こちらの記事の続編になります。

 

 

発達障害を持つ人が感情や心の機微に理解が無い・疎い、鈍いなどするとよく言われますが、アレキシサイミア(失感情症)と関連があるとも言われています。まずこの性格特性についても誤解が多いように思います。

アレキシサイミアは、感情が無いとか薄いとかするのではなく「自分の中にある感情を認知しにくい、拾いにくい」と言われています。

本当はきちんと心が動いているのに、その持ち主本人ですらそれを感じ取ることができない。だから、やがて爆発したり、だいぶ時間が経ってから事実に気づいたり、抱え込み過ぎて病んでしまうということもあります。自分は何も感じていない、だから平気だと"誤認してしまう"ことで発見が遅れる、といった具合です。

また、ASD側には"身体の疎外感"、自分の肉体なのに自分の感覚と繋がっていないような、自分と自分以外の世界との間に一枚の透明な壁があるような、そんな「自分の体なのに自分のものではない、外界と繋がっていない」、外界の動きに合わせて即座に行動できないような現実感の無い感覚がある人も少なくありません。

 

これらのために雑に扱われ、ある程度被害に遭うまで不快や危険に脅かされていることに気づくのが遅れてしまうという傾向が強くありもします。生育環境的に自分自身の心を開いたり主張を通したりできなかった経験があるならなおのこと、自分が悪い・自分のせいだと思ってしまって気づくことができなくなってしまいます。

これは「搾取される側になりやすい」ということでもあります。

 

空気が読めない、他者の心がわからないのではなく「自分とはかけ離れた存在だから」合わせようとして逆に空回りしてしまう、過剰に適応しようとしてしまって失敗するといったことが挙げられます。かれらはかれらなりにたくさん考えてひねり出そうとしています。

見ているものが大きく違うし常識だと思っているものも大きく異なる。誰も何も教えてくれない、どうすればいいのかの方法や答えもわからない。そんな中でついていこうとして、転んでしまうしストレスも抱えがちになる。しかし周囲からは、疎まれたり責められたりしてしまう。

知らない、わからないのにできないことで怒られる、ハブられる。

これが「生まれ持った特性」からくるものですから、好きでこんなふうになってるんじゃないとも訴えたくなるでしょう。

 

かれらにもかれらの心がある。かれらなりに他者の心に寄り添おうとする姿勢もある。しかし"景色"や"生きてきた世界"が違い過ぎる故に、ベストとは言わずともベターすらわからない。そのうえ成功体験を積みにくくもある。

育ての親が精神疾患や発達障害に理解がある人間とは限らない。勇気を出して相談をしてみたのに否定や拒絶、無理解を示されて心を閉ざしてしまったり諦念に取りつかれてしまったりすることもある。

単なる自分の甘えにすぎないと思い、過剰適応の道を選んで心身を壊してしまうまで止まらないケースも山ほどある。

正常ではない自分、他とは違う自分を好きになれず、セルフネグレクトに溺れてしまい帰ってこれなくなる場合もたくさんある。

だからと言っていわゆる"フツウ"を目指そうとしてみてもひたすらに苦痛があるだけだったりもする。結果、自害してしまう、ことも少なくありません。

 

 

それなのに「なんか変だから(不快だから)」「違う存在だから」というだけで、分け隔てられるような対応をされることが絶えないのもまた事実です。

人間は、直感に従って"異分子"を排除しようとする危機回避の働きが強くプログラムされている生き物です。

これは「そうではない人たち」が「そういう人たち」への理解と受容を示し、お互いの歩み寄りが必要であることを示唆します。

社会的な問題や都合において、そう簡単に理想が実現できるわけないだろうという背景も、理解はしておかなければなりません。

たとえば、障害者雇用で職場の人間に理解を促されたとしても、そのしわ寄せを受けることとなった人たちから鬱積が噴出するなどです。

理解を示そうとしてくれる人間でさえ"その程度でしかない"という場面に出くわすこともあります。しかしそれは「だからこそもっと適切な答えが必要」であるあらわれとも考えられます。

 

そこで思考や工夫、どうしていけばいいのかという部分を止めてはいけない。

発達障害を持つ人の中にも"成功者"は存在しますが、それは少数派であることも知らねばなりません。なぜかと言えば、そこにも世間が誤解を持っているからです。ですが適材適所、きちんとしたところに当てはめてあげられれば、輝き出す人はきっと多いです。世の中の理解が、まだそこまで到達できていないように感じています。

 

 

「常識なんて偏見の塊」とも言うそうです。自分が狂っていない正常だなんて錯覚かもしれないのに自信満々な人だらけです。

なぜ自分はそうではない、障害者がそうであるといえるのか、そこに傲慢さあるいは選民思想的なものもあるような気さえします。

発達障害は個性、なんて言ってしまうのは理解の無さへの助長ですが「特性の偏りでしかない」のは確かでしょう。

そこに異常も正常もないはずです。ここについて、よくよく考えていただきたく思っています。