もともと私は、一つのことに没頭して瞑想することや、流れる景色を眺めながらアイディアを膨らませることが好きです。
それによって、自分と周囲の成長を楽しんできました。
子供の頃に読んだ科学雑誌で描かれていた未来の人類像を覚えています。
人々は頭に無数のコードが張り巡らされたヘルメットをかぶり、椅子に座りながら体に栄養を補充している姿でした。
その光景に、子供ながらに背筋がぞっとしたのでした。
今、スマホの画面に夢中になっているサラリーマンや、果てには子供たちの姿を見ると、あの時感じた嫌悪感のようなものを思い出します。
そして私はそっとスマホの画面を消し、再び流れる景色に目を向けるのです。
私にとって本当に必要な情報は、天気や次に来る電車の時刻くらいでした。不本意なニュースやスキャンダル、
SNSで繋がったり、「いいね」欲しさの投稿、動画や音楽コンテンツの視聴など、どれも私にとっては不要なものです。
それらに触れない一日でも、心は穏やかでいられます。おそらく、信仰生活を通じてそのような心の在り方を身に付けたのだと思います。
現代人は、どうにも我慢ができないように見えます。
電車を待っている間、トイレの中、お風呂の中、歩きながら、食べながら、寝る前も朝起きてからも、常に何かの情報に触れていないと落ち着かない。
そう感じるのは私だけかもしれませんが。
依存性を感じてしまうからこそ、私は溢れる情報から意図的に距離を置きたくなってしまうのです。
信仰生活も同じことが言えるでしょう。
閉ざされた世界にこもりすぎると、外の世界が見えなくなり、孤立してしまうこともあります。
もし、私がいつかこの場所から消えてしまったら、それは外の世界が恋しくなったからだと、ご理解ください。