点心の知恵・点心のこころ

中山 時子, 木村 春子
点心の知恵・点心のこころ (生活人新書)
冒頭に1900年代前半の北京の話が出てくるのだが、それが著者自身の思い出話というので驚く。朝陽門外の崇貞学院の寮に居て、銃声が響く中、先生の家に駆け込んだとのことだが、この先生は桜美林の創設者の人か。なんだか歴史の生き証人みたいな人だが、そのまま中国に残留し、北京大学を卒業し、帰国して東大の中国語学科も卒業したらしい。ということで、60年代に海外旅行が自由化されて香港に行ったというのも日本の話。海外旅行自由化は韓国でも80年代末期だったが、中国人の香港旅行が始まったのも90年代に入ってからだった様な気がする。と、そんな話は本の内容とは関係ないのだが、共著者(弟子?)の人ともに「北京派」なので、北方食い物の話が基本。例のダンボール肉まんが信憑性を持ちえたのも、舞台が北京だったからということもあるのだが、南の人間にとっては、どうも北京の「点心」などには食指が動かない。しかし、正月にギョーザを作ってコインを中に入れるというのは当たりは幸運だとしても衛生的にどうなのか。「飯」は「犯」に繋がるからギョーザを食ってメシを食わないとのことだが、北の人は正月に関わらず、あんまりメシは食わないんではないか。80年代北京の「飯」は正に「犯」であったことを思い出したが、あれなら、たしかにギョーザが無難だ。となると著者の過ごした50年代の北京の「飯」はどんなものなのか気になるところだが、その辺の思い出話はナシで、なぜかアフガニスタンの武勇伝などが書かれている。インドでチャパティーを焼く婦人を見て、中国を思い出したというのも感慨深い話だが、私はトルティージャを焼くグアテマラの婦人を思い出した。そんな感じで、歴史の証人である著者ではなく、もっぱら弟子の人が「実務」を担当しているのだけど、どうもこちらの人も、実は北京メシより、香港飲茶とか台北夜市の方が気に入っている模様。まあ、それも当然といえば、当然なのだけど。
★
北京

倉沢 進, 李 国慶
北京―皇都の歴史と空間 (中公新書 1908)
早くも始まったのか、ちょっとフライングしてしまったのか分からぬが、出版各社も、オリンピックの時期に投入する北京本の準備は進んでいることだろう。もっとも来年の今頃はそれも返品の山となるのだから、新書だし、先行で攻めて開催時にピークに持っていくには、今頃の出版がよいのかもしれない。1934年生まれの日本人と1963年生まれの中国人の共著というのも、何だか両国の形を表している様な感じもするのだが、両者は不思議な出会いから友情を育んできたとのこと。それがどんな出会いで、どんな友情なのかは詮索する余地が無いのだが、老教授の方は特に中国とは関係ない都市社会学の人で、若手教授の方は日本プロパーの人らしい。こちらは中国社会科学院だが、愛国反日に従属させられる日本部門ではなく、都市発展環境センター教授とのこと。その凸凹コンビが成功しているかどうかはどう読むかによって変ってくると思うが、さすがにちゃんと仕事をしてくるなという印象。執筆パートは一応分かれているそうだが、互いにリライトしあったそうで、ほとんど単独執筆者と思うくらい文が統一されている。ありきたりの歴史解説よりも、現代北京事情の方が面白いのは当然だが、四合院のところで、中国が低信頼性社会になったのは文革からと指摘しているのが目を引く。そこで四合院でも「人情」が失われたとしている。魔の居民委員会の話もあり、外地人村の話もある。その辺りで、農民工への同情を表しているのは老教授なのだろうが、北京っ子の若手教授は外地人への不快感を隠そうともしないので面白い。かつて日本の高度成長期における農村人口の都市への吸収について講演したところ、社会科学院の研究者たちは理解できなかったなんてエピソードが挿入されているのだが、日本人教授と中国人若手研究員の出会いはそこにあったのかもしれない。
★★
この国が忘れていた正義

中嶋 博行
この国が忘れていた正義 (文春新書 (582))
犯罪における被害者保護が「正義」なのか、加害者保護が「正義」なのかは、二項対立の様で、どちらも「独善的」な正義をかざすという点では変りはない様な気もする。例えば北の「拉致被害者」を保護する人たちと、「従軍慰安婦」を「被害者」として保護する人たちは、全く正反対の立場に立つ人たちで、一方は一方に冷淡で、相互乗り入れをすることはないのだが、最近の光市母子殺人事件を巡るゴタゴタでも、「正義」とは法ではなく、「政治」なのだという事に対する一般国民の戸惑いが表れたものではないかとも思う。弁護士で、作家であるという著者の主張は文春を代表したものでもあろうが、「正義」を国民の手に取り戻すということが、死刑制度維持や犯罪被害者の手厚い保護に収斂されるというのも、「正義」の単純化である可能性を否定できない。この国が、アメリカの様に「正義」と「悪」がハッキリさせる国でないことは、著者も重々承知のことであろうが、著者が「アメリカ型人権」を否定するならば、懲罰ではなく、更生教育を主とした「日本型人権」を是とする必要も出てくる。著者は更生モデルではなく、賠償モデルという形を提案しているのだが、つまるところ「民事」はあまり機能していないということなのだろうか。法の支配か、感情の支配かといった二元論ではなく、法の整備と義務の徹底化で、「正義」を取り戻すのがやはり正論なのであろう。
★★
ベースボールの夢

内田 隆三
ベースボールの夢―アメリカ人は何をはじめたのか (岩波新書 新赤版 1089)
「野球」ではなく、「ベースボール」の歴史のお話。とはいっても、「ナンバー」ではなく、「岩波新書」なので、選手にスポットライトを当てて、ドラマをでっち上げるなんてものではなく、社会学的にアメリカにおける「ベースボール」の意味を考察したもの。著者も東大で社会論などをしている先生の様で、「大リーグファン」なのかもしらんが、特に野球関係の著書がある訳ではないらしい。と思ったら、ちくま新書の『社会学を学ぶ』を書いた人だった。あの新書には、「社会学を学ぶそ!と、この新書を手にした若者を、読後一気に奈落の底に沈めそうな本」といった感想を書いたことがあったのだが、こちらの新書は、とても同じ著者とは思えない柔らかなもの。クリケットからボールゲーム、ベースボールへの進化の過程は、アメリカ的価値観の体現といった社会学的なテーマが隠されていた訳だが、私にとってはスポルディングやニッカーボッカーといった御用達のお品が、ベースボールの誕生と深く関係していたことが感慨深い。最近、相撲や柔道で、日本の伝統云々と国際的拡がりの動きに軋轢が生じる事態が引き起こされているが、そもすると、ベースボールもアメリカの伝統的競技である以上、野球選手たるもの、白人男の勇ましさを身に付けなくてはならないということになる。マツザカは知らんが、ホームランではなく、ヒットばかり狙うイチローはそれとは別のキャラであろう。ヤク漬になりながら、毎年の様に記録が生まれ変わるホームランに対し、年間安打数が半世紀以上も破られなかったのはそういうことらしい。青柔道着やパンツフンドシに文句をつけるなら、「野球」と「ベースボール」は別のスポーツであるというのも詭弁ということになろう。
★★
日曜日に読む『荘子』

山田 史生
日曜日に読む「荘子」 (ちくま新書 678)
日曜日まで待てば良かったのだろうが、ついつい満員電車の中で読んでしまった。やっぱりこの方面の話はよう分からん。それでも、日曜日に正座して読むより、満員電車に揺られながら読む方がリアルに感じる人は多いのではなかろうか。著者は中国哲学が専門ということだが、おそらく勤務先の授業も学生の興味を惹くことに苦労しているのだろう。そうしたことを念頭に置いた変化球の「荘子」論なのだが、哲学系はそんな小手先なことをすると、ますます複雑怪奇になるからタチが悪い。ある人曰く、原語で読めば全てが解決するとのことなのだが、たぶん、それが正解なのだろう。その意味ではギリ哲とか印哲といった中身も外見も記号そのもののヤツよりは、荘子はまだ親しみがあるのだろうが、それでも『荘子』を目標に中国語を勉強するのも効率が悪すぎる。もっとも、この世界は「わからないから面白い」という、それこそ哲学的な価値観が存在していて、ある意味マゾ的な趣向の人が集うところなのかもしれない。著者はキェルケゴールを例に挙げたりしている。『僕って何?』を書いた人は高校時代にその『悲劇の誕生』を読んで感銘を受け、文筆家の道に進んだそうだが、読んでもさっぱりワケ分からんかった高校生の私は、早々と夢をあきらめてしまった。薄々感づいてはいたが、あれもハッタリだったんだろう。ということで、哲学は自分なりに分かったつもりになることがポイントだということは分かった。この新書を読む限り、荘子は、如何にも中国的な孔子とか孫子より自分には合いそうだということは分かった。必要のないものを読むことも、必要のあることである。
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