諏訪信仰
総本社は、諏訪湖を囲むように4社に分かれて鎮座する「信濃国一之宮 諏訪大社」
諏訪信仰の神社名としては、諏訪神社、南方(みなかた)神社、周方(すわ)神社、洲波(すわ)神社などがあります。
総本社の公式サイトで公開している諏訪神社系列の神社数は全国約1万社とあって、
これまた先の信仰グループ別の神社数2616社とは数にかなりの違いが見られます。
主祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)
こちらの神様は大国主神の子で、国譲りの話で抵抗して、諏訪(今の長野県)まで追い込まれて、この地を出ないことを約束し鎮座することになったとか。
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その一方で、地元の諏訪で伝わる神話では、建御名方神(たけみなかたのかみ)は、侵略者とされ、諏訪大社は先住民の勢力の上に、外から入って来た勢力によって成立したと考えられている。
ちなみに日本一神社数が多い新潟県でも建御名方神を祀られているところが952もありました。(八百万の神というサイトによる)
建御名方神は妃や13柱の子と共に信濃の国造りを進め、開拓神、風と水の守護神、農業神、山林の多い信濃では狩猟も盛んだったことから狩猟神としても崇敬されました。
平安時代になると諏訪大社の神職であった諏訪氏は同時に武士としても活躍していたので、諏訪大社も主祭神の建御名方神が、最強の武御雷神(たけみかづちのかみ)=鹿島神宮の主祭神にも挑んだ勇気が認められ、殺生を伴う狩猟と武士の親和性から武神としての性格も帯びるようになりました。
鎌倉時代に入ると諏訪氏は、幕府の御家人、さらに執権・北条氏の御内人(家来)となったため、諏訪大社は源頼朝から厚く崇敬されたり幕府から庇護を受けて武神としての評判も高まり「日本第一軍神」と称えられ、武士を中心に全国各地から勧請されるようになったそうです。
武田信玄をはじめとする戦国武将にも崇敬されました。
↑このフワフワの白い毛の付いた兜は「諏訪法性(はっしょう)兜」と言い、
諏訪明神を表わした兜とされます。
6年に一度、寅年と申年に行われる「御柱祭(おんばしらさい)」が有名。
諏訪信仰のご神託
諏訪大社は本殿を持たず、自然そのものをご神体とする古い信仰の形を今に伝えています。
諏訪信仰では、殺生は罪悪だから狩猟して鹿など四つ足動物の肉を喰らう事を忌み嫌われている時代にも、お諏訪さまから神符を授かり、諏訪の人々が厳しい自然を生き抜く為に狩猟を行い、鹿肉を食べる事を赦されました。
形ばかりの精進潔斎をする者よりも、
ものを食べても真心を込めて祈る者を救おうという、
諏訪大明神のご神託があるのが諏訪信仰の特徴と考えられます。