私はかつて、毎週教会に通い、「神を信じる者」として、「クリスチャンである」という強い自覚を持っていました。そして今は、そのような明確な意識は失われています。
かつては、「クリスチャンらしく振舞おう」と努めたり、教会のコミュニティ内でタブーとされている事柄を避けたり、兄弟姉妹との対立を避けるために、言葉を選んでいました。今はそのような「クリスチャンだからこうすべき」という枠組みから解放された感じがしています。
私が気づいたのは、「私は何者でもない」という感覚です。以前のように「信者」というアイデンティティを持たないで、弟子としての歩みからも離れています。時折この状態にあって、ある聖書の言葉が浮かんだのでした。
「私と父は一つである」(ヨハネ10:30)この個所は、イエスがご自身を神と同等としたゆえに、多くの反発を受けた場面なのですが。
私は自分を神であると主張するわけではないのですが、この言葉に触れるとき、「何者でもない」この意味が新鮮に思えてくるのです。もしかすると、これは、自身を普遍的な存在として受け入れることではないか。
聖書の中で、私はアブラハムでもあり、ペテロでもあり、野の花や空の鳥でもある。そして、聖書を超えた新しい物語を紡ぎ出す創造主となる可能性を秘めているのだと。
この視点に立つとき、自分自身と創造者との関係を見つめ直す世界を旅をしているのだと思います。私のこの感覚が、あなたにも新しい気づきをもつことができますように。
