【関岡英之】TPP反対論こそが国体破壊だったという衝撃【浅川芳裕】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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 先月5日の記事で、三橋貴明氏の「日本のグランドデザイン」(講談社、2010年)のエピローグ(あとがき)を引用した(http://ameblo.jp/bj24649/entry-12089959253.html)。
 引用部分の直後に、謝辞が述べられている。
 その中に、「浅川芳裕」という名前があった。
 私はこの人をよく知らなかったのだが、同書192~198ページの「日本は世界5位の農業大国」という箇所で浅川氏が紹介されていた。
 これによると、日本の農業は「国内生産額が世界で5番目の規模」であり、食糧自給率を「生産額ベースで計算すると7割前後」であるにもかかわらず、「カロリーベースの食糧自給率=国民1人1日当たりの国産カロリー÷国民1人1日当たりの供給カロリー×100%」で計算すると、自給率は「4割そこそこ」となり、5割に満たない農業貧国となってしまうとのことだ。
 カロリーベースの食料自給率はわが国の農林水産省が思いついたものであり、世界中でこれを用いているのはわが国と韓国くらいのものである。
 三橋氏はカロリーベース自給率を「ムダ」だからやめてしまえと主張する。
 そして三橋氏は、詳しい話については浅川氏の「日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」(講談社、2010年)を読んでほしいと言う。
 なお、浅川氏の名前は、平成23年3月1日以降の三橋ブログには出てこなくなる。
 中野剛志氏の「TPP亡国論」(集英社)の発売日が同年同月22日だから、同書発売のあたりから出てこなくなると言うこともできる。

 三橋ブログを「カロリーベース」で検索してみると、昨年は1件もこれに関する記事がないが、今年になって久しぶりに言及があったことがわかる。


「TPPと農協改革(後編)」 三橋貴明ブログ2015年3月22日
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12004607020.html

「 農林水産省は、十年後の農業所得を「二倍にする」という方針を打ち出しました。ということは、日本も欧米諸国並みに農家への直接支払(財政負担)を引き上げるという話なのでしょうか。

 恐らくというか、間違いなく違います。何しろ、農水省は農業所得を二倍にする方法として「輸出拡大」成長産業化」「経営多角化」と、市場主義的なキーワードを叫んでいます。しかも、これが象徴的なのですが、カロリーベース自給率の目標を引き下げ(45%に)、生産額ベースの自給率目標を引き上げるという方針を打ち出しました。

 カロリーベース自給率とは、完全に国内(国民の胃袋)の話です。それに対し、生産額ベース自給率は、外国への農産物の販売も含みます。
 国民の胃袋を満たすための目標を引き下げ、外国への農産物輸出を含む「生産額」の目標を引き上げたわけです。すなわち、農家は市場競争し、グローバル化し、外国に農産物を売り込み、所得を「努力して倍増しなさい」という話なのでございます。

 日本列島という、大規模農業に向かない国土の農家に対し、諸外国と比較すると極端に低い農業予算しか支出せず、さらに家族経営を維持するために必須の農協を「解体」し、予算積み増しではなく、
「世界で戦え。そして、それぞれが努力して所得を倍にしろ」
 と、無責任に煽り立て、さらにTPPで関税を引き下げ、もしくは撤廃し、欧米のような「分厚い政府の直接支払」がない中、市場競争の荒波の中に日本の農家を叩きこむ。この残酷な政策が、安倍政権の農政というわけでございます。」


 カロリーベース自給率を重視しており、かつての三橋氏と逆になっているように見えるのは気のせいだろうか。
 少なくともカロリーベース自給率を「ムダ」扱いしていない。
 カロリーベース自給率で食糧自給率を計算した方が、TPP反対論には都合がいいらしい。

 「日本のグランドデザイン」を読んだ直後、書店で「Voice 平成27年12月号」(PHP研究所)を見たら、浅川氏の名前が表紙にあることに気がついた。
 気になって読んでみたら、三橋氏が浅川氏を遠ざけるようになった理由がよくわかった。
 浅川氏はTPP賛成の本を書いていた(「TPPで日本は世界一の農業大国になる」(ベストセラーズ、2012年))。

 さて、TPP反対論の中で、「TPPは国体破壊だ」という主張があったのを覚えておられるだろうか。
 私の記憶では、これを日本文化チャンネル桜で言い出したのは故・井尻千男氏だ(https://www.youtube.com/watch?v=sXCWDaMn7iM)。
 長老の大先生がこう言ってしまうと、なかなかこれに反することは言えなくなる。
 当時は民主党政権だったので、こういう懸念が出てくるのももっともではあった。
 TPPによってどのように国体が破壊されるかというと、井尻氏によれば、TPPは主権という至高の観念を放棄し、わが国が歴史的に形成してきた国柄を壊し、国体が破壊されるとのことだ(https://www.youtube.com/watch?v=IdcLQbIotao)。
 コメに着目したTPP国体破壊論もあった。井尻氏の説をコメの例で具体化した側面があると言える。
 今月1日の記事で、藤井聡氏が「TPPによって皇室にお米を納める田園もなくなるという景色も見える」という旨を言ったことを紹介した(http://ameblo.jp/bj24649/entry-12100648353.htmlhttps://youtu.be/ziU808WDsQU?t=40m52shttps://youtu.be/6Gh3nEQfwTM?t=54m41sも同旨)。また、藤井氏は、TPPは「皇室制度」など歴史伝統の解体にもなりかねないという旨を言う(https://youtu.be/UppXdFXe_Fk?t=38m53s)。
 つまり、TPPでコメの関税が撤廃され、伝統的で非効率的な稲作は淘汰され、したがって稲作を基盤にする皇室文化も衰退し、国体破壊になる、という筋書きだ。
 間違っていたら申し訳ないが、水島総氏もそういうことを言っていた気がする。

 意外に思われるかもしれないが、私の知る限り、中野剛志氏がTPP国体破壊論を言っていた覚えはない。
 中野氏はTPPによって農業全般に打撃を受けるとは言うが、「ボス」の藤井氏にように稲作を特に取り上げて論じることはほとんどなかったのではないか。
 一応、中野氏も食料自給率を論じるところで浅川氏の見解を紹介するところがあり、カロリーベース自給率の問題点を認識しつつも、穀物の自給率に着目し、日本はこれが他の先進国に比べて極端に低いと論じている(「TPP亡国論」184~186ページ)。
 ただし、あくまで穀物全般の話であり、コメを特に取り上げて細かく論じているわけではない。

 藤井氏が主要なTPP反対論者と言えるかどうかはさておき、藤井氏以外にもコメに着目した主要な論者がいる。
 彼はおそらく三橋氏の食糧自給率の考え方の変化にも影響を与えている。 
 関岡英之氏だ。
 関岡氏もTPP反対論の中心人物の一人であり、中野氏との共著があり(「TPP 黒い条約」(集英社、2013年))、三橋氏との対談本も出している(「検証・アベノミクスとTPP 安倍政権は「強い日本」を取り戻せるか」(廣済堂出版、2013年))。
 中野氏推薦の「国家の存亡」(「TPP亡国論」の2カ月後に発売)で(https://youtu.be/WBNbnWR3f64?t=15m39s)、関岡氏は次のように言う。


関岡英之 「国家の存亡」 (PHP研究所、2011年) 118~124ページ

国家観が欠落した農業ビジネスの論理

 「平成の開国」を掲げるTPP参加推進派の論理は、第1章でみたごとく誤謬だらけだが、最もはなはだしいものは「日本の農業は閉鎖的」という農業鎖国論であろう。
 図④は、主要国の食料総合自給率を比較したものである。もちろん、農林水産省が発表しているカロリーベースのものだ。
 日本の総合食料自給率が現在、約四十%であることを知らない人はいないだろう。他の主要国は、農業大国である米国とフランスは完全自給、工業国であるドイツ、金融立国の英国でも七割以上は確保している。日本の劣後がよく指摘されるところである。
 最近、この話をしようとすると「待った」がかかる。なぜなら、カロリーベースの自給率は無意味だ、生産額ベースで計算すると自給率が六十パーセントを超えていることを隠蔽するための農林水産省の陰謀だ、と主張する論者が巷間もてはやされているからだ。
 この説は意外にも草の根の保守層にも浸透している。「日本の農業は、本当は強い」「市場規模で見れば日本は世界第五位の農業大国だ」などというキャッチ・フレーズが、どうやら愛国心をくすぐるようだ。
 だが、日本は、国連加盟国192カ国のうち、第10位の人口大国で、中国やインドよりも物価水準が高く、そのうえ激しい円高に見舞われているのだから、農業生産「額」が大きくなるのは別に驚くにはあたらない。
 「生産額ベースで見れば食料自給率は六十パーセントを超えているのだから問題はない」という言説は、国家の重要課題から国民の目をそらすという点で、むしろ有害である。
 生産額論者は、野菜や果物はカロリーが低いのでカロリーベースでは過小評価されてしまう、だから野菜と果物を正当に評価するためにはカロリーベースではなく、生産額ベースで考えるべきだと説く。
 農業生産額に占める割合を見ると、米は六〇年代にはほぼ五十%だったが、二〇〇五年には二十三・一%まで減ってしまい、野菜の二三・五%を下回っている。生産額論者は、日本の農家は旧来の米作りから、もっと儲かる野菜や果物にシフトしてきたと指摘しているが、それはその通りだ。
 最近、マスメディアが「成功している農家」の例として採りあげるのは、野菜農家や果物農家ばかりで、稲作農家が話題になることはまずない。むしろ稲作農家は「零細」で「兼業」だから日本のお荷物だ、といわんばかりに厄介者扱いされている。だが、果たしてそれでいいのかと私は問いたい。
 最近、はやりの「付加価値が高い」「競争力が高い」とされる農作物の代表例はトマト、イチゴ、梅、電照菊などだが、野菜や果物が含むビタミンは微量栄養素といって、それだけでは人間は生存を維持できない。切り花にいたっては食べられないではないか。やはり穀物からエネルギーを補給し続けなければ、私たちは生きていけないのだ。
 インドのベジタリアン(菜食主義者)でさえ、摂取しないのは動物性たんぱく質だけで、主食はやはり穀物である。
 私たち日本人の場合は、稲作が伝来した弥生時代以来、二千年以上にもわたって米を食べることによって固有の歴史を築いてきた。金銭的な付加価値が高いからと言って、トマトやイチゴばかり食べて生きていくことはできないのだ。
 要するに、生産額ベースの食料自給率を振りかざす論者は、徹頭徹尾ビジネスの論理からのみ農業を見ているに過ぎず、そこには国家観というものが根本的に欠落している。それだけに、自らが外国のプロパガンダのお先棒を担いでいることについても無自覚である。いや、食糧安全保障論を「国粋主義的」で「軍事的な響きさえある」と糾弾するその表現から、むしろ反国家主義的性向を見抜くべきである。
 「付加価値が高い」「競争力が高い」、だから野菜や果物にシフトすべきだというのは、まさに亡国の論理以外のなにものでもない。

重要なのはカロリーベースの穀物自給率

 図⑤は、主要国の穀物自給率を比較したものである。食料全体では百%を割り込んでいた工業国であるドイツや金融立国の英国さえ、穀物に関しては持久を確保している一方、日本はむしろ総合食料を大幅に下回る二十八%とさらに劣化している。
 なぜ、主要国は穀物の自給率を維持しているのか。穀物は主食だからだ。常温で何年も備蓄できる穀物は、有事の際の戦略物資だ。つまり主要国は、穀物だけは経済の論理ではなく、国家安全保障の論理から、補助金をつぎこんで自給を死守しているのである。
 そして、このグラフを見れば、日本が頑迷な農業保護主義の国、貿易自由化を阻害する閉鎖的な問題国だというのが、いかに実態とかけ離れたプロパガンダかということが一目瞭然である。
 主要国で、日本ほど外国産穀物を野放図に受け入れてしまっている「開かれた」国はない。もし、主食の米まで自由化してしまえば致命的だ。それは安全保障の観点からは完全なる武装解除を意味し、国家の自立は永久に不可能となる。
 それにしても、米の自給率が九十五%を維持しているのに、穀物自給率が二十八%に下がってしまうのはなぜなのか。
 図⑥(上)は、米以外の主要な穀物である小麦、大豆、とうもろこしの最近の輸入依存率である。パンや麺類の原料である小麦は八十六%、醤油、味噌、豆腐などの原料である大豆は九十五%、主として飼料用に輸入されているとうもろこしに至っては一〇〇%、輸入品に依存しているのが現状である。
 図⑥(下)は、それぞれどこの国に依存しているかを示したものである。小麦の五十四%、大豆の七十七%、とうもろこしの九十六%を我が国は米国に依存している。
 日本はすでに米国の農家に充分過ぎるほどの市場を開放しているのだ。これ以上譲歩しろと迫られるいわれはない。
 TPPに参加すれば、最後の砦である米まで輸入に依存するようになる。穀物自給率は二十八%から三%に下がってしまうと試算されている。一億を超える人口を抱えながら、主食の自給率がゼロに近い国など、もはや国家としての自立を完全に放棄しているといわざるをえない。TPPに参加することは、国家として武装解除するに等しい。

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 10月のTPP大筋合意において、関岡氏が言う「最後の砦」のコメの関税は守られた。
 つまり、藤井氏的な考え方をすれば、稲作文化を基盤とする皇室の文化伝統は守られ、国体は守られたということになる。
 わが国は国体を守る戦いに勝利したのだ。


「安倍内閣総理大臣記者会見」 首相官邸HP平成27年10月6日
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/1006kaiken.html

「 自由民主党がTPP交渉参加に先立って掲げた国民の皆様とのお約束はしっかりと守ることができた。そのことは明確に申し上げたいと思います。
 中でも、聖域なき関税撤廃は認めることができない。これが交渉参加の大前提であります。
 特に、米や麦、さとうきび、てんさい、牛肉・豚肉、そして乳製品。日本の農業を長らく支えてきたこれらの重要品目については最後の最後までぎりぎりの交渉を続けました。
 その結果、これらについて、関税撤廃の例外をしっかりと確保することができました。これらの農産品の輸入が万一急に増えた場合には、緊急的に輸入を制限することができる新しいセーフガード措置を更に設けることも認められました。
 日本が交渉を積極的にリードすることで、厳しい交渉の中で国益にかなう最善の結果を得ることができた。私はそう考えています。」


 めでたしめでたし。

 と言いたいところだが、浅川氏は、ここにこそ落とし穴があるという。
 これが私には衝撃だった。
 なお、TPP賛成論者は「関税は消費者負担になる。関税撤廃は消費者の利益になる。」と言い、TPPの利益を言う(TPP賛成論者と言えるかはビミョーなところだが、山本博一氏の解説。https://www.youtube.com/watch?v=_8JOWOGQXiw)。
 上の井尻発言・藤井発言を確認する過程で気づいたのだが、かかる賛成論の理屈は彼らに対して説得力を持たない。彼らは聞く耳を持たない。
 TPP反対論者は、消費者の利益を重視する「コンシューマー・キャピタリズム」を嫌う。彼らに言わせてみれば、こんなものは国家観なき経済論に過ぎない。
 しかし、浅川氏の切り口は、「コンシューマー・キャピタリズム」を嫌う彼らにも通用するものだと思われる。
 関税を残すことこそが、稲作の衰退を促し、食品加工工場の空洞化を促してしまうというのだ。
 ほとんど書き写してから気がついたが、この論考は今月1日にインターネット上に公開されていた_l ̄l○(http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/2671?


浅川芳裕 「TPPはアメリカの言いなり」の嘘」 (Voice平成27年12月号、PHP研究所) 50~59ページ

「(中略)
 日本の農政に目を向ければ、時代錯誤的なTPP認識がいまも続いている。妥結後、農政はTPP対策一色である。すなわち、交渉参加前からこれまで五年間繰り返された「TPPで日本農業壊滅」宣伝戦略の延長戦<ママ>上で、「農業予算の増額と分捕り合戦」が再燃しているのだ。
 同時に、TPP妥結で、「危険な食品が大量に入ってくる」「日本人の安全な食が侵される」といった従来からの報道や国民認識も根強く残っている。
 双方の議論とも的外れだ。
(中略)

国際交渉に勝利したという幻想

 次に、第一の論点に移ろう。TPP農業交渉の問題点とその後の農政のあり方である。妥結直後の安倍総理の会見内容にすべてが集約されている。
「聖域なき関税撤廃は認めることができない。これが交渉参加の大前提であります。特に、米や麦、さとうきび、てんさい、牛肉・豚肉、そして乳製品。日本の農業を長らく支えてきたこれらの重要品目については最後の最後までぎりぎりの交渉を続けました。その結果、これらについて、関税撤廃の例外をしっかりと確保することができました。(中略)新たに輸入枠を設定することとなる米についても、必要な措置を講じることで、市場に流通する米の総量は増やさないようにするなど、農家の皆さんの不安な気持ちに寄り添いながら、生産者が安心して再生産に取り組むことができるように、万全の対策を実施していく考えであります」
 コメについて要約すれば、自由化は避けた(現在の国産米より高いkg三四一円の高関税を維持)。その見返りに、輸入枠は増やした(米豪から五・六万t、十三年目以降七・八四万t)。その分、政府が買い上げる国産米の量を増やしていく。その結果、コメの供給量は変わらないから、米価の下落を抑えられるはず。加えて、補助金を増額するから安心してくれ、とのメッセージである。
 総理はTPPでコメを守ったというが、これでは日本の稲作産業は衰退まっしぐらだ。今回のTPP交渉でコメと競合となる麦については、関税に相当するマークアップ(農水省が輸入時、徴収する差益)は四五%から最大五〇%削減されることになる。つまり、麦の価格は下がっていく一方、コメの価格は高止まりをめざす、といっているのだ。よって、麦を使った食品開発はさらに進み、買いやすくなる一方、人為的にコメ離れが進んでいく。さらには、農水省は飼料米への補助金額を大幅に増額し、家畜用の作付面積を増やすことで人間が食べられるコメを減らし、隔離する愚策強化を図っている。
 この最悪の政府シナリオを予見し、筆者は今年八月二日段階で次のように問題提起したが、現実のものとなってしまった。
「TPPの妥結が迫っている。しかし、日本政府は相変わらず、コメの輸入枠を増やすという禁じ手で交渉相手国の譲歩を最後まで求めている。自由貿易を否定する暴挙であり、国家同士の管理貿易強化に帰結する。これは、米国にとっては自由競争をせずとも、日本への輸出枠を確保し、自国の農業界に対するメリット提供を意味する。対する日本政府にとってはコメの輸入量を人工的にふやすにもかかわらず、『聖域を守った!』と喧伝できる口実となる。あたかも国際交渉に勝利したという幻想=国内政治的ポーズを農業界に対して示すことだけに意味があるのだ。つまり、国内に農業・農村票をかかえる日米の政治家同士の手打ちである。しかし、その結末は、日本の消費者の負担増のみならず、国内穀物生産の減産政策を助長し、残念ながら、より補助金に依存する農業政策に直結する。このシナリオの勝者は、輸入権益、補助金予算を自動的に強化、増大できる日本の農水官僚である」(『日本よ!<<農業大国>>となって世界を牽引せよ』あとがきから一部抜粋)
 換言すれば、国主導の農政に先祖返りである。発展に真っ向から逆行する、三つの政府介入①国家貿易の維持②作物差別的な補助金設計③食品工場の海外移転促進政策がTPP後も継続されることになった。
 本来、農家の創意工夫で増産すれば、作物は余るものだ。余ったときに農業は初めて産業になる。どうやって売るか考えるようになるからだ。面積当たりの収穫量は増え続け、土地も余る。それは農家にとって、ボーナスである。同じ面積で、新たな作物に取り組め、収入が増やせる機会になるからだ。輸入が自由化されれば、世界から新たなコメ食文化、商品が広がる出発点に立てる。モノの動きを不自由にしたまま、継続的に発展した産業はいまだかつてない。
 最悪なのは、①の農水省のコメ輸入独占業務「国家貿易」を温存したことである。その一点をもってして、筆者にいわせれば、TPPは”たるんだ”協定となった。この広がる経済圏において悪しき慣習をつくってしまったからだ。将来的に参加の意向を示している中国の農産物マーケットを想定してである。政府は輸入を規制したまま、コメの輸出振興を図っているが、そんな自分だけに都合のいいルールなどありえない。
 かつてのレアメタル問題に代表されるように、貿易への国家(国営企業や政府による)介入は中国の十八番である(ちなみにロシアはウクライナ問題に対する経済制裁として、農産物の輸入規制を継続中だ)。要するに、いずれ中韓露が参加以降を示した際、日本自らが介入を「聖域を守った」と正当化するなか、彼らの介入を禁止する条件交渉で積極的な役割を果たせるはずがない。もちろん、日本が高関税を残したままでは、相手国に対して関税撤廃どころか削減交渉すらできるはずもない。このままでは中国マーケットに向けた農産物の輸出増大は絵に描いた餅である。

農業保護政策が食品工場の海外移転を促した

 現在、中国は日本米に対して法外な権益条件を課している(日本米には中国未発生のカツオブシムシがいるとされ、輸出前に全量「燻蒸」しなければならない。当然、食味は下がり、コストは上がる。昨年の中国向けの輸出額はわずか八〇〇〇万円にとどまっている)。その他、輸出解禁されている品目は青果がメインで、牛肉や乳製品は禁止されたままである。
 もう一つの問題点、③食品工場の海外院展促進の加速化についても触れておこう。
 長年の農業保護政策とは、食品の基本原材料(政府でいう「聖域」である重要品目)に高関税を課す一方、加工食品については低関税か無税で輸入することだった。食品産業はこれまで、重要品目と政府が呼ぶコメや麦、デンプン、砂糖、バターなど乳製品、生肉など基本食材を国際価格の二、三倍で調達してきた。工業界で例えれば、日本だけが石油や鉄、銅などを他国の数倍の価格で輸入しているハンデを背負った状態と同じである。
 この政策が何を促すか一目瞭然だ。食品工場の海外移転である。日本で高い原料を買うより、海外で原材料を調達、加工し、低関税か無税で日本へ輸出したほうが儲かるからだ。われわれが日常食べているものの七割が加工品である。農業界にとっても、最終顧客の大半が加工業者であることを意味する。にもかかわらず、この政策によって移転を促進させ、国産農産物の実需低減、地域雇用の低下をもたらすなど、地方の疲弊に直結してきた。これが背景と経緯である。
 他方、農産物の域内関税を大幅削減したEUでは各国の得意な原材料農産物の移動が自由化したため、食品産業の競争環境が整った。そのおかげで、食品加工が得意な国・地域に原材料が集まり、農産物の輸入が増えるほど輸出も増えるという加工貿易が活発化した。同時に、海外需要が増えることで、国内農産物の需要も底上げされる環境が整い、農業の成長産業化が始まる契機となった。

輸入を不自由にすれば輸出も不自由になる

 今回のTPP交渉で、筆者が当初から低減してきたとおり、日本も「聖域」をなくしていれば、農産物の加工貿易が発展するスタートラインに立てたはずだったが、結果は違った。低関税・中関税だった加工品のほとんどは数年で無税化の道を辿り、上に挙げた「重要」品目は徐々に関税は下がるものはあるが、安倍総理が力説したように、全般的に「聖域」が残ってしまった。
 要するに、原材料農産物は高関税のままか少しだけ下がり、加工品は一気に下がる。これでは食品産業にしてみれば、短中期的にも長期的にも海外で製造したほうが「よりお得」という結論しか導き出せない。聖域が残って、農業者の顧客がいなくなっていなくなっては本末転倒である。売り先の減少により、国内農産物の過当競争が激化し、農場の利益率が低下する。農業保護どころではない。
 この点については、気が早いといわれるかもしれないが、TPP再交渉戦略についてまたの機会に詳しく提言したい。
 もちろん、妥結によって農業界にメリットがまったくなかったわけではない。日本の農産物輸入関税が下がったと同様、ほかの加盟国の関税も下がった。数例を挙げれば、マレーシアとベトナムのコメ関税が四〇%からいずれゼロに、両国やメキシコのミカンやブドウ、モモ、リンゴなどの果実に対する数十%の関税も同様に撤廃される。世界最大の農産物輸入国であるアメリカは、ほぼすべての品目で関税撤廃に応じた。日本からの有力輸出品目であるコメや牛肉、日本酒、茶、さくらんぼ、イチゴ、メロン、ナガイモ、切り花、醤油などである。
 日本だけが自由化を求められているような論調があったが、結果を見れば明らかに違っている。他国の自由化率(関税ゼロの品目の割合)が平均九九%に対し、日本は唯一、九五%止まりともっとも開放比率が低い。
 参加当初は、「TPP交渉参加一一カ国は食料の輸出国ばかりだから日本のみ輸入が急増する」との反対論があったが、こちらは端から事実と異なっていた。一一カ国の農産物輸入こそ急増している。経済成長と人口増加によって、ここ十年で、八五九億ドルから二三〇八億ドルへと約三倍増している。TPP輸入市場とは日本農業にとって輸出市場である。日本の農業GDP六五三億ドルの四倍に迫る農産物マーケットが現れたのだ。
 過去五年間、情緒的で無根拠な反対論が際限なく繰り広げられるなか、その再反論に筆者も奔走してきた。今回のTPP妥結に不十分とはいえ意味があったとすれば、われわれに自由の原点を少し思い出させてくれたぐらいだ。
 輸入を不自由にすれば、輸出も不自由になる。経営を不自由にすれば、発展も不自由になる。不自由は現状維持さえ危うくする。長く続いてきた保護主義という名の不自由強制を当たり前と思い、そんな基本的なことを忘れがちであったのではないか。
 過熱化しはじめたTPP対策予算の分捕り合戦を繰り広げている者に告げる。農家の自由はTPPによって生まれるのではない。日本の農業界が自ら戦い、勝ち取っていくものである。「農業のことは農業の当事者、農家の判断に任せればいい」――それが真の自由かである。」

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 なんと、稲作を保護するために残した関税によって、稲作は「衰退まっしぐら」になるというのだ。
 実はコメの関税を残すことが国体破壊だったという皮肉な話である。
 「”TPP亡国論”亡国論」状態だ。
 なお、私はTPPによって国体が破壊されるとは思っていない。
 あくまで藤井氏のような考え方をすれば国体破壊になるというに過ぎない。

 浅川氏のこの論考が絶対に正しいかどうかは私には分からないが、説得力はあるし、食糧安全保障や食料自給率を重視するTPP反対論者もかかる考え方があることを知っておいてよい。
 反論があるなら、関岡氏が「国家の存亡」において、明言はしていないが、浅川氏を批判したように、また浅川氏を批判して自説を立てればよい。
 浅川氏はこの論文で、中野氏を中心とするTPP反対論者たちを「国際通商協定の分析についてずぶの素人」とまで言っている(54ページ、http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/2671?p=1)。
 「俺はずぶの素人ではない」と言うのであれば、浅川氏の批判を受け止め、反論した方がよい。
 チャンネル桜も、「我々が視聴者に伝えたのは立派な専門家の解説だ」というのであれば、浅川氏のこの論考を無視すべきではない。
 とはいうものの、私もこの頃チャンネル桜のTPP解説を見ておらず、ひょっとしたらそういう番組を既に放送しているのかもしれないが。

 国家観ある高邁な経済論を打ち立てるのも結構だが、ビジネスの論理が欠落してしまうと、現実的な政策提言にならないのではないか。
 ビジネスマンたちはビジネスの論理で動く。
 コメがわが国の文化伝統にとって重要なものであるとしても、ビジネスの論理と無関係ではおれない。
 こう言っては悪いが、コメはあくまで食料なのだから、どうやって作るのではなく、どれだけ作るかの方が重要なのではないか。
 特にコメを戦略物資というのであれば、なおのこと、どんな手を使ってでも生産量を上げるという発想を強くした方がよいのではないか。美しい田園風景をある程度確保しつつも、効率化を促すべきではないか。
 稲作だって当初から今の「すがた」だったのではなく、変遷を経て今に至っている。現在見られる水田の風景が見られるようになったのは近世以後であり、中世までは縄文時代以来の焼畑耕作が広く行われていた(西村幸祐「21世紀の「脱亜論」 中国・韓国との訣別」(祥伝社、2015年)74~77ページ)。伝統的な美しい田園風景というものは、焼畑耕作よりも短い期間しか見られない。状況に応じて、これからも変遷はあり得るし、コメを生産し続けること自体が第一義的に重要なのだと思う。
 また、TPP反対論者は従来より効率的な稲作が可能になる規制緩和を嫌っていた覚えがあるが、効率性を上げずに自給率を上げるなど無理筋だ。
 コメの生産を効率化して、余った人員で他の穀物を生産すれば、わが国の穀物自給率は上がるだろう。
 美しい田園風景を守るために効率化を拒絶し、コメ価格が高止まりすれば消費者はコメ離れを起こすし、穀物の増産も阻害するから食糧安全保障も高まらない。
 効率化を推進するといっても、TPP亡国論者が守りたいとする美しい田園風景が全滅するわけがない。伝統的な農法で作られたコメを食べたいという需要が消えることはない。
 「国家の存亡」の上の引用部分の後に、大東亜戦争敗戦後、日本の食文化がアメリカの介入によっていかに変えられてしまったかが書かれている。アメリカの小麦を押し付けられ、米食バッシングが行われた。
 そういう歴史を思えばこそ、アメリカは日本の稲作の敵だ、稲作を保護しなければならない、という感情が強まるのだと思う。
 しかし、そういう感情が強まると、思考が曇ってしまうところがあるのではないかと思う。

 私は、稲作を伝統芸能と同じく保護しようとするところに、TPP反対論者の誤りがあるのではないかと思う。
 稲作を歌舞伎と同じように保護の対象にしてしまうと、かえって有害なのではなかろうか。
 歌舞伎はそれ自体で市場を形成しており、競争相手がいない。オペラが歌舞伎の代わりになることはない。
 しかし、コメは穀物市場で他の穀物と競争しなければならない。朝食はご飯でなく、パンでもよいのだ。
 それこそTPP亡国論者たちが言うように、小麦は米豪の大農場で効率的に生産されているわけで、わが国のコメも効率化の努力をしなければ、穀物市場で対抗することができない。
 では歌舞伎には競争相手がいないから保護の必要がないかというと、文化のコストは高くなる一方であり、放っておくと庶民がこれを楽しむことができなくなってしまうため、補助金が投入されている。ただし、投入額も投入の仕方も不十分だという批判がある(竹中平蔵「日本経済こうすれば復興する!」(アスコム、2011年)50~55ページ、http://ameblo.jp/bj24649/entry-12089959253.html)。
 他方でコメの生産コストは創意工夫によって下げることができる。
 稲作を伝統芸能扱いしてしまうと、かえって稲作の維持発展を阻害してしまうのではないか。

 ところで、保守言論人は、小林秀雄や福田恆存を重んじる。
 両者の対談で小林は歌舞伎を「亡びた芸術」と言う。


小林秀雄 「直観を磨くもの 小林秀雄対話集」 (新潮社、平成26年) 272~276ページ

芝居と生活

福田 こんどは日本の芝居を話しましょうか。ぼくは昔の築地小劇場を見てないんですけども。
小林 ぼくも見てないんだ。嫌いだったから。(笑)ぼくは、ほんとは芝居って、好きじゃないんだよ。
福田 そうでしょうね。
小林 芝居が嫌いで、見もしないのに、雑誌へ芝居のことを書かされたり、座談会で考えさせられたりするのは、なんとも困ったことなんだ。やっぱり芝居っていうのは、劇場にあるんですよ。活字とは違うんだね。
福田 困ったな。結論みたいなことになっちゃったな。しかしサルトルなんていう人だって、そうでしょう。あれは芝居が好きで芝居の中で育ったという人じゃないし、カミュだってそうでしょう。
小林 アヌイという人はどうなんです。
福田 アヌイのほうが面白いですね、芝居としては。
小林 やっぱり芝居の中にいた人なんですか。
福田 さあ、それはどうですかね。よく知りませんけども、しかし、もっとズッと芝居らしい芝居ですね。・・・・・・歌舞伎のほうは?
小林 歌舞伎の話なんてないですよ。亡びた芸術・・・・・・。とにかく芝居っていうものは、机上で成るもんじゃないんだからね。そういう雰囲気があって、そういう注文があってさ、それでやるもんじゃないの。
福田 ・・・・・・どうも、そういえば、文学者はみんな芝居嫌いなのかも知れないな。
小林 あなた、「シラノ」見た?
福田 芝居のほうが見ましたけど、映画のほうは見ません。
小林 あれも何だか妙な気がして来るなあ、見ていると。
福田 それは原作の問題ですか、文学座で今やるっていうことですか。
小林 あなた、芝居っていうのは、スペクタクルじゃないだろう?
福田 ええ、スペクタクルじゃないですね。
小林 だから、そういう意味だよ。だって、生活がなきゃダメだもの。実際に親しい生活がなきゃ。そういうことは判り切ってることなのに、どうしてちっとも判んないのかね。
福田 それは実に不思議なんです。歌舞伎が亡びたって小林さんが言われるのも、そうでしょう?
小林 歌舞伎はちがうんだよ、「シラノ」とは。
福田 ええ、「シラノ」とは違いますけどね、歌舞伎を支えてきた生活と、われわれの生活とは、ギャップがありますね。だけども、歌舞伎はまだわれわれの生活感情に通うものがあるんだけど、「シラノ」には全然ないですからね。あの「シラノ」をまた、お客が楽しんで見てる。ぼくは実は不思議なんだけども。
小林 一種のショウみたいに思えて来るんだね。見ていると。ああいうものは如何に名翻訳でも、やって芝居にする事は難しいのだな。
福田 ずいぶんお客が入ったけど、若い人が多かったですね。新劇のお客っていうのは、交替するんだな。いま面白がって見てるのは、戦争中、新劇なんていうものを見なかった人でね。だから、あの新劇っていうものに食いついてるでしょう。しばらくすると飽きちゃうんですよ。長い間、続かない。そうすると空白時代が来て、いわゆる新劇の寂れる時代が来るでしょう。その空白時代がしばらく続くと、新劇を知らない連中が溜ってきて、それがまた見出す。そういうことを繰返しているんじゃないかな。なぜ飽きるかというと、自分たちの生活感情と全然合わない翻訳劇をやってるっていうこともあるだろうし、レパートリーの問題、その俳優のオハコができるくらいにやって初めて面白味が出るものじゃないかと思うんだけど・・・・・・。こういうことは、小林さんはもうずいぶんいろいろ言われましたね。
小林 そうだよ。もう、言う事なんか何にもありません。」

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 そして、歌舞伎は、世代を越えて受け継がれてきた古典の側面があると言ってもよいと思うが、小林は、岡潔との対談で、古典についてこう言っている。


小林秀雄、岡潔 「人間の建設」 (新潮社、平成22年) 144~147ページ

素読教育の必要

小林 話が違いますが、岡さん、どこかで、あなたは寺子屋式の素読をやれとおっしゃっていましたね。一見、極端なばかばかしいようなことですが、やはりたいへん本当な思想があるのを感じました。
岡 私自身の経験はないのですが、ただ一つのことは、開立の九九を、中学二年くらいだった兄が宿題で繰り返し繰り返し唱えていた。私は一緒に寝ていて、眠いまま子守唄のように聞き流していたのです。ところがあくる日起きたら、九九を全部言えたのです。以来忘れたこともない。これほど記憶力がはたらいている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするといいと思いました。
小林 そうですね。ものをおぼえるある時期には、なんの苦労もないのです。
岡 あの時期は、おぼえざるを得ないらしい。出会うものみなおぼえてしまうらしい。
小林 昔は、その時期をねらって、素読が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これが、本当に教育上どういう意味をもたらしたかということを考えてみる必要はあると思うのです。素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。「論語」を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。
 「論語」はまずなにを措いても、「万葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということがで出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としてこの方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。古典の鑑賞法という種の本を読んでみても、鑑賞ということは形式で、内容は現代語訳的な行き方をしているものが多いと思っているのです。
 やかましい国語問題というものの根本にも同じことがあります。福田恆存君なんかが苦労してもなかなかうまくいかない。私なんか運動というようなものは甲斐性がなくて一向だめでお役に立たないが、問題の中心部は大変よく感ずる。国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。福田君は愛情から出発しているのです。ところが国語審議会の精神は、その名がいかにもよく象徴しているように、国語を審議しようという心構えなのです。そこには食いちがいがある。愛情を持たずに文化を審議するのは、悪い風潮だと思います。愛情には理性が持てるが、理性には愛情は行使できない。そういうものではないでしょうか。
岡 理性というのは、対立的、機械的に働かすことしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。理性は捨てることを肯じない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。
小林 お説の通りだと思います。」

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 芝居が成立するには「親しい生活」が必要で、歌舞伎を成立させる「親しい生活」はなくなってしまった。
 だから歌舞伎は「亡びた芸術」なのだ。
 しかし、「親しい生活」そのものはなくなったとしても、依然として「われわれの生活感情に通うものがある」。
 また、古典は古典として存在し、その「すがた」に親しむこと自体に価値がある。

 先人たちが世代を越えて親しんできた古典には今を生きる我々にも親しむ価値があり、また、歌舞伎のような芝居はいったん途絶えてしまうと再生が著しく困難だ。
 だから歌舞伎が「亡んだ芸術」だとしても、補助金を出して継続していかないといけない。

 他方、稲作は「亡んだ芸術」ではない。
 稲作は今なお「親しい生活」の中にある農業だ。
 「すがた」に親しんでも我々の「胃袋」は満たされない。
 我々の「胃袋」を満たすのは生産されたコメだ。
 また、「すがた」を保ちたいという価値観の押しつけが、食品加工の空洞化をも促進してしまう。

 浅川氏の「Voice」論考を読んで私は大変驚いた。
 TPP亡国論者によって「TPPで国体が破壊される」と思い込んでしまった人は、これを読んで考え直してみるとよいと思う。