昭一さんの言葉に、どれほど励まされたことか。


揺るぎない信念と一歩も引かぬ闘志

 闘う姿勢は、閣僚となってからも存分に発揮されます。とくに、国益がかかった他国との交渉では一歩も引かなかった。小泉政権では経済産業大臣を歴任しましたが、その働きぶりに瞠目させられたことが何度もあります。
 農水相時代には、WTO(世界貿易機関)農業交渉で手腕を見せました。百五十数カ国が加盟するWTOでは従来、アメリカやEU(欧州連合)など主要国のインナーグループが議論を先行し、日本は蚊帳の外に置かれてきましたが、昭一さんは政策通の強みを生かして主要国間に割って入り、初のインナーグループ入りを果たしたのです。その上で、日本は独自案として途上国向けの開発パッケージを提案、加盟国の支持を得ました。日本の農政が、守りから攻めに転じたのはこの時でした。
 後に私は、官房長官や首相として訪米した際、国務副長官となったぜーリックや通商代表のシュワブなどから、「ミスター・ナカガワは元気ですか」とよく聞かれました。海外でも名の通った日本人の政治家は数えるほどしかいません。それほど昭一さんのインパクトは強かった。逆に言えば、交渉相手として”強敵”と思われていたのでしょう。
 経産相時代には、東シナ海のガス田問題で中国と渡り合います。それまで中国は日本の抗議など何処吹く風で、日中境界線近くの複数の地点で開発を進めていました。これに対し昭一さんは、現場海域の独自調査に踏み切った上、対抗措置として日本の企業に初めて試掘権を許可。さらに、中国側が嫌がる漁業交渉までちらつかせ、交渉の場に引きずり出したのです。
 当時、外務省などでは「中国側を刺激するのは得策ではない」とか、「中国の反発で交渉が決裂する」とか、及び腰の意見が多数を占めていましたが、結果はどうか。昭一さんの攻めの姿勢が、中国の暴走に歯止めをかけたのです。
 揺るぎない信念と一歩も引かぬ闘志――。それを知り尽くしていた私は、二〇〇六年に総理総裁となった時、全幅の信頼をもって昭一さんに政調会長になっていただきました。

喧嘩の仕方を知っていた

 安倍政権が掲げたのは、「戦後レジームからの脱却」です。この方針に基づき、防衛庁の省昇格、教育基本法の改正、公務員改革などの政策に次々に取り組みました。
 そこに、政調会長としての昭一さんの大きな働きがあったことは、言うまでもありません。当時の自民党は、政策的に一枚岩だったわけでは決してなく、一部にリベラル的な、危うい側面も持っていました。それを昭一さんが、闘う保守政党として、一つにまとめ上げてくれたのです。
 人権擁護法案をめぐる問題でも、昭一さんは信念を貫きました。もちろん、人権擁護は大切なことです。しかしこの法案は「人権侵害」の定義が曖昧で、左派勢力に悪用される恐れがありました。小泉政権下で一度国会に提出され、廃案となった後も党内には再提出の動きがくすぶっていましたが、政調会長となった昭一さんは、推進派やマスコミなどの批判をものともせず、この問題をめぐる党内議論を封印したのです。
 政調会長時代のエピソードでは、「核議論」発言もよく知られています。テレビの討論番組で「非核三原則は重い約束だが、、北朝鮮情勢に鑑み、見直すかどうか議論を尽くすべきだ」と述べたことが国内外に波紋を広げ、国会でも取り上げられました。その後も昭一さんは同趣旨の発言を繰り返しましたが、それがある種の”戦略”であったことを、私は知っています。
 この発言の直前、北朝鮮が核実験を強行したにもかかわらず、中国の態度が煮え切らず、六カ国協議も進展していませんでした。
 中国を本気にさせるにはどうすればいいか――。
 ガス田問題などで”喧嘩の仕方”を知っている昭一さんは、それを考えたのでしょう。事実、核議論発言により「北朝鮮が核武装すれば日本も核保有に踏み切るかもしれない」との警戒心を海外に与え、中国の態度は一変しました。アメリカも一層真剣となり、ライス国務長官(当時)が急きょ来日、「アメリカの”核の傘”で日本を守る」と強調するほどでした。

もしもあの出来事がなかったら……・

 こうして振り返ると、昭一さんがいかに闘い続けてきたかがよく分かります。しかし昭一さん自身は、性格的に、決して攻撃的ではありません。シャイで、ナイーブで、本心では人と争うことを嫌いました。しかし国家のため、自分がやらねば、自分が言わねばという、一心だったのでしょう。
 マスコミなどの批判の矢面に立ちながら、どんな有力者にも論争を挑んでいく、それは昭一さんにとって、精神的にどれほど負担だったことか。肉体的にも、激務に次ぐ激務で、ボロボロの状態だったのでしょう。お酒のことがよく批判されますが、私の知る限り、ここ数年はかなり控えているようでした。むしろ睡眠不足と腰痛の方が心配でした。
 私自身がそうでしたが、政治家というものは、自分の健康不安を口外したがらないものです。大任に耐えられない病身とは思われたくないので、我慢しすぎて、限界を超えてしまうこともあります。
 麻生政権で財務大臣と金融担当大臣を兼務し、激務を重ねてきた上、イタリアでのG7後の会見、あの「もうろう会見」に臨んだ時は、まさに限界を超えていたのでしょう。前夜に睡眠薬を飲んだ上、風邪薬と腰痛の薬を多めに服用したため、それらの相乗作用で酩酊を疑われるような症状を見せてしまったのは、返す返すも残念でなりません。
 ただ、会見前までの仕事ぶりは、余人ではなし得ないものだったことは、誰しもが認めるところでしょう。サブプライムローンを発端とする世界同時金融危機の中、IMF(国際通貨基金)に一千億ドルを拠出して途上国向けの緊急融資制度を設け、各国から高い評価を得ました。これにより実際、ウクライナやパキスタンが緊急融資を受けて救済されています。
 対米交渉では、ガイトナー財務長官に直接面会してバイアメリカン条項への懸念を伝え、保護主義の動きにクギを刺しました。G7の本会議でも、昭一さんが議論を終始リードし、期待以上の成果をあげることができたのです。
 しかしあの会見は、昭一さんの功績を苦々しく思う野党とマスコミの、格好の標的にされてしまいました。
 マスコミは、あの時の映像を繰り返し流し、世界に醜態を晒したなどと騒ぎ立てましたが、私の知る限り、このニュースは海外ではそれほど大きく報じられていません。むしろ現地のイタリアなどでは、G7本会議での昭一さんの積極性を称賛する報道が目立ったと聞きます。しかし日本のマスコミは、そうしたプラス面はほとんど伝えず、保守派の有力代議士の政治生命を潰すことに躍起になったのです。
 もしあの出来事がなかったらと、考えずにはいられません。むろん、昭一さんは落選しなかったでしょうし、保守再生の雄として、自民党総裁選の候補に推されていたかもしれない。いや、きっと総裁になったはずだと、私は思うのです。鳩山政権がリベラル色の強い政策を打ち出そうとしていることを懸念する国民は少なくありませんから、保守の信念を曲げない昭一さんが自民党を率いるなら、急速に支持を集めたはず……。国家のために残念でなりません。

突然の訃報

 そしてあの日、(二〇〇九年)十月四日、昭一さんは突然、逝ってしまった。
 私は知人からの連絡で訃報に接しましたが、その時のショックを、うまく言葉にすることができません。
 その夜、ご自宅を訪れ、棺の中の昭一さんと対面しました。いつも通りの表情でした。私は、安らかにお眠り下さいと声をかけました。
 私は次の日も、その次の日も、ご自宅に通い、昭一さんと対面しました。不思議なことに、その表情が、日に日に穏やかになっていきました。もう闘わなくていいんだ、やるだけのことはやったんだという、安らかな表情に。
 そのとき同行した衛藤晟一さん(参院議員)と三日目の晩、「本当に寂しくなったね」と、昭一さんの思い出を語り合いました。
 亡くなる十日前、昭一さんから電話があったことを思い出します。新政権発足からほぼ一週間、鳩山首相の一挙手一投足がマスコミにもて囃される一方、自民党再生の第一歩となる総裁選はほとんど報じられず、これが野党転落の現実かと、意気消沈している時でした。
 「このままじゃ日本は、大変なことになるよ」と、昭一さんは言いました。
 「誇りある日本をつくろうと必死にやってきたけど、これまで積み重ねてきたことが、すべて覆されてしまう。急いで保守を再生しないと、国が潰れるよ。もちろん、保守再生は簡単なことじゃない。これまでで一番厳しい闘いになる。でも、負けるわけにはいかない。頑張ろうな、安倍ちゃん……」
 私は、「そうだよ昭一さん、一緒にやっていこう」と相づちを打ちながら、つい先日まで落選のショックに沈んでいた昭一さんが、再び闘う姿勢を取り戻してくれたことを、とても心強く思っていました。
 昭一さんの言葉通り、日本は今、大変なことになろうとしています。これまで一緒に積み重ねてきたことが、すべて壊されようとしています。
 岡田克也外相は(二〇〇九年)十月九日、日本外国特派員協会で講演し、日中韓共通の歴史教科書をつくる意向を示しました。それが現実となれば、「従軍慰安婦」の記述が復活し、「南京大虐殺三十万人」の数字も”史実”となるでしょう。
 一方、東シナ海ガス田問題では、苦労して交渉にこぎつけた日中合意を中国が破り、掘削を再開しているというのに、鳩山政権は為す術を知りません。
 千葉景子法相は、昭一さんが封印した人権擁護法案と同内容の法案を、来年(二〇一〇年)の通常国会に提出する意向のようです。
 このほか、永住外国人への参政権付与や選択的夫婦別姓の導入など、リベラル色の強い政策が閣僚の口から飛び出すなど、新政権が早くも本性をむき出しにしてきました。国家の形や家族の形が、今、大きく崩れようとしているのです。
 これを阻止するには、保守勢力が総結集し、断固反対の国民運動を展開し、来夏の参院選の争点にして勝ち抜く以外にありません。しかし、その先頭に立つのは、昭一さん、あなたでした。

遺志に応える道

 善福寺の葬儀において、いよいよ焼香も終わり出棺を前に、私も近親者の方々と共に棺に花を捧げました。そしていよいよ棺を蓋う際、最愛の奥様が「本当に頑張りましたね」「本当に頑張りましたね」と声をかけられ、ご長女が泣きながら「ありがとうございました」と別れを告げました。国家のために本当に頑張った。「ありがとう」。それは、その場にいる全員の思いでした。
 リーダーとしてもっともっと活躍してほしかった。本当に早過ぎた。しかし彼は五十六年間の人生を、父として、夫として、政治家として、精一杯生きたと思う。
 吉田松陰先生が処刑を前に牢内で、弟子たちに向けて書き上げた遺書「留魂録」に、こんな一節があります。
 十歳で死ぬ者は、その十歳の中におのずから四季を存し、二十歳の者には二十歳の中に、三十歳の者には三十歳の中に四季があり、五十、百はおのずから五十、百の中に四季を有するはずである。
 私は三十歳、四季はすでに備わっている。花も咲き実も結んだはずだ。同志の君達のなかに、私のささやかな真心を憐れみ、私の志を継いでやろうという人がいるなら、それはのちに蒔かれる種が絶えないで、穀物の収穫がつづけられていくことを意味するのだ。
 同志よ、どうか私の言わんとすることをよく考えてほしい。

 留魂録に魂を揺さぶられ、回天の事業に命懸けで取り組んだ志士たちのように、私たちも、空前のばらまき、給付ありきの社会主義的政策、そして国家の解体につながる暴挙を食い止めるために、立ち上がらなければなりません。それこそが、昭一さんの遺志に応える道だと思います。
 今、改めて言います。昭一さん、安らかにお眠り下さい。

『正論』二〇〇九年十二月号」

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 盟友中川昭一の志は、安倍晋三の志だ。
 安倍総理大臣は慰安婦問題解決を諦めない。
 河野談話に入り、中学校の歴史教科書にいったんは載り、岡田克也民主党代表が復活させたいところの「従軍慰安婦」という文言は、今回の日韓合意には入らなかった。
 韓国が了解したのだから、韓国に配慮したとしても、もう二度とこの文言が歴史教科書に載ることはない。
 今回の日韓合意には不満もあるだろう。私とて、「強制連行」を明確に否定する文言となっている方が望ましいと思う。
 しかし、歴代政権のツケは重く、国際連合が慰安婦を性奴隷だと認定する中、韓米の合意を得て「強制連行」を曖昧にできただけでも一応の成果ではなかろうか。
 世界中に広がった、日本軍が朝鮮人女性を性奴隷にして搾取していたという荒唐無稽な誤解は、これから地道に正していけばいい。
 安倍総理大臣が、かかる誤解の是正を諦めているとは思えない(記事をひととおり書き終えてからの報道。http://ur0.link/qua5)。
 逆に、東アジア情勢が緊迫する中、日韓外相会談が破談となり、日韓が北朝鮮による分断工作に乗せられたままで、さらにアメリカの不興を買って日米分断が進むことこそが危ないだろう。我々は釜山に赤旗が翻ることにこそ警戒しなければならない(http://ur0.pw/qtbm)。
 仮に、今回の日韓合意を撤回せよと主張する人たちの解する通り、今回の日韓合意が先人の名誉を回復不可能ならしめるものであるのならば、こう考えるべきではないか。
 「安倍晋三でも慰安婦問題を解決することはできなかったか。かくなる上はもはやこれまで。」と、往生すべきではないか。
 慰安婦問題について徹底的に理論武装し、自民党の大物の河野洋平に詰め寄った安倍総理大臣が、完膚なきまでに叩きのめされたのであれば、わが国にはもう為す術はないのだ。
 不可能を求めてはいけない。
 しかし、私はまだ可能性は消えていないと思うし、安倍総理大臣は次の機会を窺っていると思う。
 わが国は国際連合安全保障理事会の非常任理事国入りを果たしたが、安倍総理大臣はさらに常任理事国入りを目指している(http://ur0.pw/qtbn)。
 これを実現するにあたり、国連で通用している慰安婦性奴隷論は是正しておきたいところではないか。
 「国際社会のルールづくり」に参加するべく、「負い目」はできる限り払拭しておきたいだろう。
 そして、国連で誤解を是正することができれば、自ずと海外メディアの慰安婦問題についての報じ方も変わってくるだろう。


安倍「軌跡」31,32ページ

【外交】クリエイティブに主張する外交を
―――二〇〇五年

 (二〇〇五年)五月初めに、私はアメリカのワシントンとニューヨークを訪問し、アメリカ政府高官らと会談を行ってきた。
(中略)
 ブッシュ政権が二期目に入り、これを支えるメンバーの顔ぶれが代わったため、彼らの対日外交姿勢、対日戦略や国際協調への考え方を確認することと、国連安保理の常任理事国入りを目指すわが国への支援も要請した。また、今起こっている日中、日韓問題を私の立場できちんと説明してきた。
 今までの日本は、外国がつくったルール、土俵の中で相撲をとってきた。そこでわれわれが主導権を持つのではなく、相手にいかに合わせていくかが重要だった。かつて日本は国際社会の中での地位が低く、敗戦国という負い目もあったから、致し方なかったとも言えよう。しかし今後の日本は、国際社会のルールづくりにも参加し、主張していくことが必要になる。
 国連安保理常任理事国入りは、その足掛かりであり、そのためには米国との同盟関係が基盤なのだから、これを常に強化していくことが大切である。会談では、私の持論である”クリエイティブに主張する外交”の必要性について話した。恐らく中国は、日本がアメリカと何を話したかが気になっているはずで、外交の主導権を握るとは、こういうことなのである。」


 緒方議員の言うように、安倍総理大臣が拉致問題で成果を挙げて出世したというのは、そういう側面もあるのだろうが、緒方議員の批判は善政の否定に等しい。
 善政が出世に繋がるなら、国民としても喜ばしい。それだけの話だ。
 なお、安倍総理大臣が拉致問題に取り組んだ当時は、マスメディアも政界(自民党を含めて)も拉致被害者を取り戻すことに批判の声が強かった。
 安倍総理大臣は、「誰とは言わないが、自民党内にも北朝鮮の工作が及んでいた」と明かす(「軌跡」65ページ。おそらく野中広務氏だろう。井沢元彦「「拉致」事件と日本人 なぜ、長期間黙殺されたのか」(祥伝社、平成15年)153ページ、http://ur0.pw/qtcD参照)。
 逆風の中、安倍総理大臣は拉致問題に取り組み続けた。
 今ではちょっと信じられないが、拉致被害者の帰国前は、日朝国交正常化が推進されており、北朝鮮とのもめ事は忌避されていた。
 緒方議員は元外務官僚だが、こういうスジの官僚だったのではないか。


安倍晋三 「美しい国へ」 (文藝春秋、2006年) 44~46ページ

わたしが拉致問題を知ったとき

 北朝鮮による拉致問題とわたしが出会ったのは、一九八八年の秋である。有本恵子さんのご両親が、わたしの父、安倍晋太郎の事務所を訪ねてこられたのが発端だった。当時、わたしは父の秘書をつとめていた。
 有本恵子さんは八三年に留学先のロンドンで行方不明になった。二十三歳のときのことだった。八八年になって、恵子さんが平壌で暮らしていることがわかった。恵子さんと一緒に暮らしている拉致被害者が平壌で会ったポーランド人に託した手紙が、北海道の実家に届き、そのコピーが有本家に送られてきたのだ。
 はじめて北朝鮮による拉致を知った有本さん夫妻は、当初、北朝鮮にパイプのある社会党に助けを求めようと、土井たか子さんの事務所へ行った。秘書が応対に出たが、「お気の毒ですねえ」といわれただけだったという。その後、有本さん夫妻は父の事務所を訪ねてこられた。事務所の飯塚秘書が対応し、警察庁と外務省にお連れしたが、やはりはかばかしい結果は得られなかった。
 それから五年、有本さんは父の事務所にたびたびこられるものの、事態はいっこうに進展しなかった。国家が他国の国民を拉致することなどありうるのか、最初わたしは半信半疑だったが、調べていくうちに、北朝鮮の犯罪だと信じざるをえなくなった。国家の主権をおかす犯罪が公然とおこなわれていたのに、わたしたちはそれを放置していたのだ。
 父が亡くなり、わたしは九三年の総選挙で初当選をはたした。衆議院議員として、拉致問題の解決に向けてできるだけのことをしようと決意した。しかし、自民党の中でも拉致に関心のある議員は少なく、わたしの思いは空回りするばかりだった。
 九四年から九六年までは、自社さ連立の村山政権時代だった。当時の雰囲気は対北朝鮮外交はコメ支援をどうするかが主題で、拉致被害者の救出をいいたてる議員は、自民党の中でも少数派だった
(※)。
 九七年に「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)が発足した直後、わたしたち国会議員は、仲間をつのって「北朝鮮拉致疑惑日本人救援議員連盟」(旧拉致議連)を立ち上げた。拉致問題にようやく光があたりはじめたのは、その頃からだった。
 被害者の家族は長い間、孤独な戦いをしいられてきた。日本で声をあげれば、拉致された本人の命が保証されないと脅され、個別にツテをたどって情報を集めるしかなかったのだ。外務省は一貫して、「外交努力はしているのだから、静かにしてほしい」という態度だった。国に見捨てられたかれらが、悲痛な思いで立ち上がっているのだ。わたしたち政治家は、それにこたえる義務がある。
 わたしを拉致問題の解決にかりたてたのは、なによりも日本の主権が侵害され、日本国民の人生が奪われたという事実の重大さであった。
 工作員がわが国に侵入し、わが国の国民をさらい、かれらの対南工作に使ったのである。わが国の安全保障に関わる重大問題だ。
 にもかかわらず、外務省の一部の人たちは、拉致問題を日朝国交正常化の障害としかとらえていなかった。相手のつくった土俵の上で、相手に気に入られる相撲をとってみせる――従来から変わらぬ外交手法、とりわけ、対中、対北朝鮮外交の常道だった。つねに相手のペースをくずさないように協力して相撲をとれば、それなりの見返りがある。それを成果とするのが戦後の外交であった。」

※ 緒方議員が入省したのはこの時期(http://rinta.jp/profile)。

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安倍「軌跡」11,12ページ

私自身は、初めての選挙のときは、父の無念な気持ちを抱きつつ、命懸けで戦いましたし、北朝鮮拉致問題では、かなりの嫌がらせも受けました。家族は怖がっていましたが、政治家の仕事とはこういうものだと言い聞かせました。


 朝鮮総連を弱体化させる。日韓で連携を強化する。
 拉致問題解決に進展が見られないという批判はあるが、安倍総理大臣は北朝鮮にいる拉致被害者を取り戻すために手を打っていると思う。
 安倍総理大臣は拉致問題解決を諦めない。
 安倍政権は平成26年に内閣人事局を設置した。
 初代局長は、現在の拉致問題担当大臣の加藤勝信官房副長官だ(現局長は「安倍側近」の萩生田光一官房副長官)。
 加藤局長は、交代時期にさしかかっていた齋木昭隆外務事務次官を留任させた(http://ur0.pw/qtbq)。
 齋木次官は、「拉致問題で官房副長官時代の安倍首相と連携し、首相の信頼を得ている」とのことだ(http://ur0.pw/qtbr)。
 昨年10月、北朝鮮を直接担当する北東アジア課に所属していた小野啓一課長が内閣参事官に就任し、内閣官房の国家安全保障局に配属された(http://ur0.pw/qtbs)。
 昨年12月、警備局警備企画課長だった新美恭生氏が内閣参事官に就任し、拉致問題対策本部事務局に配属されたことに着目する人もいる(http://ur0.pw/qtbt)。
 人事には内閣の意思が表れるとすると、拉致問題解決への意思が表れているのではないか。
 逆に、安倍政権の外務省人事は拉致問題解決を先延ばしするものではないかと、不安視する声もある。
 これについて安倍総理大臣はこう言ったそうだ。
 「人事の最終決定者は私だ。私がそういうことを許すと思うか」と(http://ur0.pw/qtbu)。
 なお、「軌跡」25~28ページには蓮池氏の拉致問題解決を訴える声を受け止める安倍総理大臣の決意も書かれているので、関心のある人は読んでほしい。

 安倍総理大臣の著書から読み取れる決意を無視して好き勝手に批判している人を見ると、いたましい気持ちになる。
 安倍総理大臣は「右翼反動」という批判を恐れず、時流に抗って闘ってきた(安倍「美しい国へ」4ページ)。
 安倍総理大臣が今まで闘ってきてくれたから、日本は沈没せずに済み、それどころか浮上しようとしているのではないか。
 プロなのに安倍総理大臣の著書すら確認しないで(または確認した上で伏せて)、心なき批判をしている人たちには辟易とする。

 昨年末、頑張れ日本!全国行動委員会が主催する日韓合意反対デモで、「安倍はサムライじゃない」という声が上がった。
 同団体主催者の水島総氏は三島由紀夫研究会の発起人に名を連ねるが(http://ur0.pw/qtbL)、三島風に言えば、「諸君らこそ武士ではない」(市ヶ谷演説参照。http://ur0.pw/qtbx)。
 単騎駆けをも厭わずに奮闘する大将に対し、これしきのことで浮き足だって後ろから石つぶてを投げつけるなど、肝の据わった武士のすることではない。
 彼らはずっと裏切りたかったのだ。信じることが恐くなったのだ。
 武士を気取って声を荒げる彼らこそ、武士道なき山賊に過ぎないのだ。
 今回の日韓合意には賛否両論あっていい。合意内容に不満があるのはわかる。
 しかし、安倍総理大臣が先人の名誉を汚したとし、支持に値しないと貶めるのは、同意できないし、唾棄すべきものだと思う(http://ur0.pw/qtcE)。
 水島氏は、第一次安倍内閣の時も、上杉隆氏とともに倒閣運動を仕掛けていたらしいhttp://ur0.pw/qtby)。
 上杉氏は小沢一郎衆議院議員に近い記者だ(と私は見ている)。
 安倍総理大臣は、思想家と政治家の違い、自分と小沢議員との違いについて、こう言っている。


安倍「軌跡」13~15ページ

「(遠藤周作の「沈黙」「死海のほとり」や司馬遼太郎の「坂の上の雲」「世に棲む日日」)を通じて思ったのは、一つの理念、ビジョンを持つ政治家になりたいということだった。しかし、思想家ではない政治家に求められるのは、理念や理想をあくまで追求することではなく、現実の世界で結果を出すことだ。そういう大きな判断を政治家はしていかなくてはいけない。
 先日(二〇〇〇年四月一日)、自由党の小沢一郎党首が「理念」を主張し連立を離脱したが、理念で生きた方がいいか「現実」に生きた方がいいかは、結果を見なければ分からない。

『産経新聞』二〇〇〇年五月十五日付東京朝刊」


 「理念」先行の思想家では、「現実」の政治を突破することはできない。
 しかし、そういう政治の中で、できる限り「理念」を実現し、「結果」を出す。
 それが安倍総理大臣の「政治家」像だ。
 「思想家」は「理念」を語っておればいい。
 しかし、「政治家」に「思想家」であることを求めるべきではない。
 「理念」の小沢議員は、今や勢力を失って山本太郎参議院議員とも組み、「理念」を捨てる「結果」となった。
 水島氏が支持する日本のこころを大切にする党(旧次世代の党)は、「理念」を前面に出し、先月、党名変更を行ったが、「現実」的な選択だったとは思えない。
 せっかく昨年の安全保障関連法案の議論で存在感を出し、知名度が上がってきたのに、その知名度を捨て、政党支持率も下がってしまった。
 「思想家」としては正しい選択なのかもしれないが、「政治家」ならば、同党所属の有為な人材を一人でも多く当選させるという「結果」を追求すべきだと思う。

 三島は、自衛官が武士たることを否定する日本国憲法に怒る自衛官を望んだが、自衛官たちは三島に野次を飛ばした。
 武士たる自衛官はいなかった。憲法改正のために立ち上がる自衛官はいなかったhttp://ur0.pw/qtcF)。
 三島は、「政治的プログラム」から憲法改正をはずした自民党に怒った。
 しかし、安倍総理大臣こそ、中川氏への弔辞に書いてある通り、自主憲法制定のための憲法改正を自民党の「理念」に残すよう奮闘したのである。
 安倍総理大臣は、日本国憲法第九条についてこう言う。


安倍「美しい国へ」123~128ページ

「 さて、当時、草案づくりにあたった民政局ですら首をかしげたといわれる憲法第九条の規定は、いっぽうで独立国としての要件を欠くことになった。
(中略)
 講和条約といっしょに締結された旧日米安保条約には、「自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」と、日本の努力目標まで明記されていたが、実際は、逆の道をたどることになった。」

「(戦後日本は、軍事費を抑えて経済発展を遂げた理解が一般的だが、旧西ドイツは重武装しつつ経済発展を遂げた。)
 ひるがえって日本の戦後はどうだったろうか。安全保障を他国にまかせ、経済を優先させることで、わたしたちは物質的にはたしかに大きなものを得た。だが精神的には失ったものも、大きかったのではないか。

141,142ページ

「憲法という制約を逆手にとって、きれいな仕事しかしようとしない国が、国際社会の目に、ずるい国だと映っても不思議はない。」


 日本国憲法前文についてはこう述べている。


安倍晋三 「新しい国へ 美しい国へ完全版」 (文藝春秋、2013年) 250~252ページ

ダッカ事件の教訓

 自由民主党の結党の理念は、第一に戦後復興を成し遂げること、第二に戦後体制に終止符を打つための自主憲法を制定することにありました。振り返ってみると、歴代の政権においては、最初の戦後復興を成し遂げるための経済成長にウェイトがありました。おかげで日本は高度経済成長を遂げたわけですが、一方で経済至上主義のもと、価値の基準を損得におく風潮が蔓延したのも事実です。
 憲法について、そして戦後レジームについて私がいつも思い起こすのは、一九七七年、私が大学を卒業した年の出来事です。その年の九月、バングラデシュにおいて日航機がハイジャックされました。時の政府は、ハイジャック犯の要求に従い、超法規的措置により服役囚の釈放に応じました。テロリストに屈し、テロリストを野に放ったと日本政府は世界中から強い非難を浴びました。今から時の政府を非難することはたやすい。しかし、もし私が総理だったとして他の手段をとれたか。
 日本国憲法の前文にはこうあります。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
 実に奇妙な一文です。国民の安全を守るという国家として最も重要な使命を、何と「平和を愛する」諸外国の国民を信頼するという形で丸投げしてしまっている。平和を愛する諸国民が日本人に危害を加えることは最初から想定されていないから、人質を救出しようにも、自衛隊や警察には、その能力がなかった。日本人が日本人のために命をかけないのですから、地元のバングラデシュの人に替わりにやってくれと頼んでもやってくれるはずがなかった。その約半月後、ドイツのルフトハンザ機がPFLP(パレスチナ解放人民戦線)にハイジャックされた。しかし時の西ドイツ政府は、GSG-9という特殊部隊を送り、テロリストを排除し、人質を全員救出し、世界から称賛されました。同じ敗戦国でありながらどこが違ったのか。それはドイツが憲法を改正し、それを可能にしたのに対して、日本は憲法に指一本触れる事ができなかったという違いです。
 ダッカ事件の起きた七七年の九月には、石川県において久米裕さんが北朝鮮に拉致されています。警察当局は、実行犯を逮捕し、北朝鮮の工作機関が拉致に関与していることをつかみながら、「平和を愛する諸国民」との対立を恐れたのか、実行犯の一人を釈放した。その結果、どうなったか。二ヶ月後の十一月、新潟県の海岸から横田めぐみさん拉致されました。もし、あのとき日本政府が北朝鮮政府と対峙する道を選んでいれば、今でもめぐみさんは日本で暮らしていたのではなかったか。
 結局、日本国憲法に象徴される、日本の戦後体制は十三歳の少女の人生を守ることができなかったのであります。そして、今もその課題は私たちに残されています。


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 日本国憲法は独立国としての要件を欠くものだ。
 それに疑問を持たない戦後日本人に精神的頽廃が生じている。
 いつしか日本はテロに屈する国となり、北朝鮮による拉致を防ぐことができず、そしていまだに拉致されたままの被害者が数多くいる。
 こんな憲法は変えなければならない。
 安倍総理大臣は国民に語りかけている。
 第一次安倍内閣の時には憲法改正のための国民投票法を制定した。
 現在の第三次安倍内閣では、9条改正はまだ先だとしても、憲法改正が「政治的プログラム」に入ってきた。
 厳しい「現実」の中で「理想」を掲げ、着実に「結果」を積み上げている。
 わが国を独立国たらしめる憲法改正のために立ち上がり闘うのが武士ならば、安倍総理大臣は武士だ。
 「サムライじゃない」という批判は当たらない。

 新書の「新しい国へ」と200ページに満たない「軌跡」。
 容易に入手できるこの薄い2冊だけでもこれだけのことが書いてある(「新しい国へ」には「美しい国へ」が再録されている。)。
 私は安倍総理大臣の中川氏への弔辞を読んでいたから、今回の日韓合意を見ても安倍総理大臣を一方的に責める気にはなれなかった。
 水島氏によると、今回の日韓合意は「河野談話より悪質」であり、安倍総理大臣を擁護するのは詭弁であり、権力拝跪であり、恥ずべきことらしいhttp://ur0.pw/qtcH)。
 安倍政権が河野談話の作成過程の検証結果を公表したとき(河野談合の公表)、特に取り上げなかった男が何を言っているのか(http://ur0.pw/qtbC)。
 河野談合の公表を無視同然にしておきながら、今回の日韓合意は「河野談話より悪質」というのは、河野洋平を擁護しているようにしか思えない。
 河野洋平に詰め寄った安倍総理大臣に対し、石つぶてを投げている気がしてならない。
 保守の正論を装って、何か政治的な思惑があるのではないかと勘繰りたくもなる。
 思い出すのも腹立たしいが、水島氏は、平成25年10月の消費税増税決定について、安倍総理大臣は消費税増税を「いいことをしたと思っているはず」などと言った(http://ur0.pw/qtcK)。
 これも安倍総理大臣の著書を読んでいたらほとんどあり得ない暴言だと思う(http://ur0.pw/qtbE)。
 所詮は田母神俊雄氏を勝算もなしに都知事選で担ぎ出し、そして負けたら責任逃れに終始して田母神氏を後ろから討つ男だ(http://ur0.pw/qtct)。
 「都民はバカ」と言わんばかりの水島氏の横柄な態度は恥知らずそのものだった(http://ur0.pw/qtbF)。
 詭弁を恥じろなどと、この男にだけは言われたくない。


安倍「美しい国へ」4,5ページ

「 初当選以来、わたしは、つねに「闘う政治家」でありたいと願っている。それは闇雲に闘うことではない。「スピーク・フォー・ジャパン」という国民の声に耳を澄ますことなのである。」


 安倍総理大臣は、国民の声に耳を澄ましている。
 そういう安倍総理大臣の声を、メディアはもっと国民に届けるべきではないか。