短期間の帰国でしたが、いろいろあり、ホントーにいろいろあり、中国へ戻って来ました。
いろいろはおいおい書いていくとして…
「時空警察ヴェッカー デッドりーナイトシェード」の全公開日程が終わりました。
観に来てくださった方、また二度三度観に来て来てくだった方、来れなかった方も、応援ありがとうございました。
そして制作スタッフ、キャストの皆さん、この作品に関わった(巻き込んでしまった)すべての方々に改めて感謝致します。
改めて自分で観直してみると、あの頃(脚本を書いた頃)の自分の死生観がロコツに出ている気がします。
一瞬とはいえ心肺停止まで至った…ところから生還したベッドの上で書いた、僕にとっての「生きる」ことの意味。
誰かに、何かに生かされているから生きているのだという想い。
そして「どうして俺(に限って)がこんな目に…」という本音も(これは沢口慎也刑事がぜんぶしょってます)。
2008年春、「これから」という時に(文字通り)倒れ、周囲にいた人がことごとく離れていった。
企画が進行していた「ヴェッカーシグナ」の続編映画企画も、ヴェッカーzeroとなる新作映画企画も、(銀河劇場でやる予定だった)舞台化企画もみんな消えた。
その頃、確執があったにも関わらず、何度もお見舞いに来てくれた渡洋史のような人もいた。しほの涼ちゃんも来てくれた数少ない一人だった。そして何より、ココに今も来てくださる方々の中に僕の「生還」(ブログの復活)を待っていてくれた人はいた……けど、僕はいろんな意味でやはりあの時、一度死んだんだと思う。
それから
4年かかって
ヴェッカーシグナ続編としての「ハイペリオン」を
まったく構想を変え、文字通り舞台を変えて「ヴェッカーサイト」を
そして、今年になって、やっとヴェッカーzeroとなる新作映画も(まったく内容は変わったけど)公開できた。
最初の(倒れる前の)構想とはぜんぶ変わったけど…
これが歴史というものでしょう。
「デッドりーナイトシェード」はそのまま花の名前。「死に誘う女神」の名でもある。
この物語の主役は花の名前を持つ少女たち。
紫苑だけでなく、すべての少女たちに花言葉にまつわるエピソードを作ってあった(本編では全然描けてないけど)。
この物語はこの世には存在しないハズの彼女たちが、確かにそこに「いた」記憶。
唯一そうではない双葉蓮が見た記録に残らない記憶だ。紫苑の存在すらも。(それゆえに蓮は本作の「主演」である)。本当はこの物語はおばあちゃんになった蓮が死ぬ直前に孫(春日さりあ)に話した彼女の記憶をたどる物語だったので。
それゆえに「すべての歴史につながるzeroの物語」としたのだけど…
この作品はやはり「ヴェッカー」のzeroの作品にはなり得ない、これ1本単独で「デッドりーナイトシェード」という作品なんだと思う。
僕自身がすべての台詞を自分の言葉で書いている、唯一の作品でもあるけど(故に「脚本家」の力を思い知らされるのだ)。
画作りも、脚本も、人物描写もなるべくリアルに、を心がけた。唯一リアルではない(でしょ?)北島隼人はそれゆえにああいう結末となった。
実は後編の構想もありました、とパンフレットにもココにも何度か書きましたが、改めて観治すとあれはやっぱりあれで完結しているのです。
隼人は紫苑に刻まれた数少ない本当の記憶として、彼女の中で永遠に活きていくでしょう。
この作品も観て頂いた方の記憶に、どういう風にでも、少しでも残っていけば嬉しいです。
感想メール、長文メッセージ&レポート頂いていますが、さらに思うところあればなんでも、コメント頂けると嬉しいです。
DVD化が実現しますようにっ!!