本来、剣と鏡だけだった神器 | 心の鏡

心の鏡

天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

玉・鏡・剣の三種の神器を挙げる場合、「記紀」(=古事記・日本書紀)では「玉」を先に掲げ、日本書紀においては「玉及鏡」と「及」の字を挟んで記載している。

このことは本居宣長が『古事記伝』巻十五でいうように、深く考慮すべき問題を示唆している。

 

…ということで、今日も神社検定公式1級用テキスト『神社のいろは要語集 祭祀編』から引用させていただいて三種の神器の話を書きたいと思います。

テキストでは、昭和21年(戦後すぐ)の日本国憲法制定にあたって天皇の地位を巡って論争が重ねられた時、神器を公的財産と見なすべきか皇室の私的財産と見なすべきかが帝国議会において問題になったことや、結果的に三種の神器の意義については変わらなかったこと、昭和35年にも池田勇人内閣総理大臣が神宮に祀られる鏡について皇祖が皇孫に授けられた八咫鏡であるから、神宮が自由に処置することのできない特殊な御存在であると答弁した内容が記録されていることなど記されて、

古代中国の九鼎(きゅうてい)や藤原氏の朱器台盤(しゅきだいばん)という祭具についても書かれていました。

で、私もそれを読んで書き写そうと試みたのですが、肝心の鼎(かなえ)などの写真が無くて、自分自身の理解が足りないので割愛させていただくことにしました。

 

 

  三種の神器、どれが先か?

さて、三種の神器の玉・鏡・剣の中でのどれが先か問題。

テキストの見出しでは、「玉が先か、鏡剣が先か?」と鏡と剣はひとくくりにされています。

虫めがね本居宣長の見解

崇神天皇は鏡剣を他所に斎き祭りましてより、玉のみが皇祖の授け賜えるままの物であるから、この時から、まず玉を第一に記すようになった。

また「玉は本は軽きが故なり」とも解している。

というのも『日本書紀』の継体天皇紀、「神祇令」『令義解』「大殿祭」祝詞の一文を読んでも、それらには鏡剣の御璽(みしるし)が出て来ても、皇位の御しるしとしての八尺瓊勾玉の記載は特にないからだそうです。

 

  玉は皇祖神の魂の象徴

なぜ玉は特に記載がないのかと言えば、皇祖神の霊魂を象徴する八尺瓊勾玉は、天皇と常に一体不二で離れて存在することはあり得ない。

皇祖神の魂に対する敬意を表しているからこそ、三種の神器を列挙する時には自明のこととして瓊玉を特記せず鏡と剣との二種だけが挙げられたのである。…とのこと。

 

  なぜ三種か?

それでは、なぜ本来二種の神宝だったのに三種と言われるようになったのか?

それは「三」という数が五や七という数値と共に大陸諸民族の間で聖なる数とされた為と思われる。

 

  曲妙・分明・平天下の象徴

『日本書紀』によれば、仲哀天皇が熊襲を討って筑紫に行幸された時、伊都の県主(あがたぬし)が穴門(あなと)の引嶋(ひこしま)に迎えたという。

県主はこの時、五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を船に立て、上枝には八尺瓊を、中枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を、下枝には十握剣を掛けて装飾し、

天皇に向かって、

「この八尺瓊の勾れるが如く曲妙(たえ)に御世を治(しら)すべく、白銅鏡の如く分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなわ)せ、十握剣を提(ともひさ)げて天下を平(む)けたまえ」と奏上したという。

ここにおいて、上代にあっては三種の神器は「曲妙・分明・平天下」という徳を象徴するものだったことが分かる。

 

※三種の神器観展開と深化については、まだ続きがあるのですが、これから私は胃の検査をしにクリニックに行くので、一旦ここで区切らせていただきます。